人生を捧ぐ

 最年少のタイトルホルダーの誕生という見出しは、テレビや紙面で大きく報道された。
「よう、本因坊」
 見知った後ろ姿に声をかけてやれば、いつも通り脳天気な表情をしたタイトル保持者である青年が振り向き、右手を上げて挨拶を返してくる。
 本因坊の座に長く座していた桑原を制し、己には考えられないほどの速さで強くなっていった友人。羨みも恐れも、憧れすら抱いてしまったのは何年も前のことだった。
「テレビでも結構流れてたな。ファンも増えたんじゃねえ?」
「さあ。よくわかんねえ」
 こいつは数年前から意外にも女性ファンが一定数いる。年配の男性――とくに騒がしい感じの人からはよく可愛がられているタイプだったが、成長し少年から大人になる頃には黄色い声もちょくちょく聞こえてきていた。棋士とはいえ人気商売でもある。女性人気はこの現本因坊であるこいつのライバル――塔矢アキラばかりと思っていたが、人気は分散されているらしい。
 まあ確かに、碁をやるような風貌には見えない。見た目は完全にどこにでもいる軽そうな大学生だ。幼さがまだ残る顔は、芸能人で例えるならばテレビで見るようなアイドル歌手の系統の顔なのだろう。塔矢アキラよりは、己も他人からは碁をやっている人間には見られないのだが、こいつほどではない。
「今日手合なのか?」
「いや、今日はインタビュー。面倒くさいよな、あれだけ写真も撮られて散々話したんだぜ」
 はっきりと口にした面倒という単語に和谷も苦笑いを返した。自分がその対象になったとしても、同じことを思いそうだったからだ。勿論口にするなんてことはしないが。
「しゃあねえよ。なんせ塔矢を押しのけてお前が先にタイトル獲ったんだからな。昔はお前のが一歩及ばないって感じだったのに、いつの間にか追い越しちゃってさ」
「別に追い越したなんて思ってねえよ。たまたま獲れたとも思っちゃいないけど」
「……ほんと、ようやくその大口が似合うようになってきたな」
 昔からでかい口を叩く奴だった。その割には弱くて、笑われたりすることもしばしば。第一回の北斗杯での見事な勝負を見せてから、ようやく彼は周りの連中すべてから実力通りの評価を得られたような気がする。
 こいつの底の知れない強さは、その時からどんどん認められるようになっていった。タイトルを手にし、塔矢よりも上だと評する者もいた。
 でかい口を叩くわりに実力の伴わない時代からこいつに注目していた者たちもいたが、それと同時に問題児だと白い目で見ていた者たちを和谷は知っている。こいつを恐れると同時に、認められて喜ぶ自分もいたのは確かなのだ。
「そうだ進藤、道玄坂でな、皆で貸しきってお祝いしようって話してたんだ。お前いつ行ける?」
「お祝い? 碁会所で?」
「そう。かしこまった場だとお前いつもそわそわしてるじゃん。進藤にはパーッと適当にやるほうがいいだろってな。居酒屋も話してたんだけど、マスターが店でやればいいって言ってくれてさ」
「いつでも行けるぜ! パーティとか、俺肩身狭くって落ち着かないんだよな」
 明るく笑った進藤の表情は昔と変わらない。碁盤を前にしていない進藤は相変わらず子供という印象だ。
「よし。じゃ、来週寄ろうぜ。皆に声かけとくよ」
「おう! 楽しみだ」
 またな、と声をかけて和谷はその場を離れた。


 パーティの当日、手合では白星をおさめ、和谷は棋院の一階を覗いた。一人で棋譜を並べる進藤を見つけ、院生時代からの知り合いである伊角と奈瀬とともに傍へと近寄った。
「終わったの?」
「ああ。小宮たちはもう向かってるってさ。行こうぜ」
 並べていた碁石を片付けて進藤が立ち上がる。一人で碁を並べていたら色んな人にサインをねだられた、とぼやく進藤を奈瀬が窘める。
「ファンって大事なのよ。自分の碁を好きだって言ってくれる人なんだから」
「そうじゃなくてさあ、俺のきったねー字を大事そうに抱えて持ってくから、なんかちょっと」
「ああ……申し訳ない?」
「それ」
 こいつの字は汚い。和谷もお世辞にも綺麗とは言えないが、それでも進藤よりはましだと思っている。ノートですらミミズののたくったような字なのだから、大きく書けばもっと見栄えは悪い。書いた棋譜が読めるレベルなのが幸いだ。
 それでも進藤という棋士が書いた文字というだけで価値があるのだと思わされて、なんともいえない気持ちになる。
「ペン字でも習ったらどうだ? これからサインする機会も増えるだろうし」
「碁以外で机に向かうのかあ」
「繋がってるだろ、ちゃんと。申し訳ないと思ってるならできると思うぞ」
「うーん」
 唇を尖らせて右手を見つめる姿に三人は苦笑いを零した。人気が高まると実力以外にも悩みは増えていくらしいということが見て取れる。
「あれ? あいつ」
 知り合いを見つけたらしい進藤が視線の先へ顔を向け、え、と言葉にならぬ声を漏らした。進藤が走り出し、つられるように三人も小走りで追いかける。
「あかり! ……筒井さん!」
 勢い良くこちらを向いた髪の長い女の子と、人の良さそうな風貌の眼鏡をかけた青年だった。二人は同時に笑顔を見せ、進藤の傍へと駆け寄って行く。
「筒井さんだ! すっげえ久しぶり! 何してるのこんなとこで!?」
「進藤くん! 本因坊おめでとう! 僕すっごく感動してもう、」
 眼鏡がずり落ちるのを気にもせず青年が興奮したように進藤へと詰め寄る。一瞬たじろいだ進藤だったが、会えて嬉しいという気持ちが強いのか、今日一番の笑顔を見せている。
「ヒカルのお祝い、皆でしようって話をしててね。集まろうとしてたところなの」
「皆?」
「そう」
 ちらりと女の子が曲がり角へ視線を流した。四方にはねた頭をかきながら、進藤とそう変わらない歳の青年が角から顔を出す。
「――三谷」
 心底驚いたように進藤が名を呼ぶ。睨んでいるような、ただ見つめただけのような視線を進藤へと向けながら、青年はよう、とぼそりと呟いた。
「見たぜ、本因坊」
 一つ瞬きをして、進藤は嬉しそうに笑みを漏らした。
「三人で、俺のお祝い?」
「おっと。俺を忘れてもらっちゃ困るな」
 和谷たちの背後から声がして、進藤が振り向くよりも先に扇子が彼の頭へ音を立てて当てられた。
「……加賀!」
 扇子ではたいた青年の姿をようやく目にした進藤が叫んだ。
「よう、進藤。頑張ってるみてえじゃねえか。結構結構」
 広げられた扇子には王将の文字があった。ん? と和谷が首を傾げると同時に進藤がこちらを振り向いた。
「中学の囲碁部で一緒だったんだ。あかりと筒井さんと三谷と、あと加賀」
 進藤らしい紹介の仕方に伊角が苦笑いする。加賀と呼ばれた青年は不服そうに進藤を睨んでいる。
「俺は囲碁部じゃねえだろ。ちゃんと紹介しろ」
「加賀は将棋部。でも碁も打つんだ」
「へえ」
 将棋を指す人の中には碁を打つ者も少なくないというのは聞いたことがある気がする。本当だったのか、と和谷はぼんやりと考えた。
「なあ、これから碁会所でお祝いやってくれるんだ。行こうぜ」
「え、でもいいの? ヒカルのお祝いなんでしょ。私たちはまた別の日に……」
「いいっていいって。筒井さんたちとも久しぶりに打ちたいしさ。な? 和谷」
「集まってパーッとやるだけなんだけど……それで良ければ」
 さほど人数制限も設けていないただの集まりである。主役が連れて行きたいというならば、それは汲んでやらなければ楽しみも減るだろう。多少強引な進藤の誘いは、彼ならではだ。
「……相変わらず、人の意見を聞こうとしねえ奴だな」
 和谷にとってその呟きは面倒そうに感じたのだが、当の進藤は嬉しそうに笑っていた。女の子が三谷と呼ばれていた青年の背中を押して、一行は歩き出した。

「なんか、ここも久しぶりだなあ。最後に来たのリーグ戦始まる前だったっけ」
「ああ、そういえばマスターが言ってたな、最近来てないって。河合さんも騒いでた」
 進藤がよく顔を出していると聞いてから、和谷と伊角も時折出向くようになっていた。マスターや奥さん、常連の年配の人たちにも良くしてもらっているという自覚はある。進藤ほど可愛がられているわけではないと思うが、それなりに良い関係を築いていると和谷は思っている。そうでもなければ、碁会所を貸し切るなどしてもらえなかっただろう。
「進藤くんいらっしゃい!」
「うわっ!」
 進藤が扉を開けると同時にクラッカーがそこかしこで鳴らされ、先頭に立っていた進藤の頭へ紙吹雪が降りかかる。足を止めてしまったおかげで進藤の真後ろにいた囲碁部の面々が背中にぶつかっていった。
「あいたっ。もう、ヒカル!」
「わっ、藤崎さんごめん」
「おい、進藤! 止まるな」
「何やってんだお前らは」
 一歩離れていた加賀と和谷、伊角と奈瀬はぶつからずに済んだが、なおも進藤は入り口をせき止めていた。押し込めるように無理やり和谷が前にある背中を押す。
「何突っ立ってるんだよ! 早く座れよ本因坊!」
「今日は腕によりをかけた料理があるからね、食べていってくれよ」
「おう、進藤! ようやく顔出しやがったな! さっさとこっち来て打つぞ!」
 賑やかに出迎えた碁会所の常連客たちと、院生の頃の仲間たち。そしてこの道玄坂のマスターと奥さん。皆が進藤の登場を心待ちにしていたのが手に取るようにわかり、和谷の頬は自然と緩んでいた。
「史上最年少の本因坊のお祝いなんだから、張り切って準備したんだよ。楽しんでいってくれ」
 きょろきょろとせわしなく進藤の頭が揺れる。賑やかだが普段の道玄坂とは違う雰囲気と装いに、こいつも面食らっているようだった。
 かくいう和谷たちも、幕まで貼ってあるのには驚いた。
 どうやら店の常連たちがマスターとともに作ってくれていたらしい。てっきり場所だけを提供してくれるのかと思っていた和谷は、ここまでしてくれるのか、とマスターの好意に感謝を伝える。
「いいんだよ。進藤くんや君たちが来てからお客さんも増えたんだ。それに間近で彼の成長も垣間見ることができた。喜んでくれているようだし、お祝いを店で、と言った甲斐がある」
「俺まだ本因坊獲っただけだぜ。本番はここからなのに」
 言葉とは裏腹に進藤の口元は緩んでいる。
「何言ってるんだい。タイトル獲るだけでも快挙だよ。いいから早く座んな」
 ぶっきらぼうな奥さんの言葉にようやく進藤も腰を落ち着ける。
 この集まりは和谷の案であるが故に、乾杯の挨拶をしろと周りから囃し立てられ、和谷はグラスを持って立ち上がった。
「あー、今日初めての人もいるけど、まあ気にせず楽しんじゃってください。未成年はお酒飲むなよ。じゃ、進藤の本因坊位奪取を祝って、乾杯!」
 碁会所である会場全体が和谷の一言でわっと沸く。見知った面々ばかりの分、進藤も楽しそうに笑っていた。

「え、筒井さんあかりと同じ大学なの?」
「僕も最近知ったんだけどね。藤崎さんが同好会に入ったの最近だから。あとね、北斗杯も毎年見に行ったよ」
「ええ、ほんとに? 筒井さん、ずっと見に来てくれてたんだ」
「当たり前だよ! 進藤くんの最後の出場の時なんか、加賀も一緒に――」
「筒井! 余計なこと言うなよ」
 筒井の額に扇子を突き刺し、加賀は言葉を止めようとする。時間があったから見に行ってやろうと思っただけだ、と照れ隠しとも思える言い訳を零すに留まっていた。
「なんだ。加賀も見てたのか」
「まあ、知り合いの活躍は気になるだろ。お前なんかただの悪ガキだったからな、勝負と関係ねえところで恥晒してねえかって」
「うるさいな!」
 プロになって五年だぞ! と食って掛かる進藤を見れば、慌てているようにも見える。ましになったとはいえ、言葉遣いや諸々とまだまだ注意されてしまうことも多いことを同じプロ棋士の者は知っている。
「それにしても、こんな遠いところにずっと通ってたんだね。院生の時から?」
「うん。最初は和谷と伊角さんと腕試しで適当に連れてこられたとこだったけど、マスターも常連の人たちもいい人だし、俺ここ好きなんだ。最初さ、囲碁部の大会みたいに団体戦でお客さんに挑んで、勝ったら席料タダとかやってたんだぜ。囲碁部に戻ったみたいでさ。すっげえ楽しかったんだ」
 院生もプロ棋士も、一人で戦う。仲間であろうと敵同士なのである。それが悪いことではないけれど、腕試しで碁会所をまわった時の記憶は、囲碁部のときのような一体感を進藤は感じていたと口にした。
「ふうん。お前囲碁部好きだったのか」
「好きだったよ! 当たり前だろ。あの時の三面打ちだって、俺楽しかったんだ」
 結局それを最後に囲碁部は辞めたけれど、皆でわいわいと打つ碁は楽しかったと進藤は言う。ピリピリした空気で打つ碁も勿論好きだけど、とも続けた。
「三面打ち? ああ、あの時のあれか。なら今やるか? ちょうどいるじゃねえか、同じ面子が」
 にやりと笑う加賀は楽しそうだ。三谷の片眉がぴくりと上がる。
「え、加賀?」
「せっかく碁盤がこれだけあるんだ。あれからどのくらい強くなったのか、また見せつけていけよ進藤」
 さっさと始めようぜ、と加賀が言い、筒井は三谷を見やった。三谷は進藤を見つめたまま、いいぜ、と呟いた。
「藤崎さんも囲碁部だったんでしょ? 四面打ちにしてもらったら?」
 近くで話を聞いていた奈瀬は藤崎へと声をかける。彼女の答えは否だった。
「これは、あの時の三面打ちだから、私はいいんです」
「あの時?」
「ヒカルが囲碁部を辞めた時の、三面打ちだから」
 微笑んで四人の成り行きを見守る藤崎を奈瀬は見つめ、互先で始めようとする四人へ視線を戻した。
「お願いします」
 その一言は、その場にいる全員の視線を盤上へと誘った。

 かたやタイトルホルダーと、部活程度の三人との実力は火を見るよりも明らかではあるが、進藤は置き碁ではなく互先で力を調整して勝負をしていた。事情を知らぬ見守る連中は指導碁ではない内容に意外そうに盤面を見つめている。
「まあ、わかってはいたつもりだが、お前に手加減されると腹が立つな」
「なんだよ、それ」
 加賀の一言に進藤よりも大口を叩く奴がいるな、と思うのは、囲碁部だった時の進藤の実力を知らない者たちだろう。目を見張るほどの成長を遂げてきた進藤ですら、囲碁部を辞める当初は加賀には敵わなかったのだという。今の進藤しか知らぬ者には信じられぬ話だった。
「……加賀さあ、碁打ってるだろ」
「寝ぼけてんのか?」
「これの話をしてるんじゃねえよ。碁、最近も打ってるんだろ」
 ぴたりと碁笥に伸ばす手が止まる。加賀の視線は進藤を捉えていた。
「好きなんじゃん」
「バカ言え」
「俺将棋はわかんねえけど、加賀はどっちも好きってことだよな。欲張りなやつ」
 豪快に頭を掻く加賀は、心底面白くなさそうに表情を歪めた。その様子を黙って見ていた筒井と三谷が揃って吹き出す。
「加賀、昔は本当に嫌いだって感じだったのに。碁好きになれたんだ?」
「バッカ野郎! 俺は好きとは言ってねえだろ」
「打てばわかるよ。そういえばあの時も楽しそうだったよな」
 塔矢が嫌いで、詰碁集を破り捨てたあの加賀はもうどこにもいない。確信したように呟いた進藤に、加賀は大きな溜息を吐いた。
「おっかしいの。あれだけ嫌いだって言ってたくせに。囲碁部に関わってたから感化されたんじゃん」
「憶測で話を進めるな。これだから囲碁部は」
「おい。勝手に囲碁部でまとめるな」
「うるせーガキ。お前らなんか囲碁部で充分だ」
 楽しそうに声を上げて笑う進藤と筒井と、睨み合う三谷と加賀。在りし日のことを思い出したように、藤崎も笑っていた。
「ありません」
「ここ、あんまり粘らないほうが良かったね。手をかけて随分損してる」
 筒井の一言に進藤が反応し、その場で検討に入る。引き続き加賀と三谷の盤面も勝負を進めていく。よくある指導碁の一環で、棋士である和谷、伊角や奈瀬には見慣れた光景だった。
「筒井さんも強くなったね。同好会に強い人いるの?」
「そうだね、アマの大会でいい線いくような人が一人いるよ。それに藤崎さんも、随分強くなってて驚いた」
「へえ。大会とか出るの?」
「人数が少ないしさすがに団体戦はないけど、アマの大会には何度か応援に行ったりかなあ」
「筒井さんも出ればいいのに」
「あはは、僕なんか一発でやられて終わりだよ。……でも、勉強になるよ。ありがとう進藤くん」
「俺も楽しかった。ありがと筒井さん」
「……負けました」
 筒井との会話が途切れた頃、三谷から投了の言葉が紡がれた。思わずといった様子で進藤が顔を上げる。
「……何だよ」
「……いや」
 筒井の時と同じように碁石をどけて検討を始める。それを三谷はぼんやりと眺めていた。
 その様子を、筒井もじっと見つめている。
「……進藤」
「なに?」
 眺めていた碁盤から目を離すことなく、三谷は進藤を呼んだ。進藤もまた手を休めることなく碁石を並べている。
「タイトル。七大タイトル、全部獲れよ。何年かかってもいいから」
 驚いたのは進藤だけではなく、盤面を眺めていた周りの者も表情や声で驚きを見せていた。ぽかんと口を開けて見つめる進藤の顔に視線は向けずに、三谷は続ける。
「本因坊も誰にも渡すなよ。高段者なんかお呼びじゃねえ。塔矢なんか突き放してやれよ。制覇しろ」
 騒然としたのは仕方のない事だろう。ましてこの場には、進藤と同じプロ棋士がいるのだ。相手にならないとすら言われているように思われても仕方ない。
「お前なら、やれるだろ」
 ようやく顔を上げて進藤と視線を合わせた三谷の表情は、確信の色が見えていた。否を言わさない視線の強さは、周りも言葉を発するのを躊躇するほどだった。
「……簡単に言ってくれるぜ」
 口元を歪めて進藤が呟いた。言葉とは裏腹に瞳には強い光が灯っているようだった。
「はははっ! そりゃあいい!」
 筒井の横で打っていた加賀が声を上げて笑い、持っていた扇子で進藤を指す。
「だが俺はこのガキほど甘っちょろいことを言うつもりはねえぜ。誰よりも早く制覇しやがれ。最年少での制覇。そんで全部防衛しろ。一生な。これがお前の課題だ」
「加賀」
「投了だな。随分優しい碁を打たれたもんだぜ」
 言葉とは裏腹に加賀の表情は嬉しそうに見えた。実力を見せつけられたわけではないその優しい碁は、加賀が難題を吹っかけるきっかけになったようだった。
「塔矢なんぞに一つでも先に奪われてみろ。一発殴るどころじゃねえぜ」
「タイトル戦はそう簡単にいくもんじゃねえ。塔矢以外にも強いのがわんさかいるんだぜ」
「なんだ、自信がねえのか。甘えたやつだな」
「なんだとお!」
「ははは! 進藤くんは随分入れ込まれてるな。いいね、目標は高いだけいい。私は応援するよ」
「上ばっか見てると、思わぬ伏兵に足元すくわれるぜ」
「俺たちだっているんだからな」
 マスターと常連客がこぞって沸き立つなか、和谷と伊角が割って入る。同じ棋士である彼らもまた、今後も敵同士となる機会はごまんとあるのだ。
「タイトルだけに目を奪われて、周りの警戒を怠らないようにしろよ」
「あら、女流だからって舐めないでよね?」
 三谷と加賀の言葉に触発され、周りが一気に騒がしくなる。進藤の目はなおも光を失っていない。楽しげに笑みを作った進藤の表情は、七大タイトル制覇の言葉を本気で狙いに行きそうな、好戦的な笑みだった。
「そのうち本因坊の座奪ってやるから覚悟しろ!」
「譲らねえよ。絶対、何が何でも居座ってやる。――本因坊だけは、絶対」
 進藤の本因坊秀策への並々ならぬ執着は、ある時を境に顕著になった。執着の強さを垣間見せつけられた気がして、和谷は粟立つ肌を隠すように近くの椅子へと深く座った。
「本因坊だけ? しけたこと言うなよ。お前が目指すのは七冠防衛だ。俺が決めた」
「おい、俺が先に言い出したことだろうが!」
「どっちでもいいから、加賀も三谷も喧嘩するなよ」
「おい、進藤! 次は俺だ、打つぞ!」
 お祝いであったはずの場は、いつしか碁会所の本来の場へと戻っていた。これだけの人数の碁打ちと充分な碁盤があれば、当然のことなのかもしれない。
「居酒屋にしとけばよかったかな」
「いいんじゃないか? 進藤も楽しそうだし」
 和谷の言葉に伊角が返す。伊角も楽しそうに盤面と向かい合っていた。若くして本因坊位を持つ青年が、自然と皆を沸き立たせる存在としてそこにあった。