狭い街

「進藤終わったのか? ちょうどいいや。これから用事ないなら付き合えよ」
 下駄箱から靴を取り出しているところに声を掛けてきたのは、同期の和谷だった。
 院生の頃から何かと世話を焼いてくれている和谷は、プロになった今でもヒカルにとって良き友人としての位置にいる。
「なに?」
「お前パソコン買いたいって言ってたろ。俺もそろそろ新しいのほしくてさ。見に行こうと思ってたんだ」
 パソコン。そういえばほしいと思っていたのだったと思い出し、ヒカルはおう、と返事をした。機械に詳しくないヒカルにとって、和谷の申し出は有り難いものだ。パソコンなど、数年前に一時期だけのめり込んで使っただけのもの。それもネット碁だけだった。
「お前何がいいとかあるのか? 何に使いたいかしっかり把握しとけよ」
「棋譜整理とネットができればいいや。和谷、適当に見繕ってくれよ」
「お前な……」
 呆れたように溜息を吐いた和谷からヒカルは視線を逸らした。今日は見に行くだけだというが、和谷の見たいものはすでに決まっているのだろう。使うのは碁のためとはいえ、パソコンに関する知識を覚えられそうにない、とはヒカル自身も思っている。
「携帯すら買ったの最近だし、機械に興味なさすぎないか」
「いいじゃん、家に電話あるんだから。パソコンだって、お父さんの部屋にあるし。自分用じゃないけどさ」
 リーグ戦にコマを進め出したヒカルは、先日ようやく携帯を買ったと報告した。棋院に行けばたいていの者たちと顔を合わせるため、連絡を取るという発想があまりない、と言い訳をして和谷や伊角に呆れられたのは記憶にも新しい。
「お前は棋院関係以外で知り合いがいないのかよっ」
 そう言われて思い出したのは中学の頃の知り合いの顔。いるにはいるけど……と呟いたヒカルは、院生の頃の仲間にも笑われた。
 囲碁部の面々を思い出すも、眼鏡をかけた優しかった先輩には彼が卒業してから会っていないし、連絡先も知らない。幼馴染である少女にも随分会っていないが、家が近いから、という理由でいつでも会いにいけると思っている。
 そういえば、指導碁に行くと約束をしていた。あいつは元気でやっているのだろうか、とヒカルはぼんやりと考えながら和谷の後ろをついていく。
「性能の良いのは進藤には勿体ねえな。結局棋譜整理くらいしか使わねえんだろ」
「まあな。パソコン買うならネット繋ぎたいし、ネット碁はやりたいんだよ」
「お前もネット碁やるのかよ。最近は皆やり出してるもんな」
 店に展示されているパソコンを眺めながら、知識があれば自分で組み立てることもでるんだぜ、と続ける和谷に、そこまで求めていない、とヒカルが呟く。傍に寄ってきた店員に和谷がすみません、と声を掛ける。
「どういったものをお探しですか?」
「ああ、ええと、そんなに色んなことができなくてもいいんですけど……」
 にこやかに話を聞く女性店員に、ヒカルも言葉を続けようと口を開く。目が合った瞬間、あれ、と違和感を覚える。相手もヒカルを窺うような視線を向けていた。
「……ヒカルくん?」
 そう呼ぶのは小学校の頃の知り合いくらいしかいないが、女性店員の容貌はもう少し違うところで会ったような気がする。もう少し後、そう、中学校で――。
「………! 三谷のおねーさん!」
 驚いたようにこちらを見つめる和谷を無視して、ヒカルはようやく思い至ったように名を呼んだ。
「やっぱり! 覚えててくれたのね。びっくりしたわ、こんなところで会うなんて」
「あの時はありがと! 今はここで働いてるの?」
「そうよ。ねえ、ヒカルくん、私一年くらい前にネットで見たのよ。碁の大会出てたでしょう! 凄いのね!」
「あ、うん……ははは」
「祐輝が見てて偶然見たんだけど、もうびっくりしちゃったわ。今年も出てたわよね。去年は負けちゃったけど、今年は勝ってて、祐輝の友達が碁の大会で勝つなんて本当にびっくりして」
「……三谷が?」
 その名はヒカルは呼んだこともないが、嬉しそうに笑う彼女の顔を見つめた。祐輝。それはヒカルのよく知る人物の名だった。
「そうよ。あの子よくテレビやネットで見てるの。私が帰ってくるとすぐ消して部屋に戻るんだけど、見覚えのある子が――ヒカルくんが映ってて、思わず止めて私も見たの。それからずっと、私の前でも見るようになったんだけど……ヒカルくん?」
「あ、ううん、三谷……元気?」
「元気よ。その頃くらいかな。勉強もたまにだけど家でするようになったし、色々やる気になってるみたい。碁も続けてるわよ」
 その言葉をヒカルは噛みしめるように心で反芻した。へへ、と小さく笑い、彼女へ視線を戻す。
「そうなんだ。俺も負けてらんねえなあ」
「祐輝の原動力になってるみたいで。まあ相変わらず天邪鬼だけど。ヒカルくんみたいに素直でまっすぐな子が友達だと、つられるのかしらね。あの子囲碁部に入ってから楽しそうだったし」
 ヒカルくんのおかげね、と笑う三谷の姉に、困ったような笑みを見せながらヒカルは何も言わなかった。
「祐輝ね、あなたのこと応援してるのよ。口では言わないし誤魔化しみたいに碁の番組ずっと見て、誰のを見てるのかわからないようにしてるけど、必ずヒカルくんが出てるもの。私にはバレてるからもういいと思ったのかしらね。……やだ、照れなくていいのよ。たかだか祐輝があなたのファンってだけなんだから。私は碁わからないけど、でも私もヒカルくんのこと応援してるからね」
「うん……ありがと、おねーさん」
「祐輝に自慢しておくわね。今日ヒカルくんに会ったって」
「えっ、いや、それはいいよ。……三谷には、黙っといて」
「どうして? いいじゃない別に。思春期の仲違いなんてよくあることなんだから。強引に話しかけちゃえば祐輝ってすぐほだされるわよ」
「おねーさん、知ってたんだ」
「やあね、わかるわよ。ヒカルくんと出会ってから、ちょっと優しくなってたのよ。反抗期真っ只中って感じだったのに。どうせ祐輝が悪いことしたんでしょ? 気にしなくていいのよ」
「いや……」
「あ、ごめんなさい、長話して。パソコン見に来たのよね?」
 話題に入って来ていなかった和谷を思い出し、ヒカルはようやく彼へ目を向けた。ぽかんと眺めていた和谷の姿を見て、ヒカルはごめん、と口にした。
「いや、いいけど……お前、こんな美人と知り合いなのかよ」
「ていうか、同級生のおねーさん。前にちょっと世話になって」
 でかけた先で知り合いに会うのは珍しいことではないが、ヒカルにとっては驚きの人物だった。和谷はそれよりも彼女の容姿に驚いていたようだが、美人と知り合いになったのではなく、知り合いが美人だっただけの話である。
「それで、どんなのがほしいの?」
「あーえっと、棋譜……碁を打った記録をつけるのに使おうかと思って。あとネットが繋げれば……」
「碁の記録ってどういう感じのものなのかしら。スペックもあんまり低いと他にもやりたいこととか増えた時に不便で買い換える、なんてことになっちゃうし」
 和谷が現在使っているパソコンのスペックを言い、買い換える旨を伝える。彼女はしっかりとパソコンについて知識を教えてくれた。
「他にもいろいろあるから、見て回ったほうがどれがほしいってはっきりしていいかも知れないわね。そちらの方はある程度決めてらっしゃるようだから、お薦めしやすいんだけど」
「そうなんですよね。こいつ大雑把にパソコンがほしいとかしか言わねえから、俺もとりあえず連れてきたけど」
「和谷が便利だって言うからほしいなって思ったんだよ。別に今でも苦労してないし。部屋は……ちょっと紙がかさばってきたけど」
「新しいのはその分性能もいいけど、値が張るからね。予算はどのくらいなの?」
「俺、パソコンがいくらするか知らなくて。高いってことはわかるけど」
 その一言に和谷も三谷の姉も苦笑いを漏らす。
「はあ」
「何だよ」
 あまりの無知っぷりに和谷は溜息を零し、ヒカルも恥ずかしそうに悪態をついた。

「三谷のおねーさん、今日はありがと」
「どうもすみません」
「いえいえ。決まったらまた来てね」
「うん。ちょっと調べてみる」
 ありがとうございました、と頭を下げられ、和谷とヒカルは店を後にした。結局今日はパソコンを見て、話を聞いて終わりだった。
「難しいなあ。パソコンってあんなにいろいろあるんだ」
「お前が知らなさすぎるんだろ。俺、次買うやつだいたい決まったぜ」
「まじで? 和谷決めんの早い」
「俺はこういうのがほしいって決めてたからだよ」
 飯食って帰ろうぜ、とどちらともなく提案し、近くのファミリーレストランへと足を向ける。話題はヒカルが中学の時に入っていたという囲碁部の話になっていた。
「人数も少ないし、団体戦一回出るのにも苦労したんだぜ。でも楽しかったなあ。筒井さんと三谷と一年の時に出てさ、筒井さんが引退したら男子二人になっちゃうから、三谷が部員連れて来て――」
「そんで二回出たのか?」
「……ううん。俺が院生になったから、俺は一回だけ」
「ふうん。それで、二人のまんま?」
 その時に仲違いをしたことは口にはしなかったけれど、店での会話も聞いていた和谷には伝わっていただろう。敢えて口にしない三谷との関係を、和谷は問いただそうとはしなかった。興味がなかったのかもしれないが、ヒカルにとっては有難かった。
「いや、三年の時は、男子も女子も大会に参加してた。俺こっそり見に行ったから」
「お前、周りなんか気にしないような奴のくせに、意外と気にするんだなあ」
「何だよそれ」
 別に、と続けた和谷は、なんだか嬉しそうにしていた。居心地が悪いような気がしてヒカルは堅いソファへ座り直す。
「まあでも、囲碁部の奴らの気持ちもわかる気がするなあ。お前が――」
「なに?」
「……いや、何でも」
 言いかけてやめるなど、和谷には珍しいことだった。嫌なことは嫌、自分の気に入ったものにはとことん構い倒す。和谷はヒカルほどではないが、あけすけな性格だった。
「お姉さんじゃないけど、思春期の喧嘩ほどあとになってガキだったなあって笑えるもんだぜ。同窓会とかで一緒になった時は、こんなこともあったよなあって笑えるよ」
「そうかな」
「そうそう。それにさ、応援してくれてるらしいじゃん。そいつもお前のこと嫌ってなんかないし、本当は仲直りしたいんじゃね?」
 十代も後半の男に対して仲直りなどという単語を使われる日がくるとは、ヒカルも言い出した和谷も思っていなかっただろう。顔を見合わせて、同時に吹き出した。
「ま、お前が活躍してる限り、そいつはちゃんと見てくれてんだからさ」
「そうだな。そろそろ行こうぜ」
「おう」
 食べ終わった食器をそのままに、ヒカルは和谷と席を立った。何年経ってもいい。いつか囲碁部の面々と再会したい。会って笑い合いたい。すぐでなくてもいい。生きているうちに思い出話をしてみたいと、そっと考えていた。

「……ばーか」
 ヒカルと和谷が座っていた席のすぐ後ろには、顔が見えないように観葉植物が置かれている。彼らが店の窓から見えなくなった頃、茶色い髪を無造作にはねさせた頭がそっと持ち上がった。
 この街は狭すぎる。今まで一度も会わなかったくせに、今日に限って見つけてしまうなんて。会話を盗み聞きする気はなかったが、席が近い故に聞こえてしまったのだ。自分の姉と偶然出会ってしまったらしい。そして、あの姉は余計なことまで話してくれたようだった。
「チッ」
 いつか、会うことがあるなら。その時は何事もなかったように振る舞えるだろうか。
 恨んでいないといえば嘘になるけれど、それでも囲碁部を踏み台にしていったからには、誰よりも強くなってもらわないと困るのだ。しっかり頑張っていると見せつけてもらわなければ、あの時去っていった後ろ姿を眺めるしかできなかった自分たちが惨めで仕方がない。
 ――せいぜい頑張れよ、進藤。
 音を立ててテーブルに置いたのは、今週の週刊碁だった。