殴りたいわけじゃない
そもそもの話、あいつが何故己を鈍いと思っているのかよくわからない。
服部からしてみれば、鈍いのは東の名探偵こそだと声を大にして言いたいところだ。何が悲しくて欠片も意識されていない女の家に泊まり、文字通り宿泊場所だけ提供されなければならないのか。男心がまるっきりわかっていない。というか己が無理やり手篭めにするような男だったらどうするのだ。最低や、なんて真面目で口煩い幼馴染は言うだろうが、邪気の欠片もない笑顔でうち来いよ、なんて言われれば、複雑な気分になりつつも打算的な下心が頭をもたげるのは当たり前のことではないのか。当たり前ではない? この良い子ちゃんめ。
「平次かてほんまは優しいやん」
クラスの女子が言うとったわ。呆れた声音で呟いた和葉をぼんやり眺めながら、服部は赤く腫れた頬に濡らしたタオルを当てていた。こいつは女子と仲がよく、見た目も美少年という出で立ちなものだから、女子に可愛がられもてていることを知っている。だから何だという話だが。
「口ではそんなん言うけど、平次は絶対そんな最低なことせんもんな。工藤さんがどんな誘惑しても靡かんかったって?」
「いや……誘惑って」
「……珍しく頑張ってるんだよって、蘭ちゃんが」
さては気づいていなかったのか、なんて言葉をかけられてしまい、果てにはだから鈍いと言うのだ、とまで言われてしまった。だが待ってほしい。一体いつどこで、あの名探偵に誘惑されたと言うのだろう。いくらなんでも、好きな子相手にそんなことをされたら気づくだろうし、何より非常に困るはずだ。そして意識されていないなどと、がっかりするようなこともなかったはずだ。
「まあ、人づてに聞いただけやし、工藤さん純情やもんなあ。ほんまに気づかへんような感じやったかもしれん」
「だから、気づかんかったんやなく、ほんまにされてへんて」
断じて己の鈍さが原因ではないと言える。幼馴染である和葉に理解してもらわなければ、悪いのは服部ということで決まってしまいそうだ。
「どっちでもええけど。平次が工藤さん泣かしたんは事実やし」
「殴られたんは俺やで」
「そら付き合うてもないのに変なことするから」
「見とったくせによう言うわ! あからさまな事故やったやろ!」
まあな、と頷く和葉を恨めしげに睨み、腫れた頬からずれていたタオルを押さえ直す。
確かに、胸を触ったことは悪かったと思っている。でもあれは不可抗力な事故だった。現場を見ていた人間ならば、十人中九人は事故だと言うだろう。残りの一人はあるかも知れない、何があってもお前が悪いの精神の人間枠。
階段で足を踏み外したのも、手すりに捕まり切れず落ちかけたのもあの可愛らしい探偵の不注意だ。それをすぐ横で階段を降りていた服部が支えようと手を伸ばした先にあったのが工藤新一の胸だった。一瞬時間が止まった気がした。力を入れていたから少しは揉んだような形になったかもしれない。
うむ。柔らかかった。
「顔キモいで」
ばっさりと伝えられた感想に、服部はすぐさま表情を引き締める。胸を触ったことに対して罵倒はされても、何も殴らなくてもいいだろうというのが服部の言い分だ。
「頭冷えたら工藤さんなら謝りに来るかもしれんけど、ここはやっぱ平次が謝ってあげたら?」
「俺悪ないし」
「痴漢働いたことは助けたこととは別問題やで」
「痴漢言うな!」
「感触思い出してたくせに」
うぐ、と言葉に詰まったのは図星だったからだ。先程のにやけ面の理由をしっかりと把握しているらしい。こういう時、男同士というのは困る。いくら和葉が可愛らしい系統の顔をしていたとしても、中身は男なのだから、考えることは大体バレてしまうのだ。
*
膝に埋めた顔を上げることなく、新一はくぐもったため息を吐いた。
「なんで殴っちゃったんだろうな……」
心底後悔しているらしい新一にこれ以上言う気にはならず、蘭は寄り添うようにうずくまる少女の隣に座った。
突発的に手が出てしまった気持ちは蘭には理解できた。助けてくれたことに対する感謝の気持ちよりも、あらぬところに触れられたら蘭だって思わず手が出ないとは言い切れない。むしろ新一よりも手酷く殴ってしまいそうだ。
とはいえ、そのままにしておくわけにもいかない。羞恥よりも優先するものがあるはずだ。だって相手は服部平次。他ならぬ新一の想い人なのだから。
新一からの恋の相談など一度としてなかった蘭は、園子とともに喜んだものだった。あの推理オタクの強情っぱりがねえ、なんて園子はしみじみ言っていた。だからこそ二人は親身になって話を聞いたのだ。誘惑しちゃいなさいよ、なんて言葉が出てきた時は、さすがに耳を疑ったが。
とはいえ園子も面白がっていたわけではない。外見は芸能界でだって通用するくらいの美少女のくせに、中身はとんだ推理バカ。色気もへったくれもない新一が初めて好きだと自覚した相手なのだ。はたから見ている分にはどちらも同じ思いのように見えたが、まあとにかく成就してほしいものだと二人で話したことだってある。
とんでもなく鈍いのだと聞いたからこそ、園子の発言が飛び出してきた。恋愛初心者の新一が攻略するにはハードルが高いかもしれない、と思ってのことだ。和葉には頑張ってるなどと言ってはいたが、色仕掛けにもなっていないようなお子ちゃまなものばかり、とは園子の見解だ。
それがようやく両思いなのだと理解したすぐのことだった。地に足のついていなかったらしい新一が階段で足を踏み外し、落ちるのを防ぐために服部が支えようとしてくれたはずだった。胸部に手が回され、パニックになったのか新一は決して可愛いとは言い難い悲鳴を上げて思い切り服部の顔を殴った。幸い階段から転げ落ちずに済んだのは、彼の運動神経の賜物だろう。
締まらない上に災難ね、なんて呆れた顔を見せた園子に反し、蘭は同情するほかなかった。どちらにもだ。
とはいえ、あれではあまりにも服部が可哀想だ。ここは新一がはっきりと謝罪の気持ちを見せるのが一番遺恨がないだろう。
せっかく両思いに気づいたのだから、次のステップに進んでほしいのだ。
「落ち着いたら、謝りに行こうよ。私もついていくから」
「……怒ってる、よな」
「うーん? どうだろう」
怒っていたとしても服部ならば許してくれるだろうが、新一の表情は絶望でも味わったかのように蒼白だった。ひたすら申し訳ないと思ってはいるようだが、それは服部に伝えなければ、状況が改善することはない。
誠意を持って伝えれば、きっと問題ないはずだ。
例のごとく事件が起こりゴタゴタを有耶無耶のままに解決してしまった後、遠くなるサイレンを聞きながら若い探偵二人は並んでパトカーの向かった先を眺めていた。
事件を追っている間、二人は何事もなかったかのように知恵を出し合っていたのだが、すべてが終わるととたんに今までのことが思い出されてくる。よくよく見れば服部の頬は湿布を貼っているし、それは新一のせいだった。
謝らなければ。羞恥の原因を蒸し返すのは心底嫌なのだが、自分の不注意で起こした事故だ。新一の言葉で終わらせなければいけない。
「……その、服部。殴って悪かった」
俯いて隣にいるはずの服部へ声をかける。新一の頬はだんだん赤くなっていくのだが、見られたくなくて顔を上げられなかった。
「あー、俺も悪かった。手の位置が悪くて……」
「いやそれはっ、その、支えようとしてくれたからだろ。服部は助けてくれたのについ殴って……」
正直なところ、新一がこれほどまでに恐縮することなど珍しいのだが、少し離れた場所で様子を伺う友人たちは茶化すことはしなかった。蘭と園子は黙って新一にエールを送っているし、和葉は和葉でハラハラと見守っている。当人同士は目の前の相手に集中しているため、気づいてもいないが。
「ま、まあええて! そない謝らんでも、俺かて悪いことばっかりやないし」
「え?」
明るい服部の声に思わず顔を上げた新一は、引きつった笑顔の服部と目が合った。声にならない声を上げて頭を抱えたのは和葉だったが、新一と服部には見えていない。
「相応の報酬ちゅうか、どっちか言うたらお礼言わなあかんかなーって!」
顔を上げたおかげで、見なくても良かった服部の卑猥な手の動きを見てしまい、新一の顔は茹で蛸のように真っ赤になった。下がっていた眉尻は唇を震わせながら釣り上がっていく。じわりと目尻に浮かんだ水分は、羞恥と怒りで吹き飛んでしまいそうなほどだった。
「……っ、この、変態野郎!」
大きな打撃音と男の呻き声が同時に上がり、逃げてしまった少女の後ろ姿を眺めながら、ついに三人は呆れたため息を吐いた。
「アホや……」
「あーあ。ほんと締まらないわねえ」
「新一ー!」
殴った謝罪をしたはずが、更に溝を深めてしまったような気がした。