5月9日、幼心

「ただいまー!」
「ほれ悟飯ちゃん、おっとう帰ってきただよ」
 幼い体が一目散に玄関へと向かう。
 彼のいない間になんとか準備を整え、出迎えるためにチチも玄関へと足を向けた。ドアからはみ出しているのは本日の狩りの獲物、熊だ。足下にしがみついた息子を抱き上げ、夫はもう一度ただいまと笑った。
「おかえり悟空さ。獲物はあとで捌くからそこ置いといてけれ。ほれ、手洗って早く入るだよ」
 いつも粗方解体するのは夫に頼むのだが、それは明日か自分でやればいい。不思議そうにしたまま息子を下ろして手を洗いにいき、やがて戻ってきてまた抱え上げる。リビングへと入った瞬間、息子は嬉しそうに口を開いた。
「おとうさん誕生日おめでとう」
「………、誕生日?」
 理解しきれていないらしく、首を傾げて頭に疑問符が浮かんでいるのがわかる。腕の中の息子がにこにこと笑い返してくる様子に困り果てたのか、答えを欲しがるかのように頬をかきながらチチへ目を向けた。
「んだ。おめえさの誕生日、悟飯ちゃんが決めてくれただよ。五月九日。五と九で悟空さの日だ。さっすが悟飯ちゃんだべ。頭ええだなあ、そんな語呂合わせも思いついちまった」
 ぽかんとしたままチチを見て、やがて視線は息子へと向かう。どうやら飲み込めてきたらしく、感心したような声を漏らしてもう一度悟飯を見つめた。夫はまさか誕生日を息子から与えられるとは予想もしていなかったのだろう。
「……すげえなー悟飯!」
 優しく息子の頭を撫でる。子が生まれてからチチの触れ方を見て覚えたらしく、夫は存外幼子に対して優しく扱う。なんなら最近はチチよりも甘やかしている節があり、勉強をさせたくてもなかなか進まない時があった。
「おとうさん別の日が良かった?」
 驚きが強かったせいか喜んでいるように見えなかったのかもしれない。息子が不安げに問いかけたことに対して、夫はしばし黙り込んだ後もう一度頭を撫でて笑みを見せた。
「………。いや、とうちゃんも今日がいいな。ありがとなー悟飯! チチもサンキュー」
 笑顔を見せたことで安心したのだろう、息子は嬉しそうに手に持っていた丸めた画用紙を広げ始めた。中身は夫の似顔絵だ。ようやく三歳を過ぎた息子が一生懸命描き上げた大作である。すごいすごいと喜ぶ夫はチチから見てもはしゃいでいた。
「おー、美味そうだなあ。………、……なあチチ。これ書き直してえな」
 息子を抱えたままダイニングに座ろうとして、テーブルの真ん中に陣取った大きなケーキを指して夫は言った。何かと思えばケーキに乗っているプレートの文字を書き直したいのだと言う。
「一応書き直せなくはねえけど……なんでだ?」
 デコレーション用のチョコレートペンは残っているから直せなくはない。といっても今からでは線を引いて空白部分に書きたい文字を連ねるくらいしかできないが、それでも良ければと提案すると、夫は充分だと笑った。
「ここ、おめでとうじゃなくてありがとうにしてくれよ」
 プレートには誕生日おめでとうとチョコレートで書いている。それをありがとうに書き直してほしいと夫は言うのだ。悟飯の名前も入ったら書きてえな、なんて、誰の誕生日かわからなくなるようなことを言ったのである。
「………! 任せるだよ!」
 あまりにあんまりなことを言う夫に胸が締めつけられる思いだった。
 かといって、指をくわえて不安げにケーキを眺める息子の顔を見てしまえば、線を引いておめでとうを消してしまうのは気が引けた。だからチチはクリームに埋もれるプレートをひっくり返して裏面にチョコレートペンを差し向け、悟飯ちゃんありがとう、と文字を走らせた。
「おお〜! 消さなくても書けたな! チチはすげえなー」
「やんだ悟空さ、褒めすぎだべ!」
 こちらは可愛い夫の発言にときめいて仕方ないというのに。おとうさんおめでとうの文字を消されないと理解した息子はほっとしたらしく、嬉しそうに父にしがみついている。ああ、なんて愛おしいのだろうかこの二人は。あまりに幸せで涙が出そうだった。
「でも裏にしたからクリーム崩れちまったなあ」
「味は変わんねえよ。美味えんだから大丈夫だよなー、悟飯」
「うん!」
「へへーっ! 早く食おうぜ!」
 乾く前のプレートをつついてチョコレートを崩した夫は慌てて謝ったが、それも嬉しそうに鼻の下を擦る様子を怒る気になどならなかった。喜んでくれて良かったなあ、と笑いかけると、息子もまた嬉しそうにきゃっきゃと笑い声を上げた。
「なあチチ、来年からはありがとうにしてくれよな」
「わかっただ……!」
 息子は来年もおめでとうと祝うだろうが、今ここで今後のメッセージ内容を決める約束をしてしまった。来年から、なんて、ずっとこのまま礼を伝えるだけの誕生日になることが確定してしまったが、息子が拗ねてしまったら夫に機嫌を取ってもらうことにしようとチチは考えた。
 だって夫の誕生日なのだ。願うとおりにしてやりたかった。