探偵の帰国

「わっ!」
 荷物と地面に尻餅をついた女性の姿が目に入り、烏間は慌てて手を差し出した。
「すまない、余所見をしていて……。怪我は?」
「あ……だ、大丈夫です。こっちこそぼんやりしてて……」
 素直に手を取って立ち上がった女性に鞄を渡せば、礼の言葉と笑顔が返って来た。
「……きみは」


「カルマ君、知ってる? この人」
 ぱさりと見せられた雑誌の一ページには、煽りとともに女性の隠し撮りであろう写真が載っていた。
「ああ……小学校くらいだっけ。話題になったよな」
「そう。日本に帰ってきてるんだって」
「渚君興味あったんだ? 意外だなあ」
 愛想笑いを見せる渚に、カルマは見せられた雑誌の文字を追っていく。
「芸能人とは違うからあれだけど、今更って感じなんだよね。つっても、良く知らないけどさ。確かに目新しかったけど、最近はそんなに活躍してないんじゃないの?」
「そんなことないみたいだよ。ネットとかにも書いてあったけど、外国でいろいろ活動してたみたい」
 ふうん、と雑誌に目を通しつつも興味なさそうに相槌を打つカルマを眺めながら、こちらに向かって来た二人の教師に気がついた。
「何を見ているんです?」
「殺せんせー」
「昔の有名人の話」
「ほお」
 殺せんせーが知っているとは思っていない。俗な思考も持ってはいるが、それはあくまでクラスの生徒たちや関わる人間に向けられるものであり、映画を観に行っても女優の外見にしか興味を示さなかったのだ。
「探偵ですか」
「うん。三年くらい前はかなり活躍してて、女子高生探偵とかって言われてたよ」
「……この女」
「知ってるのビッチ先生?」
 随分嫌そうな顔をして、イリーナが目を逸らした。世界的にも有名だった探偵だ。知っていても不思議はない。
「昔、泊まっていたホテルで見かけたわ。少し話もしたけど」
「まじで? 凄いじゃん」
「何が凄いのよ。ただのガキよ、あんなの」
 ため息を吐いて言い切ったイリーナに、カルマも渚も顔を見合わせる。どうやらいい印象はないらしい。
「確かビッチ先生二十歳でしょ? 大して変わんないじゃん」
「中身の話よ。そりゃまあ、探偵なんてやってんだからそれなりに頭が切れるんだろうとは思うけどね。性格は至って普通。それ以上でもそれ以下でもないわ」


「桂木弥子、か?」
「え? あ、はい」
 烏間の独り言のような呟きが聞こえていたらしく、律儀にも女性は返答した。
 三年程前。突然メディアに出てその名を知らしめた当時女子高校生の探偵。世界的に有名な歌姫の逮捕事件は、世界にも当然のように話は広がった。烏間がその名を耳にしていたとしても不思議ではない。
「あの……知ってるんですか?」
「……知ってるもなにも、有名だからな」
「ああ、そっか」
 照れたように笑った弥子は、自身の有名ぶりを忘れていたように思い当たったようだった。その辺を歩く人間と何ら変わらない、普通の子だ。更に今よりも若い、ようやく義務教育を終えたような頃には名探偵の名を欲しいままにしていたとは、知っていたとしても信じがたい。
「どうも自分が有名っていうのが慣れなくて……。まあ、確かに知名度利用して仕事してるんですけど」
「いや……いいんじゃないだろうか。何に対しても言えることだが、初心は忘れずにいられるなら、それでいいと思うが」
「――そう、ですね」
「すまない。呼び止めてしまったようで」
「そんな! ちょっと久しぶりだったもんで。それじゃあ、」
 そうして去って行った後姿を見送って、烏間は歩き出した。


「――大食い」
「は?」
 一言漏らしたイリーナに、カルマが疑問符を掲げた。
「ホテルのビュッフェ。食事に行ったら料理が全然なくってね。シェフに聞いてみたら一人の客が粗方食べ尽くしたって言ったのよ。申し訳なさそうに縮こまってた。仕事終わりのプライベートで泊まってたもんだから、私も少しイラついてて、ちょっと文句言いに行ったのよ」
「そういえば、そんな噂もあったね……。本当だったんだ」
「あったらしいわね。一応情報として有名な探偵がいることは知っていたけど、関わるなんて思ってなかったから。しかもプライベートよ! そしたら平謝りされたけど、あんな乳臭いガキが本人だなんて思わなかったわよ。いや、まあ、私も気が立ってたとはいえ大人気なかったけど」

 ――本当にごめんなさい……。あまりにもおいしくって、我を忘れちゃって……。

「おいしくて我を忘れたらビュッフェを食べ尽くすわけ? 私はビジネスが終わってようやくひと段落して羽を伸ばすところだったのよ」
「本当にすみません! 一応街で腹の足しにいろいろ食べてきたんだけど……」
「……あ、あんた、どれだけ食べるのよ……」
「いや、お恥ずかしい」
 小さくなって恐縮する姿はよく見るジャパニーズのそれと同じだ。問題は彼女の胃袋である。
 この薄い体のどこにあの量が入るのだろう。お世辞にも出るべきところが出っ張っているとはいえない。言い方を変えればスレンダーともいえるが、貧相な体だ。イリーナを基準にしてしまえば、更に。
「……まあ、終わったことだし仕方ないか……。私もちょっとピリピリしてたし」
「ごめんなさい。お詫びに、奢るのは無理だけどおいしいお店紹介します」
「あんたねえ」
 景気良く奢ると言わないのが素直で癪に障る。あれだけ食べるのなら、奢るための資金など、自分の食費にしたいと思っているのは何となくわかった。
「でも、この街は本当においしい食べ物が多くって……。私もいろいろな国をまわってるけど、ここが一番おいしいの!」
「飛びまわってるの? そういえばあなた言葉上手ね。日本人でしょ?」
「はい。いろいろな国を見てまわりたくて。仕事しながら」
 イリーナよりは年下だろうか、と予想していたわりに、仕事だなんだと口にしたジャパニーズに興味を持つ。
「何の仕事してるの?」
「私? 探偵なの」
「探偵、ねえ」
 頭の弱そうな見た目とは裏腹に、そんな仕事をしていたのか。純粋そうな、いくらでも騙されそうな外見からは、想像していなかった職業だ。
「あなたは?」
「私は……輸入業よ。ブランドとかのね」
「そうなんだ! てっきり女優さんかと」
 適当に職業を偽りイリーナは口にした。素直に信じる女の子は、本当に探偵なのかと疑いたくなる。
「そんなもんになれたら、よかったのかもね」
 いつもより饒舌なのはどうしてだろうか。本来ならば見ず知らずの人間に声をかけるようなことはしない。苛立って話しかけてしまったが、イリーナは席を立って部屋に戻るタイミングを失ってしまった。
「目指してたの?」
「別に。今もある意味女優みたいなもんだし、それでよかったかなんて、考えたこともない」
 どうしてこんなことを、話してしまうのだろうか。
 殺し屋稼業も、何の疑問もなくやってきた。自分が生きる為に人を殺すことに、罪悪感などかけらもない。それがイリーナの生き方だったからだ。平和な国でのほほんと生きられるような出生だったなら、そもそも殺し屋などやっていない。
「そうなんだ。いろいろ、複雑なんですね」
「……そうね」
 空気を読んだのか、それ以上は聞いては来なかった。初対面で話すようなことでもない。そもそも、イリーナは食事ができずに文句をつけに来ただけなのだ。
「あの、名前、なんていうんですか? 私、桂木弥子です」
「……カツラギ?」
 探偵。ヤコ・カツラギ。聞いた覚えのある名前だった。数年前に世界的な歌姫が逮捕されたニュースがあった。あれは確か、日本の有名な歌姫だった。職業上、情報はそれなりに仕入れているし、ニュースも見る。探偵なんてものに関わることもある。そういう意味で、頭の隅には置いていたが。
「……あんたが、ヤコ・カツラギ?」
「は、はあ。恐縮です」
 この化け物が、あの探偵だったとは。イリーナは唖然とした。こちらを窺い見る様子は、ただの観光客のようだというのに。
「そ、それで、あなたは?」
「……イリーナよ」
 本名を教えたのは、気まぐれか。イリーナにもわからなかった。


「まさかビッチ先生が、知ってるとはねえ」
「その日限りだけどね。私もすぐ別の国に向かったし、あっちも私がチェックアウトするときにはいなかったわ」
 それから一年ほど。今まで会っていないのなら、それまでの縁だったのだ。わざわざ探すつもりもない、とイリーナは言った。
「でも今日本にいるみたいだし、再会するかもね」
 渚の言葉に複雑な表情を見せたイリーナを見て、渚もカルマも噴き出した。