記憶の片隅
小さなため息とともに、声が聞こえた。
――風邪を引くぞ。
呆れつつも、優しい声音だった。
それは、以前よく聞いた声に似て、楽しかった頃を思い出させた。
――疲れているのか。
布のようなものが肩に被さった感触がした。
――お疲れ、――。
……さん。
勢い良く頭を上げた瞬間、目の前の人物は驚いたような顔を見せた。
「……大丈夫か? 疲れているようだが」
すぐに表情はもとに戻り、弥子を心配する言葉が紡がれる。
それは、ぶっきらぼうな言葉でも。自身を想って伝えられる言葉だと弥子は知っていた。
「……あ、烏間、さん」
「イリーナも帰ったぞ。そろそろ鍵をかけたいんだが」
「ご、ごめんなさい」
夕日はすぐにでも落ちそうだった。逆光で少し暗いが、目の前にいる人間の表情はわかる。そして、今まで見ていた夢の人物とは、違っていたことにも気がついた。
「夢でも見ていたのか」
「うーん。昔の夢ですね」
そうは言っても、随分とリアルな夢だった。昔の夢と言ったが、夢のような状況はなかった気がする。確かに彼はずっと弥子を気にかけてくれていたが、彼の前で眠るようなことはなかったはずだ。
ふと、肩にかけられた上着に気がついた。黒いスーツだ。職員室にいるのは二人。弥子はスーツなど着ていないし、そうなれば目の前にいた人物がかけてくれたのだろうと予想できる。
「すいません、これ」
「ああ。良く眠っていたから。風邪を引かれても困るしな」
「……ありがとうございます」
現実が夢に浸食してきていたのだろう。まったく、混同するなど寝ぼけている。よほど寝入っていたのかと弥子は少し反省した。
少しばかり逡巡し、弥子は上着を差し出すとともに遠慮がちに口を開いた。
「烏間さん。……一つお願いがあるんですけど」
「何だ?」
変な目で見られることはわかっていた。それでも弥子は、気になることは追及したくなる性格なのだ。少しばかり甘えたくなったのかも知れない。時期が時期だったからかもしれない。
「……一回だけ、弥子ちゃんって呼んでもらえませんか」
唖然とした烏間に、申し訳ないと思いつつも。
「……それは、何か意味があるのか?」
「意味っていうか……ちょっと、確認です」
「確認?」
「烏間さんの声が、知ってる人に似てる気がして……。それで、確認を……」
言葉通り、弥子は気になったのだ。夢と混同して聞き間違えたのか、それとも本当に似ているのか。声質は似ている気がするのだ。注意して聞いてみれば喋っている今も、似ている気がしてならない。
だからこそ、呼んでほしくなった。二度と聞くことのない呼び名で。
「お願いします!」
頭を下げて両手を合わせれば、ため息が一つ。確かに弥子は呼ばれてこの学校で経験談を話すようにはなったが、烏間と特段よく喋るわけでもない。彼も無駄話をするタイプではないこともわかっている。
外見も雰囲気も似ているわけでもない烏間は、それでも彷彿とさせることはあった。何が原因か、わかった気がするのだ。
「……弥子ちゃん」
びくりと肩を揺らしてしまった。拝むようにして閉じていた目は大きく見開いて足元を見つめる。想像していたよりも、似ている気がした。
どうして今まで気づかなかったのか。彷彿とさせるのは、紛れもなく声だったのだ。
「……これでいいか?」
その問いに弥子は答えることはできなかった。思っていたよりも、その言葉は弥子の心に存在を感じさせた。体勢は頭を下げたまま、弥子は顔を上げることができなかった。
「……っ、大丈夫か?」
崩れるようにうずくまった弥子に、烏間が声をかける。合わせていた手は膝を抱えるように抱き締めた。
きっと、命日が近いからだ。泣くことはもう、終わったはずなのに。
――笹塚さん。
無愛想でもぶっきらぼうでも、弥子を気遣ってくれていた人。いたこともない兄のような、父を失って、頼りにしていた人。弥子を妹のように可愛がってくれた人。
「……大丈夫です。ありがとうございます」
無理やり目元を拭って、すぐに弥子は笑顔を見せた。不安そうに揺れる烏間の視線は穏やかで、それも少しだけ彼を思い出させた。
「以前に、お世話になった人の声に似てるんです。少しだけ、会えたような気がして」
「……そうか」
烏間はそれ以上聞いてこなかった。いきなり名前を呼べと強要して、わけもわからないまま呼ばせて、あげく泣いてしまった弥子に問いただすことはしなかった。
「いきなりすいません。変なお願いしちゃって」
「いや。構わないが」
憧れていたのかもしれない。ずっと同じように過ごしていけると思っていた。ずっと目の当たりにしてきていた死は、自分の周りとは無縁だと思っていた。彼に限ってそんなことはないと、高を括っていた。
そんなはずはないのだ。すべての人間に平等に死は訪れる。悪意によって捻じ曲げられた道は、悪意によって絶たれた。捻じ曲げられた道を無理やり元に戻すことを、良しとしなかった。それを、弥子は止められなかった。それだけなのだ。
「それじゃあ、烏間さん。今日はありがとうございました」
「ああ、気をつけて」
烏間の目は少しだけ気遣わしげに弥子を窺うものの、帰る方向へとそのまま去っていく。その後姿をぼんやりと眺めて、弥子は気合を入れるように頬を叩いた。