地獄の沙汰を覗き見る

「コエンマ様。どうかされたんですか?」
「ぼたんか。ううむ……」
 思案するような顔をしてコエンマは黙り込んだ。着物の袖で口元を隠すようにしてぼたんは上司の言葉を待つ。魔界との関係が安定してしばらく経つが、悩むような顔をするコエンマをここしばらく見たことがなかった。
「地獄の人員が足りんと相談があったのだ。親父は今霊界にいないし……」
「地獄……ですか」
 少しだけ表情を曇らせぼたんは上司の言った言葉を反芻した。霊界案内人として、地獄にも天国にも足を踏み入れたことは幾度かあるが、しっかりと覗いたことはない。
「幽助たちに頼もうかとも思ったが、地獄はなあ……」
 どうにも煮え切らない様子のコエンマに、ぼたんも確かに、と頭を悩ませる。結局のところ頼りにするのは彼らなのだが、生きている者が地獄や天国に入るのはできるだけ避けたい。
「鬼灯様は、なんとおっしゃっているんですか」
「鬼灯か……。選んでいる場合ではないらしいからな。もはや生者でもかまわないと言ってきておる」
「あれま」
 性格に難ありだが、常識は弁えているはずの閻魔大王第一補佐官である者が、そこまで言うには相当人手不足なのだろう。霊界で何とかできればいいのだが、特防隊は動かせない。現時点で霊界にいた鬼たちも助っ人に行っている。案内人は人数が少ない今でも飛び回って死者を連れてくるのだ。コエンマはやがて大きなため息を吐き、ようやくある人物の名を口にした。


「地獄、ね……。俺と幽助が」
「桑原は人間だし、飛影は魔界でパトロール隊として働いておる。自由に動けそうなのはお前たち二人だけなのだ」
「おいおい、俺だって働いてんだがな」
「いいだろ、別に。自由業みたいなもんじゃないか」
「俺、まだ学生なんですけどね」
「……頼む」
 冷や汗をかきながら年若い2人にコエンマは懇願した。見た目から言えばコエンマは幼児なのだが、その中身は永い時間を過ごしている。2人の青年のうち片方は、見た目どおりの時を過ごしてはいないが。
「俺はかまいませんけどね。霊界に恩を売れることだし」
「……そうか。貸しを作っとけば何かと便利だな!」
 いらん知恵を与えるな、とコエンマは思うが口にはしない。今はそれよりも地獄の人員不足の解消が先なのだ。
「しばらく帰れないわけではない。向こうも労基法には厳しいのだ」
「やな部分聞いたな……」
 妙に人間くさいことを聞かされ、幽助と呼ばれていた男がげんなりと呟く。
「ま、魔界もあんなふうだし、おかしいとは思いませんけどね」
 幽助よりも少しばかり年上の、見目麗しい青年もため息を吐きながら言葉を発した。
「やってくれるか」
「いいですよ。俺は」
「報酬は出んのか」
 半ば追い出すようにして、コエンマは2人を部屋から出させた。
「地獄には、親父の第一補佐官である鬼灯という鬼がいる。まずはそいつに会うんだ」
「鬼灯? どんなやつだ」
 興味津々に聞いてくる幽助に、コエンマはうむ、と頷いて説明を始めた。コエンマにとって苦手であるといっても過言ではない鬼のことを話すのは、少しばかり気が重い。
「実質地獄を取り仕切っているのは鬼灯だ。頭はいいが性格はお世辞にもいいとは言えん。まあ、鬼だからな。はっきり言って、幽助とはそりが合わんだろう」
「なんだそれ、今からそいつに会いに行くのによ」
「噂は聞いたことがありますよ。なかなか冷徹な鬼だと」
 地獄の内情に興味はなかったが、それとなく聞こえてくる噂は耳にしていた蔵馬が口を挟む。
「地獄でやっていくには、それくらいじゃないといけないのかもしれないね」
「そうなのかもしんねーけどよ」
 唇を尖らせて幽助はぼやいた。ケンカはできなさそうだ、と顔に書いてある。蔵馬はそんな幽助を見てやれやれと苦笑いを零した。
「ここが、地獄の入り口だ」
 大きな扉を見上げて幽助の口がぽかんと開く。蔵馬もまた、感嘆の声を小さく上げた。
「お待ちしてましたよ、コエンマ様」
 扉が開くとそこには一人の着流しを着た男が立っていた。手には背丈の半分以上もある金棒を持ち、異常に目尻はつり上がっていた。額には、一本の角。鬼だ、と口にせずとも、2人は理解した。
「鬼灯だ。こっちは幽助と蔵馬。一応言っておくが、生きておる」
「存じてますよ。承知でお願いしたんですから」
 言葉遣いは丁寧だが威圧感は遠慮がない。ナンバー2というのは伊達ではないようだ。
「では、地獄での仕事を説明しますので、こちらへ」
「しっかりな、幽助、蔵馬」
「おい、コエンマ。おめーはこねえのかよ」
「ワシは霊界から出るわけにはいかんのだ」
「好き勝手人間界に来てやがったのに……」
 幽助の言葉を無視して、コエンマを残し地獄の扉は閉められた。

*

「あら、鬼灯様。そちらの方々は?」
「お香さん」
 鬼灯の後ろを追って歩いていた二人は前方から声をかける女性に目を向けた。美しい女性の着ている服の腰元には帯の代わりに生きた蛇が絡まっている。
「人間界から助っ人に来ていただきました。幽助さんと蔵馬さんです」
「あら、そうなんですか。わざわざ地獄まで……。ありがたいですねえ」
 のんびりとした口調は見た目よりも優しげな印象を二人に持たせた。蔵馬さんと幽助さんね、と反芻して、お香は鬼灯に問いかける。
「どこを助っ人していただくんです?」
「見学していただく時間はありませんからね……。幽助さんには等活地獄に行ってもらおうかと。タフそうですし」
「等活地獄? どんなとこだよ」
「殺生の罪を犯した者が落ちるところです。不喜処地獄は主に動物が働いています」
「???」
「覚えなくても結構ですよ」
 言外に馬鹿に説明する気はない、と言っているようだと気づいたらしいお香が苦笑いする。
「蔵馬さんは、そうですね……」
「あの、うちも今人手が足りないんですけど……。もし空くようなことがあれば、お願いしたいんですけど」
「お香さんのところですか?」
「ええ。女性も多いですし、そちらの方ならどうかと思って」
 邪気のない笑みを向けられた瞬間、蔵馬の視線は凍りそうなほど冷たくなった。
 身の危険を感じた幽助が素早く口を開く。
「あー、お香さんっつったっけ。こいつ男だから……」
「……え!?」
「………」
 そうだったのか、と小さく呟いた鬼灯の声は、耳の良い蔵馬には聞こえていたことだろう。どこでも女性に間違われるのは、もはやお約束のようになっていた。
「ご、ごめんなさい、お綺麗だからてっきり……でもそうね、女性にしては背が高くていらっしゃるし、私ったら気づかなくて……」
 申し訳ないと項垂れるお香には悪いが、幽助は頼むからやめてくれと叫びそうだった。ここで噴き出してしまっては後が怖いと理解している幽助は懸命に笑いを堪えるが、それすらも蔵馬には気づかれているような気がして彼へ視線を向けることはできなかった。蔵馬の纏う空気が確実に冷たいものへと変化していく。
「あ、でも、その、うちは特殊な地獄があるんだけど、興味ないかしら? 拷問チームっていうのも作っていてね、調教とか、ええと、その……」
「……俺、そんな性癖を持っているように見えます?」
「ち、違うのよ! 今丁度結成した拷問チームのてこ入れを考えてて……。もしよかったらって……」
「ちなみに、ど助平衛熟女団(どすけべまだむす)というチームです」
 何故鬼灯は今チーム名を言ったのか。幽助はついに噴き出した。感情の読めぬ表情でしれっと鬼灯は続ける。
「基本的にはお二人とも等活地獄を手伝っていただくつもりでしたので、先にお香さんのところに行っていただいても結構ですよ。蔵馬さんの意思を尊重しましょう」
「あの、もし、ですからね? お嫌なら無理にとは言わないわ」
「………」

 暫しの沈黙の後、お香へ笑みを向けながら蔵馬はようやく口を開いた。
「構いませんよ。拷問チームでしたっけ。お役に立てるかはわかりませんが、いいでしょう」
「本当に!? 助かるわ」
「女装はしませんよ」
「あ、ええ。そうね……。大丈夫、そのままでも何か考えるわ」
 先に釘を刺した蔵馬に少しばかり残念そうに返事をしたお香は、早速蔵馬を連れていく旨を鬼灯へ伝える。
「じゃあ、幽助。俺の分も頑張ってね」
「……おう」
 二人を見送った後、面白くなりそうですねえ、と呟いた鬼灯を睨みながら、人間界に帰っても、またすぐここに戻ってくるかもな、と幽助は内心で溜め息を吐いた。