青空とハンカチ

 はぐれてしまった。
 父に見送られて三度目、柴に連れられ遠出していた時のことだった。物珍しいものを見ては立ち止まった千鉱になにくれと話しかけてくれていたはずの柴だったが、人混みに紛れて見失ってしまった。
 困った。きょろきょろと辺りを見渡して、背の高い金髪を見つけようと人混みを眺めるがなかなか見つからない。けれど勝手に動けばさらに迷ってしまいそうだし、千鉱は空いている近くのベンチへ腰掛け待つことにして、柴を探すついでに人の行き交う大通りをぼんやりと眺めた。
――父さんは行かないの?
 そう質問したのは二度目に外出して帰ってきた時のことだった。一度目は人の多さに圧倒されてあまりきちんと観察することができなかったけれど、二度目は少し慣れたのか周りに興味を向ける余裕が持てた。千鉱のように大人に連れられ遊びに来ている子供のほかに、同じくらいの歳頃の人たちが数人固まっていたり、よく似た二人連れがいたりと様々だった。
――ああ、俺は勝手に出かけたりしてるからな!
 それが家族や親子といった親密な関係性であると気がついたのは会話が聞こえてきたからだったが、問いかけたことに父がはぐらかしたのだと気づくのにそう時間はかからなかった。
――一緒に行かないの?
 そう聞こうとしたのだが、聞いたらだめなのだと察した。それなら街には父以外と行くものなのだと思っていたのに、周りの人は家族と来ている。お父さんあれ見たい! 走ったら転けるぞぉ。あれ食べたい、買ってお母さん。手を繋いで通り過ぎる家族連れ。
 街には家族とは行かないものなのだと思っていたけれど、それが当てはまるのは千鉱たちだけなのだろう。そういうことに気がついて、それでも何故と問いかけることができなかった。
 どしゃ。
 目を伏せて思案に暮れていると近くで子供が倒れ込んでいた。先ほどの音は転んだ時に滑った音だろうか。すぐに大人が来るだろうと千鉱は立ち上がらず観察していたのだが、予想に反して子供を助け起こそうとする家族はやってこなかった。
 同伴の大人はいないのかもしれない。街は子供ひとりでも歩くものなのかと千鉱は三度目の外出でも初めて知る事実に驚いた。ひとりで出歩くなと言われるものではなかったのか。それもやはり千鉱だけなのだろうか。
 汚れた膝を叩いてから、顔を袖で拭った。泣いてしまったのかなと思ったけれど、顔を上げた時に見えた目は真っ青に澄み切っていた。
 雨上がり、あるいは晴れた青空のような。うちにはいない色だと物珍しさに眺めてから、綺麗だなとぼんやり考えた。
 子供の膝に血が垂れているのを見つけ、怪我をしていることに気がついた。駆け寄ってくる大人はいない。
――知らん人に話しかけられても無視してな。ついてったらあかんよ。
「………」
 話しかけるのはいいかな。柴に再三言い聞かせられた言葉を思い出してから、同い年くらいの子供なら柴も目くじらを立てることはしないだろうと高を括った。そうして千鉱はようやくベンチから立ち上がり、子供のそばへと近寄っていった。
「あの」
「!」
 急に話しかけたからか猫のように毛を逆立てられたように見えて、怖がらせたかなと少し反省した。とはいえ千鉱も同じ歳頃の子供に話しかけるのは初めてで、勝手がわからないのでどうしようもない。
「これあげる」
 だからとりあえず、目的をわかってもらうためにカバンの中を探った。差し出した絆創膏がぺろりと重力に負けて曲がってしまった。
「……これ」
 喋った。
「怪我してるから。貼る前に洗わないといけないけど……あっちに水道あるからいかない?」
 野良猫みたいな警戒が緩み、子供はようやく小さく頷いて千鉱に応えた。対応は間違ってなかったようで千鉱もほっとしたところだ。ベンチからそう離れていないところに水道があり、そこへ子供を促して膝を洗わせた。
「ハンカチ汚れる」
「ハンカチは汚していいものだろ」
 傷口を水で洗い流し、垂れていた血も洗い流された。新たに滲み出てくる血は大した量ではないし、だったら何で拭くんだと千鉱は問いかけたけれど、子供は答えなかった。警戒が解けたと思ったけれど、子供はどこか心許なさそうな目を見せた。
「できた」
「ありがとう」
「うん」
 洗い流した傷口を消毒してあげたいけれど、残念ながら消毒液まではカバンに入っていなかった。絆創膏を貼れば子供はほっとしたように小さく息を吐いた。
「付き添いは? いないのか?」
「いない」
「ひとりで来たのか。凄いな」
 父と柴が千鉱にひとりで外出する許可をくれるようになるのかさっぱりわからないけれど、柴はきっと一緒に行こうと言ってくれるのだろうと思う。いつもそんな感じだからだ。
「置いてかれただけ」
「………」
「お前は? いるの?」
「うん。でもはぐれた。探しに来ると思うから待ってる」
 はぐれたと置いていかれたはまったく違う。子供はやがてしょんぼりと肩を落とし、千鉱はどうしていいか悩んだ。置いていかれたということは、行きは一緒に来たはずだろうに。どうして置いていったのだろうか。子供は寂しそうだった。
「……親?」
「いや」
 問いかけてきた子供の表情の翳りが少しだけ消えたように見えた。
「父さんの友達の人」
「………? 父さんの友達とふたりで来たのか?」
 こくりと頷いたら、子供は少しばかり不思議そうに首を傾げた。
 やっぱり千鉱たちのように柴と出かけるのは一般的ではないということだ。世の中の普通がどんなものかを千鉱はあまり知らないが、たぶん、彼にもわかってしまったのではないだろうか。
 相手が普通とは違う環境にいるらしいということを、互いにぼんやり理解したのだろうと思う。
「……俺は家族と一緒に来たけど、天理が父さんと先に帰ったから……」
「テンリ?」
「弟。兄さんに捕まるよりはましだったからいいけど」
「………」
 兄も弟も千鉱には未知の領域だ。兄弟とは同じ親から生まれた、親より歳の近い血を分けた家族だ。千鉱にはいない家族だった。
「優しくないのか」
「父さんは俺がちゃんとできれば優しいけど、できないから」
「………」
 父は千鉱にできないことがあっても怒ったことがない。なんなら父のほうが謝る頻度が多いくらいだった。千鉱も別にそれで怒りはしないけれど、注意はする。それが普通だと思っていた。
「………。家族って、よそは全然違うんだな」
「そうだな。……家族が多いのか?」
「普通じゃねえかな。三人兄弟だ」
 千鉱は二人家族だ。柴は家族ではないし、家に来ない時もある。毎日一緒にいるのは父だけだった。
「二人かあ。俺は五人家族。お祖父ちゃんもいたら六人だった。少し前に死んじゃったけど」
「……そう」
 家族が死ぬ経験も千鉱はまだない。父の生活能力が低すぎて、千鉱が死なないか戦々恐々としていたとは言われたことがあったけれど、それも家事ができるようになった今ではもう心配ない話だ。
「家族はずっと二人なのか?」
「うん、たまに父さんの友達の人が遊びに来るくらい。最近外に出かけるようになった」
「……お母さんは?」
「………。知ってるけど、ちゃんとは知らない」
 父が話してくれる思い出話からしか母を知らない。それでも会いたいと泣くようなことはなかったと思う。父と一緒にいて寂しかったことはないし、父の話してくれる母の思い出は聞いていて楽しかった。
「寂しかったりしないのか?」
「特に……父さんは変な人だし、友達の人も変な人だから」
「変な人って大丈夫なのか?」
「良い人だよ」
 変な人だけど良い人なのは間違いない。父の友達だし、千鉱にも良くしてくれる。今ははぐれてしまったけれど、こうして外出に付き合ってくれるのも嬉しい。寂しかったことはない。
「そうなんだ……凄いな。じゃあ――」
「伯理ィ!」
 びくりと大きく身体を震わせた子供が怯えた視線を向けた。横断歩道の向こう側、赤信号で止まっている人混みのほうを眺めると、子供と似た髪色と目の色をした歳上の人がいる。人混みに紛れそうなのによく見つけたものだと驚いた。
「……迎え?」
「、あ、う、ん。あ、あの! また会えるかな?」
「さあ……たまにしか来ないから」
 挙動不審になってしまった子供から問いかけられ、千鉱はわからないことを素直に伝えた。しょんぼりしてしまった子供に悪いことをしたと困ったが、事実なのだからどうしようもない。
「でも、会えたらいいな」
「……うん!」
「チヒロくん!」
「……そっちも迎え?」
「そうみたい」
「良かった! じゃ、じゃあ!」
 柴に頼めば連れてきてくれるかもしれないから、どうにかなるかもしれないかな。そう思ったけれど、千鉱が名前を聞く前に子供は走って行ってしまった。
「伯理ィ! こんなとこにいたのか心配したんだぞ!」
 逃げたように見えた子供は迎えにすぐ捕まえられていた。鬼ごっこにしては本気で怯えているように見えたけれど、自分を呼ぶ柴に千鉱も顔を向けた。
「柴さん」
「すまん! 止まっといてくれて助かったわ」
「うん」
「……なんか欲しいもんあった?」
 子供が去った先へ視線を向けた千鉱が不思議だったのか、柴はなにやら問いかけてきた。はぐれた詫びに欲しいものを言ってくれたらプレゼントする、なんてよくわからない理論で千鉱の欲しいものを聞き出そうとしている。
「いや、家族連れが多いんだと思って」
 俺が父さんと出かけられないのは、どういう理由があるの。
 家族相手でも怯えるのはどんなことが原因なの。
 なんてことを聞いてもきっと、困らせるだけだ。それくらいはわかっている。
「父さんにお土産買って帰りたいです」
「……せやな」
 結界の中にいることが普通ではないということも。でもその理由は、そうしなければ父と一緒にいられないなら、千鉱は知らなくていいことなのだろう。子供のことは気になるけれど、柴を困らせたいわけではない。
「チヒロくん焼きそば売ってるよ。クレープもあるけど、焼きそばならきみも食べるやろ?」
「うん」
 青空みたいな目をした子供だった。また会えるなら、千鉱も嬉しいと考えていた。

*

 赤い眼が印象的だった。
 父の蔵で見せてもらった宝石の輝きに似ていて、身内にはいない色が珍しくて綺麗だと思ったのを覚えている。
 千鉱と出会った時、もちろん命を救ってくれた侍に憧れたのは間違いないけれど、吸い込まれそうな赤に惹かれたような気もする。伯理のためにハンカチを汚して、絆創膏をくれたあの子と同じ色。他人のため避雷針になった侍は、あの時の子供と同じ赤眼をしていたから。
「同年代の子供って弟くらいしかいなかったし。他人の子供と関わったこともなくてさあ、こんなに優しいんだって感動して」
 漣家には家庭教師がついているので、学校に通うということもなかった。それに漣家というだけで遠巻きにされることも少なくない。一応名の通った妖術師の家系だからだ。
 だからあの時、伯理のことを知らない子供が優しくしてくれたことが嬉しかった。兄に家へ連れ帰られたあとは、結局愛という名の暴力を受けていたせいもあるかもしれないが。
「顔はあんま覚えてないけど、チヒロみたいな赤眼が凄え綺麗でさあ。漣家には絶対ない色だし、特別だったりすんのかなあ、その子もチヒロみたいに侍になったのかなとか……チヒロ?」
「………、いや」
 なにやら不思議そうに首を傾げた千鉱だったが、伯理の思い出話の続きを聞いてくれるようだったので続けることにした。
 とはいっても、その子供との思い出は結局当時の一度きりだ。ハンカチは汚したまま返してしまったし、礼もろくにできなかった。あの頃は周りからの暴力に警戒してしまっていたから態度だって良くなかったはずだ。
 伯理は貼ってもらった絆創膏が剥がれてからも捨てられずしばらく残していたのだが、汚いと使用人に捨てられてしまったため残る物もなかった。いやまあ使い終えた絆創膏は確かに汚いものではあったが。
「せめて名前をな……呼ばれてたから聞いたはずなんだよな……俺の記憶力が弱いばっかりに」
 数年前とはいえ子供の頃の出来事で、記憶というのは薄れていくのが当然のことである。特に印象に残ったものが眼だったから強烈に覚えているけれど、そこ以外は優しかったことと同い年くらいの子供だったことくらいしか記憶に残っていない。
「………。三人兄弟?」
「えっ? うん」
 漣本家は三人兄弟だ。養子に迎え入れることもあるが、京羅の子供は伯理を含めた三人だけだった。伝えていなかったかと首を傾げたが、そうじゃないと千鉱はかぶりを振った。
「じゃなくて、……置いていかれたって言ってた」
「……へ」
「青空みたいな眼だなって俺も思ったから」
 今思い出したけど、と千鉱も少々不満げに言うものだから、すぐ思い出せない曖昧な記憶に文句があるのだと思う。そういえばあの日はよく晴れていた気がする。伯理の眼をそんなふうに見てくれていたとは少し照れてしまうが。
「………っ、えっ!? あの子チヒロだったのか!?」
「たぶん。覚えがあるから」
「俺の運命じゃん!」
「その言い方なんとかならないか」
「良くない!? 言葉どおりだって!」
 感極まって放った言葉はやっぱり千鉱のお気に召さなかったようだったが、伯理にはその言葉以外で感情を伝える方法がなかったのだから仕方ない。
「俺ェ! チヒロと会えて良かったぁ……」
 今度は泣き出した伯理に少々困惑していたけれど、やがて千鉱の手が伯理の頭を撫でた。
「ずっと言いたかったんだよ……。ありがとう! あとハンカチ貸してくれ、洗うから」
「その日に洗ったよ、たぶん。あの時お礼も言ってた」
「そうだっけ。血取れた?」
 きちんと伝えていたようだ。礼を尽くしていたのならいいのだが、血が取れたかは覚えていないという。取れていなければ記憶に残ると言うが、伏せた目が一瞬寂しげに見えたので伯理は言葉を飲み込んだ。
「まあちゃんと言ってたならいいけどさあ」
「覗き込んでお礼言うから、眼に見惚れた覚えがある」
「――……あ、そ、そう?」
「……なんで照れてるんだ、そっちのが恥ずかしいこと言っておいて」
「言われると照れるって! しかも言ったのチヒロだし」
 言うのはよくても言われるのは慣れていないし、そもそも恥ずかしいことを言ったつもりもなかった。眼だけとはいえ外見を褒められることなどほとんどなかったし、千鉱がそんなふうに思ってくれていたことも気恥ずかしい。
 けれど、やっぱり嬉しいものは嬉しい。
「へへ。ほんとにまた会えたな!」
「そうだな」
 やっぱり運命でいいのではないかと伯理は考えたが、千鉱に言うとまた困惑させそうだったので黙っておいた。