雪の日、翌日
神社からどうやって帰ってきたのか、記憶が定かではない。
気づいたら布団の上にいて、新八が起こしにきて、神楽は寝ぼけたままおはよう、と口にした。
「くま、すごいですよ」
どうやら睡眠も取らず上の空のまま、意識だけがどこか旅に出かけていたらしい。
覚えているのは、女の体に触れたときの衝撃。普段見かける姿からは想像もつかないほど、細く頼りないものだった。
折れてしまいそう。
そう感じた瞬間、頭が沸騰したかのように熱を発した。抱きすくめた体を勢い良く引き離し、思わず走っていたのだった。
思い出した。そう、逃げたのだ。自分から引き寄せておいて、我ながら何と情けないのだろう。思春期の餓鬼じゃあるまいし、と銀時は項垂れた。
昨日はどうかしていたのだ。いつもと違い心此処にあらずといった土方の様子に感化されてしまっていたのかもしれない。
「昨日、あれから何処行ってたんですか? 帰ってきてもいなかったし」
「……え、そう? あんま覚えてないんだよなァ」
呆れた視線を新八が向けてくるが、本当に覚えていないのだ。どこか彷徨っていたのか、思い出したくないような気もする。
「銀ちゃん、座ったまま寝てたアル。電気ついてなかったから、帰ってないと思ったけど」
「そうだったの? 寒さで動けなくなったんですか? 土方さんも心配してましたよ」
急にいなくなるから。そう告げた新八は、土方さんに会ったら報告しておこうね、と神楽に話しかける。
「私、メールアドレス聞いたアル。トシちゃんにメールするネ!」
うきうきと携帯電話を取り出した神楽に、思わず銀時は大口を開けてしまった。こいつ、いつのまに。行動の早さはピカイチである。
「銀ちゃん、帰ってましたよ……っと」
「土方さん、今日は休みなのかな。仕事だったら昨日はつき合わせちゃって悪いことしたよね」
「でも、楽しかったアル。トシちゃんも笑ってたネ」
思い返せば、確かに昨日は柔らかい笑みを浮かべていることが多かった。それは偏に神楽のおかげなのだろうが、お零れに預かったような気分で眺めていた。
「お守り買ってもらったアル」
「健康祈願だね。土方さんにお礼しなきゃ」
お守りを握り締めて笑う神楽は、可愛らしいものだった。新八も微笑ましそうに神楽を見つめている。お守りなんて買っていたのか、と初めて知る情報に、銀時はため息を吐いた。
傍目にも土方は神楽を可愛がっている。それほど関わる頻度も多くないと思っていたが、いつのまにやら親睦を深めていたらしい2人は、主に神楽が土方にちょっかいを出すほどに、そしてそれを嫌がらない程度には、仲が良い。
「あ、返事来たアル」
短い電子音が鳴り響き、神楽は携帯電話を開く。覗き込む新八とともに文面を目で追う。
「そりゃよかった、ですって銀さん」
「……ま、そうだろうな」
大の大人が、まして腕っ節も弱くないと知っている男が行方知らずになったところで、土方の反応はそんなものだろう。少しばかり期待した銀時は、現実はこんなものだとひっそりとがっかりしながら内心呟いた。
「トシちゃん、文が冷たいアル」
「あのチンピラが絵文字びっしりでも気持ち悪いだろ」
「まあ、確かにイメージないですけどね」
どっこいしょ、と掛け声付きで立ち上がり、銀時は風呂場へと向かった。
顔を見て話したわけではないが、新八から聞く以上土方はあの後も普通の態度だったようだ。少しくらい動揺しているかとも思ったが、想像通りにはいかないようである。
シャワーを頭からかぶりながら、銀時は自分の手のひらを見つめた。
触れた髪は、柔らかかった。見開いた目は、長い睫に縁取られ、着飾るそこらの女よりも、よほど綺麗だった。隊士たちに頼られる背中は、腕の中にすっぽりと納まるほどに小さかった。自分とは骨格から違う女なのだと、思い知らされたのだ。
細いだけの女よりも、肉付きのいい女が好みだった。凹凸はないだろうとは思っていたが、武装警察なんて仕事をやっている以上、か弱くはないだろうと思っていたのに。触れた体は思っていたよりも小さく、警察のナンバー2だという事実が信じられなくなってくる。
顔を合わせれば嫌そうに眉を顰め、近寄るなとでもいうような無言の圧力。二言目には斬るの二文字。女は愛嬌なんて格言があるが、およそ当てはまらない、可愛くない女だ。
――本当に、何でだろうなァ。
どうして惹かれてしまったのだろう。愛想も何もない、刀を振り回すことしか頭にないような女を、心では可愛いと感じるのだ。いい年になった今、銀時は恋というものをしていた。
神楽の目に映ったのは、銀時に埋もれる土方の背中だった。
あまりに突然の出来事に、神楽は放心したように動かなかった。後ろから新八の声が聞こえたが、反応することもできず、新八にもその状況は見られてしまった。
息を飲んだ後、新八はそっと神楽を2人から見えないよう腕を引いて移動させた。ショックを受けていたように見える神楽を、新八は心配そうに見つめていた。
いろんな感情が胸を渦巻き、神楽は考えがまとまらなかった。
銀時は好きだ。やる気がなくてぐうたらで、駄目な大人の代表のような人間だが、ともに行動していくうちに、中身を知っていくうちに、神楽は慕える大人だと判断するようになった。その銀時が、土方に興味があるようだというのも、わかっていた。
土方が普段どれだけチンピラ風情でも、ぶっきらぼうで不器用な優しさが、神楽は大好きだった。自分に見せる柔らかい笑みが、気持ちを温かくさせた。自分の好きな人同士が好き合うようになれば、神楽は嬉しいと思っていたはずだった。
それなのに、どうして今、こんなに気持ちがぐるぐると回っているのだろうか。
「神楽ちゃん?」
新八の声にようやく神楽は視線を合わせた。不安げに揺れていた眼鏡の奥の瞳は、ほっとしたように瞬きをした。
「たぶん、いきなりだったからだよ」
自分の気持ちを察してか、新八は労わるような声音で言った。
「人間って、突然のことに思考が停止しちゃうんだよ。僕も驚いた」
神楽ほどショックを受けていないように見える新八は、照れたように笑った。
「銀さん、きっと、初めてなんじゃないかな。今までも、土方さんに変な態度とか、妙なこと言ったりしたの、見たことあるでしょ。どうしていいかわからないんだよ」
今の神楽ちゃんみたいに。深く考えることができず口走ってしまうときも、先に体が動いてしまうときも、誰にだってあるものだ。そう新八は言う。
「子供みたいだよね。見守ってあげなきゃいけないような気分になるよ」
いい大人なのにね、と呟いた新八を見つめて、神楽は脳裏に過る2人の姿をはっきりと思い出す。見てはいけないような気がしたけれど、目に入ってしまったものは、神楽の瞼の裏に焼きついていた。
「銀ちゃんは、恋してるアルか」
「相手は土方さんだもの。恋してもおかしくないよ。土方さんがすごく優しくて、いい人だって神楽ちゃんが一番知ってるんでしょ」
そう。土方の良い所は神楽は良く知っていた。だから、銀時が惹かれているらしいと感じたときは、当然のことのような気がしたのだ。
「銀さんも土方さんも、神楽ちゃんをないがしろにしたりしないよ」
ちらりと2人がいるであろう方向へ顔を向けて、新八はあれ、と呟いた。駆けていく後姿を眺めながら、神楽はようやく気づいたのだった。
今までどおりではなくなるような不安が、神楽の胸を占拠したのだ。2人が好きだからこそ抱いた不安は、新八の言葉で少し薄まる。認めるのは癪だけれど、新八は神楽よりもずっと大人で、周りがよく見えている。
「土方さん、銀さんはどこに?」
駆け寄ってぽつんと佇む土方に声をかければ、放心したような表情をした土方が振り向いた。
「……や、どっか、行っちまったが」
「ええー。銀さん、帰ったんですかね」
「用事でもあったのかもしんねえな」
見ていたことを悟られないよう普段どおり接する新八と同じように、神楽も土方の元へと近寄った。
新八はあくまでも素知らぬ振りで、2人の仲を引き裂くつもりも、取り持つつもりもないようだ。第三者が介入していい問題ではないと、言葉はなくとも態度で示されたようだった。
まだ少し気持ちは落ち着かないものの、新八がそのつもりならば、神楽も見守ることに決めた。
「土方さん?」
沈黙した土方に新八が名を呼べば、一つ二つ瞬きをして、何でもない、と土方は答えた。どこかへ行ってしまった銀時の心中はわからないが、どうやら土方は少しばかり衝撃を受けているようだった。
「銀ちゃんは放っとけばいいアル。トシちゃん、帰ろう」
手を差し出せば、土方は薄く笑って先ほどまでと同じように神楽と手を繋いだ。指先は冷たくなってしまっていたが、すぐに神楽の体温が土方の指へと渡る。
「寒みいなァ」
「土方さん、今日はありがとうございます」
「初詣に行こうとしたら、お前らが付いてきたんだろ」
「トシちゃん、次は凧揚げしたいアル」
「万事屋にやってもらえ」
4人で、と心の中で付け足しながら、神楽はようやく満面の笑みを見せた。
給仕係の雑煮を食べた後、部屋に戻ってゆっくりと煙草をふかしていたときだった。
携帯電話が畳の上で振動し、着信を知らせる。昨夜、アドレスを交換した神楽からだった。
――銀ちゃん、帰ってましたよ。
可愛らしい顔文字とともに液晶に映し出された文に、土方の眉間に少し皺が寄る。
昨日、普段よりもぼんやりしていたのは土方は自覚していた。あの男もそうだったのか、それともあれが通常なのかはわからないが、街で交わす対応と少しばかり違っていたように見えた。
鍋に誘ってきたり、初詣は自分が行くと言ってともに行動したのだが、その後の挙動には土方も驚くほかなかった。
何を考えているのかまるで読めない男は、よりによって土方を抱き寄せた。我に返ったかのように離れ、そのまま颯爽と走っていったのだ。
自分でも何をしたのか理解できないといったような、驚愕の色を含ませた表情は、土方自身もしていただろうと思う。理由など聞く気にもならないのは、聞くだけ無駄だと感じたからだ。
――何なんだ、本当に。
一晩あの男のことを考えていた自分に舌打ちをして、土方は返信すべく送信画面を開く。
そりゃよかった。
本心である。あのままどこかで飲んでいるのかと思っていたが、大の男であろうとも無事が確認できたならばよかった。きらきらした絵文字などを使う癖はないので、文字だけで送信する。
男女の違いを思い知らされたような気分だった。土方は一般の女よりも背はあるし、武装警察を名乗るだけの体力や剣術もそれなりに持っている。女らしい部分など、皆無に等しい。それでも、どんな努力をしても埋まらない男女の差は、銀時に捕まったときに痛感した。
易々と抱き込まれた体は、一回りほども違うように感じた。隊服ではそれほど差がないように思えて、それは錯覚だったのかと土方は落ち込んだ。
背中に回された腕は、逞しいとまでは言わないが、力強かった。ぼさぼさの髪が頬に当たる感触を思い出して、土方は思わず赤面した。
1人でいたら、嫌でも考えてしまう。今日が非番であることを恨んだ。
逃げるように考えることを放棄した土方は、道場へと足を向け、着替えて竹刀を手に取った。