渡り川のほとり
穏やかに囁く風の音を耳に入れながら、新八は目を閉じて思い切り深呼吸をした。
知る人ぞ知る秘境の地であるこの土地は、鍛えていない常人には辿り着くのも困難であるため、此処で余暇を過ごす人はほとんどいない。何故新八が此処にいるのかといえば、そこにしか咲かない花を取ってきてほしいなどという少女漫画じみた依頼が万事屋に舞い込んだためである。
通称天国に一番近い場所。その呼び名を知ったのは依頼が入って下調べをしていたときだった。己の歳を考えるとまだまだ先の話だが、生死の境を彷徨うほどの経験はいくつかある。
銀時は麓の小さな小屋で一休み。神楽とは一緒に小屋を出てきたのだが、途中で新八とは別の方向へ走り去ってしまった。しばしその場で待っていたのだが一向に姿が見えず、新八自身散策をしてみたい好奇心を抑えきれず、穏やかではあるが厳かな空気すら感じるこの地を歩き出した。
天国に近いと言われる所以は、やはりその土地の美しさにあるのだろう。人の手が入らぬ自然はそれだけで目を奪われる。澄んだ空気は新八の肺を浄化してくれるようだった。
秘境の地に近くなった辺りから、建物も人の気配も感じられず、麓にあった今にも壊れそうな小屋だけだった。この地に足を踏み入れた者たちは、いつから建っているのかもわからない小屋だけを綺麗に使用して、そして去っていく。新しく何かを建てるなんて野暮なことはしない。元からあるものを大事にしていく暗黙のルールのようなものは、初めて此処に来た万事屋一行ですらそう思わせる何かがあった。
「川だ」
陽の光が辺りきらきらと輝く川の傍に座り込み、新八は手を浸らせる。冷たくて気持ちが良い。江戸の水とはやはり違う気がした。
「――あら、お客様かしら」
聞こえてきた柔らかい声に新八の視線は声の主へと吸い寄せられた。同じように川べりに座り、新八を見て優しく微笑む女性がいた。
「お客様?」
「ええ。此処がなんて呼ばれているかご存知ですか?」
「天国に一番近い場所って聞いてます」
「そう。此処に辿り着く人たちって、天国に思いを馳せて来る方も多いの。皆が皆そうではないけれど」
柔和な笑みを崩さない妙齢の美しい女性だった。本当にその名に呼ばれるように此処で命を落とした者もいるという。新八は寒気を感じた。
「でもきっと、その人は望んで此処で逝ってしまわれたんだわ。だって、此処に来た皆さん清々しい顔で帰られるから」
「あなたは此処に住んでるんですか?」
有り得ないだろうことを聞いてみるが、予想通り女性は首を振った。
「私は此処によく来るけれど、住んでいる訳じゃないわ。あなたは、どうして此処に?」
「僕は仕事で、時間が空いたので散策に」
「まあ、お若いのにしっかりしてるのね」
嫌味のない言葉に新八は素直に頬を染めた。年上であろうが綺麗な女性から褒められるのは嬉しい。
「此処はね、会いに来る人が多いの。実際目的の人に会える人はいないのかもしれないけれど、皆さん晴れやかな顔をするから、きっとその人にとっても大事な儀式のようなものなのね」
「会いに来る人?」
「そう。あなたも経験があるんじゃないかしら。肉親だったり、友人だったり、添い遂げたい相手だったり。先立たれた人が、会いたいと望んで此処に来て心を癒やしていくの」
「え」
「ふふ、そんなに怖がらなくても。実際会えるかなんて本人しかわからないのよ。とても綺麗な場所でしょう。自然に癒やされて、気持ちが前向きになって帰っていくのかもしれない。けれどそうして吹っ切って行く人が多いから、此処はこんな風に呼ばれるようになったのね」
死者と対話する場所。天国に一番近い場所とはそういう意味で名付けられたと女性が言う。美しい景色を眺めていれば、成程三途の川のイメージは確かに目の前の川と酷似している。
「会いたい人か……」
新八自身死を看取った経験はある。血を分け与えてくれた両親に会いたいという思いは確かに持っていた。日々過ごすのに精一杯で、泣いて過ごす日々は終わっていたが。
「死んだ人に会うのは、僕が死んでからでいいかな」
「……そう」
「だって親なんて、いつかは僕より先に逝ってしまうものですしね。そりゃ好きな人とかだともっと違うのかもしれないけど、僕はまだわかりませんし」
自身の姉や万事屋の面々、好意を抱く者の顔を思い浮かべ、恵まれていると思える周りの人々に人知れず感謝した。両親が亡くなっても新八が自分らしく生きてこられたのは姉のお陰だ。一歩一歩でも強くなっていると感じられるのは勤め先にいる彼らのお陰だ。その彼らを置いて死者に会いに来るのは、もう少し先に置いておきたいと新八は思う。
「あなたはとても真っ直ぐなのね」
「いやあ、一つのことしかできないだけですよ」
女性の笑みを真正面から受け新八はもう一度頬を染める。会うのではなく、見守ってくれればいいのだ。姉弟二人で頑張っている様子を見て、満足そうに笑ってくれればいい。親の背を見て過ごすのは随分前にやめてしまったけれど、親と同様に追いかけたい背中を見つけたのだから。
「私も、負けていられないわね」
「……そういえば、あなたはどうして此処に?」
新八がふと問いかける。鍛えていても息を荒げるほどの過酷な道のりだったのだ。江戸に住んでいなかったとしても、此処まで来るのは骨が折れるだろう。まして新八の目に映るのは、か弱そうな女性である。どうやって此処まで来たのか、聞いてみたいとも思っていた。
「人を待ってるの」
「……それは」
「本当はこんな処に来るはずもないってわかってるの。まして私に会いに来てくれるなんて、思えないけれど……どうしても、望みを捨てきれなくて」
未練がましいと思うでしょう。女性の湛えていた笑みは少しだけいびつに歪む。
彼女も死者との逢瀬を望んで此処にいるのだろう。この地に詳しいようだから、もしかしたら何度も此処へ足を運んでいるのかもしれない。
「いつか前を向ける日が来るのかもしれないと思っているんだけど、まだまだ先みたい。ずっと此処で膝を抱えて蹲ってるの。動いたら思い出がなくなっていってしまいそうで、忘れてほしいと思うのに、忘れたくなくて」
俯いた女性の横顔を眺めて、新八はどう声をかけるべきか迷っていた。月日は確かに記憶を薄くさせていくけれど、なくなっていくわけではないと思っている。心に浸透して自身の一部になっていくのだと新八は思う。彼女に必要なのは、そんな上辺だけの言葉では駄目な気がした。
「昔からそうだった。酷い態度を取られても、嫌いになんてなれなかった。一度振られてる人なの。それでもあの人以外見えなかった。馬鹿でしょう、もう会えないのに、まだ動けないの」
相手のことを話す彼女は寂しげで、それでも寂しさの中に温かな感情が感じ取れた。相手のことが本当に好きなのだろう。未だに。
いつから好きだと明確には語らないが、昔と言うのだから年単位にはなるだろう。それほどにずっと想い続けた相手に先立たれたのでは、確かに前を向くには時間が足りないのかもしれない。
「ごめんなさいね、こんなこと話して。人とお話するの久しぶりだったから」
「いえ。僕で良ければいくらでも聞きますよ。何でも屋ですから」
「何でも屋?」
「はい。江戸のかぶき町にある万事屋で働いてるんです。今回もその依頼で」
「まあ」
そうだったの、と女性は何かを噛み締めるように笑みを深くした。こんな美人を振るなんて、と新八は似合わぬ励ましの言葉を口にする。小さく声を上げて笑う女性に安心したように新八も笑みを見せた。
「……本当はね、わかってたのよ。あの人の傍に私がいられないことくらい。あの人の目は、いつもとっても優しかった。でも、迷惑になるってわかってしまった以上、あの人についていくことができなかった。これ以上突き放されるのが怖かったの。あの人の足枷になるのが怖かった。傍にいられなくても、あの人の無事を願っていようって思ったのよ」
思ったんだけどね。そう呟いて女性は口を閉じた。
憧れ程度の恋ならば、新八にも覚えはある。幼いころの風が吹けば霧散してしまいそうなほど淡い感情の恋。アイドルに憧れを抱いても、良いなと思う女の子がいても、彼女のいうような想いは未だ経験したことがない。
「後悔なんてないと思ってたの。真っ直ぐ前を見て進んでいくあの人達を見送るだけで満足だと思ってた。こんなに未練でいっぱいなんて、自分でも気づいていなかったのよ。もっとぶつかっていければよかったのかもしれないわ」
今更言っても仕方のないことだ。新八ですらそう思うのだ。彼女も本心は気づいている。それでも待ち続けるのは、想いが同じだったからという頼りない確証にも満たないものを信じているからだ。
「……生まれ変わっても、私と巡り合ってくれるかしら」
「……前世だとかそういうの、僕はあまり信じていないんですけど。馬鹿にできないものらしいですよ。縁が深いものは前世でも近しいものだったなんて話、意外とありますから」
「……そう。そうだと嬉しい」
日が傾いて来ているのを目に捉えながら、新八は女性を一人にするのを不安に思った。彼女は人と話すのが久しぶりなのだと言った。どうやって此処まで来たのかはわからないが、恐らくどこかにある寝床でも彼女は一人なのだろう。
「日も傾いて来ましたし、よかったら僕らの泊まってる小屋に来ませんか? 騒がしいけど女の子もいますよ」
気を利かせて新八が声をかける。楽しそうね、と呟くものの、彼女が動き出す気配はない。
「でも、私は此処にいるわ。あまり遠くに行けないの」
「もしかして迎えとかですか? すみません、お一人なのかと思って」
「いいのよ、ありがとう。話を聞いてもらえてとても嬉しかった。帰りも気をつけてね」
その場で手を振る女性に後ろ髪を引かれつつも、新八は会釈をして彼女へ背を向けて歩き出した。迎えが来るまで待っていようと思ったのだが、手を振られてはその場を後にするしかできなかった。
「銀さんによろしくね」
背後から聞こえた言葉に新八は振り向いた。確かにいたはずの女性の姿はどこにもなかった。
「銀さん!」
大きな音を出して新八が小屋へと戻ってくる。だらだらと寝転んでいた銀時は面倒そうに顔を向けた。
「何だよぱっつぁん。でかい魚でも見つけたか?」
「さっき川の近くで! あの! 女性が!」
要領を得ない新八の焦る言葉に銀時は疑問符を掲げる。落ち着け、と声をかけて深呼吸をさせる。
「で、女がなんだって?」
「綺麗な女の人が、銀さんによろしくって言って消えたんですけど、アンタ何してんですか!」
「は? わかんねーよ、こんなとこに女なんていたの。つーかどんな女だよ」
「髪の色素が薄くて、短くて、笑顔が綺麗な人です。さっきまでいたのに、見てない間に消えちゃったんですけど! どこにもいないし!」
別名、天国に一番近い場所。その名の所以を銀時は調べて知っていた。新八が見たという女の正体をもしや、と思い至り、一人顔色を変えた。
「ししししらねーよ、夢でも見てたんだろ。新八の妄想だよそれ。幽霊とかじゃなく」
「いやちゃんと話もしましたし足もあったし、まずあの女性に初めて会いましたし。この場所がどういう処かも教えてもらって……」
言葉を途中で止めた新八は銀時と同じような顔色になっていく。どういう場所なのか、新八は聞いたのだ。死者と対話する場所。彼女はそう言った。彼女が待っていたのは死者ではなかったのか、と新八はようやく考えついた。
「……じゃ、じゃあ、あの人が待ってたのって、銀さん、アンタじゃないんですか。名前呼んだし。今行けばまだいるかも」
「ばっかやろ、お前俺に死人の女の知り合いなんてそんな、俺に未練ある女とか知らねーよ。だいたいどんな女だったんだよ。わかんねーよさっきの説明じゃ。いや別に心当たりとかねえけど。ただの興味だから」
「だから、綺麗な人ですってば。栗色っていうんですか? そんな感じの薄い色の髪で、僕よりちょっと襟足が長い感じの長さで、おしとやかで、えっと」
前髪はこんな感じ、と自分の髪を寄せて、新八が銀時に見せる。ううん、と唸る銀時は、やがてあ、と声を漏らした。
「やっぱり知ってんじゃねーか! さっさと行って来いよ!」
「いや、知ってるっつーか、……あー、そうなんだ……」
訳知り顔で一人納得している銀時に業を煮やし、新八は小屋から叩き出す準備とばかりに拳を握る。それを見て銀時は焦って口を開いた。
「いや知ってるっちゃ知ってるけど、知人なんだよ。あの女が待ってんのは俺じゃねーよ」
「……本当かよ」
「ほんとほんと。俺よりもっと非道な奴待ってるわけ。だから拳おさめてくんない」
俺もっと女に優しいし。と呟いた銀時に対して嘘つけ、と新八がすかさず突っ込んだ。とはいえ、銀時の様子から本当に違うらしいと感じたので新八の拳は緩まった。
「まだ待ってるんだなァ」
思うところがあるらしい銀時は新八が指していた方角を窓から眺める。
「あの人が待ってる人のことも知ってるんですね」
「まあ、一応な」
「……会えるんですかね」
「どうだかなァ。意地っ張りの免許皆伝みてえな奴だから」
「なんですかそれ」
「本人にその気がなきゃ無理やり会わせるわけにも行かねーだろ。まして相手は死んでんだ」
確かに、今を生きる人に立ち止まらせて会わせるわけにも行かないのかもしれない。新八もまた彼女のいた方角を見つめた。
少し話して知っただけの存在。それでも柔らかい笑みは自身の姉を彷彿とさせた。新八が幸せになってほしいと常々願う人の笑顔を思い出させた。待ち人が来るまで動けないと言った彼女は、これからもあの場所に佇んでいるのだろうと容易に想像できる。
「いつか寿命でおっ死んだときにでも、会えればいいじゃねえか」
その頃には、意地っ張りも軟化してるだろうよ。呟いた銀時の言葉に、新八も静かに頷いた。