難攻不落

「散々言い寄ってもこの私に靡かないなんてどうかしてるわ」
 道端に生える雑草を無造作に引きちぎりながら、桃色の髪を持つ女性は唇を尖らせる。
 妙は小さく溜息を吐いて、彼女の傍でともに座り込んだ。
「頑張るわね、神楽ちゃん」
 とはいえ、妙の知るなかでも一際ストイックな印象のある男だ。神楽は確かに美しく成長したけれど、あの男を振り向かせるには相当な時間と労力が必要なのではないだろうか。
 少女だった頃から、彼女は意外と彼に好印象を持っていたように思う。妙の弟である新八も、あの男には信頼を置いている。少女が年上の男性に憧れを抱くのは良くあることだが、それが神楽にも当てはまるとは思っていなかった。
「全く本気にしてない上に、私をまだ子供扱いするのよ! こんなにナイスバディになったっていうのに!」
 あの男の頭の中では、神楽はまだ数年前の姿のままなのかもしれない。年の差を考えると仕方ないことかもしれないが、彼女の気持ちは思春期の憧れだけではないことくらい、妙にもわかっている。
 数年前まであった武装警察のトップにいた男は、当時から仕事人間だなんだと噂が妙の耳にも入ってくることはあった。上司にも部下にも問題児が多かったようだから、必然的に仕事が増えていくのが理由だったのかもしれないが。
 元真選組副長、土方十四郎。局長であった近藤が絡んでの関わりなら腐るほどあった。妙の印象は上司の尻拭いで駆けずり回るかわいそうな人だった。
 話してみれば常識的で、近藤のためを想いつつも妙にも気遣いは一応するという、何とも苦労の多そうな男だった。なまじ顔が良いおかげで、勤めていたスナックで妙を指名されれば、同僚からは随分と妬まれたこともある。
 近藤とは似ても似つかない、綺麗な男だと妙ですら思ったことはある。プライベートはそうでもなかったが、街中で遭遇した時などは、恐ろしく殺気立った空気を醸し出していたこともあった。その様子を遠くから眺めながら、結局は顔が良いだけのチンピラなのだと思っていたものだ。
 妙よりもよほど関わる機会のあった新八が頼りにするのだから、悪い人ではないことくらい妙も気づいていたけれど。
「夜這いでもして既成事実を作るしか……」
「押して駄目なら引いてみろって言うでしょう? たまには冷たくして、あれ? と思わせれば案外すぐに落ちるかもしれないわよ」
 一も十も飛び越してしまおうとする神楽を宥めるために、妙は良くある例えを持ち出した。
 そもそも彼がなぜ神楽を見ないのか。そこがわからないことには動きようがない。子供と思っているから、単純に好みではないから、年の差を引け目に感じているから。冗談だと思っている節があるなら、本当にお遊びだと思ってあしらっているだけというのが一番可能性が高い。
 しかし百戦錬磨のような顔をして、気づいていないなどとは普通ならば到底思えないはずなのだが、なぜか彼には容易に想像がついてしまう。頭が切れる割に天然だ馬鹿だと、彼を良く知る男が嬉しそうに語っていたのを妙は思い出していた。

 溜息が知らず溢れる。神楽には思いとどまるよう提案をしたけれど、それで実行しないとは言い切れないのが現状である。積もり積もって爆発が秒読みまで来ているようだった。そろそろ彼も覚悟を決めなければいけないだろうというのに、当の本人はいつも通りキビキビと動き回っている。
「姐さん、溜息吐いたら幸せが逃げますよ」
「もう逃げてます」
 話しかけてきた男に見せつけるように、妙はもう一度深い溜め息を吐いた。苦笑いを浮かべたのを目の端に捉えながら、妙はぼんやりと空を見上げる。
「考え事ですか」
「神楽ちゃんのことです」
「チャイナさん……何かあったんですか」
 思わず本音を零してしまった妙は、隣に控える地味な男をちらりと見た。いつも土方の傍にいて殴られている男だ。彼なら何か知っているのかもしれない。
「……別に、私には関係ないんですけど。このままだと暴走してしまいそうで」
「んー、土方さんのことですか?」
 察しが良いのはさすがに元真選組といったところだろうか。連日見かける神楽の様子に、辟易している者がいるのかもしれない。
「ええ。あの人がちっとも靡かないって」
「ははは。土方さん、本気にしてないからなあ」
 やはりそうか。あれほど熱烈に求愛されていても尚、あの男は冗談と受け取っている。何と鈍感な男なのだろうか。
「あの人、恋だの愛だの、そういうのもう考えないようにしてるんだと思いますよ」  もういい歳ですしね、と呟く。
 まだ三十代ではないのだろうか。男性なのだからこれからいくらでも話はあるだろう。土方ならば歓迎するという若い女性だっているだろうに。神楽がその筆頭なのだ。
「これ、オフレコなんですが」
 声量を落として男は妙に近づいた。不審げな視線を向けつつも、妙は言葉を待つ。
「土方さん、意外と一途なんですよ」
「……それがオフレコの話?」
 ええまあ、と男はしまりのない笑みを向けた。いつも殴られている姿ばかり見かけるが、少しだけ殴ってしまう人の気持ちがわかったような気がする。
「あの人には、相手がいますから」
「……え?」
 男の言葉は妙にとっても驚きだった。特定の女の影など見えないものだから、てっきり独り身だとばかり思っていた。成程それならば、神楽を相手にしない理由もわかる。
「土方さん、良い人がいらっしゃったんですね。でも、それならそうと言ってくれれば」
「言えませんよ、もういませんから」
 男の目が少しだけ陰る。笑みを湛えていながら、寂しそうに見えた。
「数年前に病で亡くなったんです。とはいえ、それまでも全然会ってなかった……というより、そういう仲にすらなったかどうか。大事に想いすぎて、あの人は遠ざけちゃったんですよ、不器用だから」
 綺麗な人でしたよ。男は続ける。
「優しそうでおっとりしてて、女性らしい人でした。縁談が決まって江戸に出て来られたんですが、旦那が悪人でしてね。とっ捕まえるために戦ってる最中に病状が悪化して、死に目にも会いに行かなくて。武装警察なんて物騒な仕事、いつ死ぬかもわからんでしょう。普通の幸せを掴んでほしかったんだと思います。見るからに両思いだったのに、馬鹿なんですよ」
 結局、彼女は幸せを掴む前にいなくなってしまった。旦那になるはずだった男の正体を知らずに済んだのはよかったのかもしれない。
「そんなわけで、あの人の根っこにはミツバさん……惚れた女性がいるもんだから、どうしてもね。チャイナさんがどうとかでなく、土方さん自体が惚れた腫れたを終わらせちまってるんで、どれだけ言い寄られてももう、どこにも靡かない気はします」
「そんなの相手次第でいくらでも変わるわよ」
 背後に聞こえた覚えのある声に、妙と男は同時に振り向いた。
「神楽ちゃん」
「根っこに誰がいるかなんて私には関係ないわ。私は病気でもないし帰りを待つなんてできないけど、戦うことならできるんだから」
 導火線についた火が根元まで燃えてしまったようだった。妙は神楽に手を伸ばしたが、それよりも先に彼女は走り去ってしまった。
「爆発しちゃうわ、神楽ちゃん……」
「チャイナさんが本気なら、土方さんも応えなきゃなりませんから」
 どう応えるかなんて、神楽にとって悲しい想像しかできないのは、今しがた聞いた女性の影が色濃く妙に残るからだった。大切に想う女性を突き放した土方を、納得はできないが理解はできる。不器用だからこその結果だが、そこまで想われた女性に、妙ですら羨みの感情が胸に渦巻く。
 けれど、神楽は。


「大事にしなくていいから、私のものになりなさいよ」
「……はあ?」
 部屋で煙草を燻らせていた土方に挨拶もせずの台詞だった。当然土方は疑問符を掲げる。構いもせずに神楽が土方の目の前に立ちふさがった。
「私は強いわよ。先陣切って戦うことだって今までだってやってきた。夜兎なんだから当然でしょ。トシを担いで走ることだってできるわ。出るとこ出て、女らしくもなったでしょ!」
 告白とも言い難いずれた台詞を吐き続ける神楽に、土方は呆れた視線を投げかける。
「だから、大事にしなくたって生きていけるから、私のために卵かけご飯を作って」
「卵かけご飯ってお前、一分で出来上がる料理ともいえねえモンじゃねえか」
「毎日!」
「今でも毎日食ってんだろ」
「違う! 私のためだけに毎日作って一緒に食べるの」
「俺はもう少し違うのも食いてえなァ」
 馬鹿馬鹿しいとばかりに煙草を吸うことに意識を持っていった土方に、にじり寄るように神楽が近寄り、項垂れた。
「私は本気なのに……」
「――知ってるよ」
 神楽の様子を眺めながら、土方は煙を吐き出すと同時に口にした。
 呟いた言葉より瞬間遅れて神楽が顔を上げる。瞬きを数度繰り返し土方を見つめる姿は、幼い少女だった頃と変わらない。
「山崎辺りが余計なことを言いやがったな。相変わらずお喋りな奴だ。――俺ァ器用じゃねえからな、惚れた女は一人いりゃあいい」
「どうして、今まで」
「んなもん、若くていい男は他にいくらでもいるからだろ。お前が気づかないだけで傍に何人もいる。わざわざ一回り以上も年上の男に入れあげる必要はねェ。適当にあしらってりゃ諦めてくれると思ったんだがなァ」
「残念ながら、逆効果だわ」
「そうみてえだな」
 ふ、と口角を上げた土方は、持っていた煙草を灰皿へと押し付ける。
「外見てもっと視野を広げろ。若ェんだから」
「外を見てきた結果なんだけど」
「じゃ、もっと見てこい」
「見たって一緒よ。結局トシが一番好きだって思うんだもの。どこの惑星ほしに行ったって、トシ以上の人はいないもの」
「そりゃ熱烈なこった」
「私がトシの惚れた女を二人にしてみせるから」
「ほお」
 関心したように土方は神楽を見つめた。神楽の目は必死だ。
「お前らには情が移っちまったがな。ガキだった頃を知ってるとなァ、確かに成長したんだろうが、そりゃ親戚のガキがでかくなっていく過程を見てるようなもんだ。今のお前を見てたって、大食いのガキだった頃がちらつくんだよ」
「それも私だもの」
「そうだ。結局俺にとっちゃお前は万事屋の糞ガキでしかねえんだよ。わかったらさっさと外行って来い」
「嫌。無意味だって言ったでしょ」
 溜息が一つ。今度は土方が項垂れる番だった。
「突き放してはいそうですかって泣き寝入りするだけが女だなんて思わないで。私は振り向くまで粘ってみせる。万事屋グラさん舐めないでよ」
「しつけェガキだなァおい。俺はV字前髪の女にしか興味ねェんだ」
「この期に及んで髪型!? そんなに言うならV字にしてやるわよ、それで土俵に立てるんならね!」
「やめとけ、似合ってねえ女は論外だ」
 神楽が口を開いたのを遮るように土方は続ける。
「女々しい男と思われようが、俺はこれで良いんだ。この先あいつ以上に惚れる女に出会うこともねェ。真選組がなくなったところで俺は刀振り回して生きるしかねェ。どっちにしろ独り身でいるつもりだからな」
 風穴を開けることも、飛び越えることも許してくれない土方の壁は、神楽にようやく望みを絶たれた涙を流させた。これほど頑なに一人の女を想い続ける彼に、半ば呆れた視線を向ける。
「だから、ちゃんとお前を優先してくれる別の男探しな。お前さんがそうやって泣く未来しか待ってねえぞ」
 俺にはもう、これしかねえんだ。
 腰にぶら下げる刀の柄を愛おしそうに優しく撫でる。その手は神楽へ伸ばされることはなかった。
 部屋を出ていこうとした土方の背中に縋り付くように飛びついた。おい、と困ったような声音で出た言葉の振動が神楽に伝わってくる。
「……ちょっとだけなら、いいでしょ」
 やがて溜息が聞こえ、鼻水つけんなよ、と薄情な台詞が降ってくる。声色は随分と優しいものだった。
 どれほど神楽を突き放したとしても、肝心なところで甘いのは土方の性格だろう。


 どれだけ足掻いても超えられない惚れた女の壁は、神楽に負けの二文字を見せるほどの痛みをもたらした。勝てるなんて思っていなかった。口にしたとおり惚れた女の人数を増えさせるつもりの気概はあったし、それができると思っていた。
 なんだかんだと優しいし、押し続ければ根負けしてほだされてくれるとも思っていた。惚れるかもしれない女の位置に、神楽が行くことが出来ていないだけだった。
 ――このまま、涙と一緒に流れてしまえば良いのに。
 この男への感情を、嫌悪に変えられることが出来たなら。今すぐ殴り倒して息の根を止めてやりたい思いもあるのに、見せてくれた土方の神楽への答えは、一等優しくて神楽を想うものだった。
 大事にしなくて良いって言ったのに。
 これだからたちが悪いのだ。
 子供とあしらっても、本心で神楽に応えられないと言っていても、女子供に厳しく出来ない彼は、不器用ながらも神楽に道を示そうとする。
 お前が不幸になるだけだと、優しい声で言うのだ。こんな見え透いた女たらしの台詞に引っかかる女など馬鹿だと、いつか笑ったことがあった。
 結局、自分もただの女だったのだと思い知らされた。この男の惚れた女が心底羨ましい。死して尚引っかき傷を遺す女に、これから幾度となく神楽以外の女も泣きを見るのだろう。
「……いっそ遊び人だったら、すっぱり諦めがついたのに」
「遊ばれるタマじゃねえだろ、お前は」
 手持ち無沙汰になったのか、煙草の煙が神楽の鼻腔を擽った。
 いつまでも一人を想い続けるこの男だからこそ、こんな不器用な生き方をするのだ。その生き様を神楽は好ましく思う。この男だから惚れたのだ。相手にしないとはっきり言われた今だって、愛おしくて仕方がない。
「もういいわ。傍にいられるなら」
「随分殊勝になったもんだ」
 それじゃ諦めつかねえだろ、とわかったような口を利く。自分は会っていなくても諦めがつかなかったくせに、と心中でだけ毒づいた。諦めなかったわけではないことに気づいたが、神楽はそのまま無視をした。
 ならばこの男の言うとおり、別の男が現れるのを待つことにする。それまでは、この頼りになるようなならないような、優しくてどうしようもない馬鹿の背中を眺めていたいと願った。