閑話 災難

 通勤ラッシュのピーク時は過ぎているものの、それでも車内の混雑具合はかなりのものだった。そろそろバイク通学にでもシフトするべきか、とぼんやり考えていると、体に違和感を覚えた。
 股間のあたりに何かが当たっている気がする。
 満員だからと特に気にしていなかったのだが、そういえば目の前に立つ女性がやたらと体を密着してきていることに気づき、宇髄は一つ瞬きをした。普段の電車でもここまで体を押し付けてくるような乗客はおらず、混雑しているとはいえそこまでか、と周りに目をやると、ある程度離れられる余裕があるではないか。疑問符が湧き宇髄は目の前の女性へと目を向けた。
 宇髄を見上げて薄く笑った女性の口元が視界に入り、スマートフォンを持っていた手の甲に胸を押し付けてくる。股間に当たっていたのは女性の手だったようで、柔らかく揉むように手のひらを動かした。
 宇髄の目が驚愕に開かれた。
 宇髄は女の体に免疫がないような初心ではないが、さすがに電車内で体を押し付け、局部を触ってくるような女は初めてだった。痴女という言葉が脳裏に過り、思いきり女性の顔を凝視した。
 胸を押し付けてくるまでならともかく、股間を揉まれるのは少々困る。苦虫を噛み潰したような表情で、宇髄は音もなく逃げるように後退りした。
 いやいやいや。朝っぱらから何発情してんだこの女。
 後退りした背中に人がぶつかり、殆ど移動することはできなかった。一応謝ったものの宇髄はそれどころではなく、女性は尚も宇髄の手の甲に胸が当たるようにしてくる。痴漢の冤罪の話を思い出し、このままでは痴漢扱いされるのでは、と宇髄は顔色を変えた。被害者なのにそんなことになっては目も当てられない上、その後の人生がめちゃくちゃになる。とにかく早く着いてくれ、と宇髄は焦った。
 車内のアナウンスが流れ、宇髄の降りる駅が近づいた。ドアが開くと同時に人波に紛れ、急いでホームを走った。
「やべーぞ、電車で痴女に出遭っちまった!」
 すでに席に座っていた友人二人に駆け寄り、朝の出来事を必死に言い募った。聞こえていたらしいクラスの連中は嘘つくなと取り合わず苛立ちを覚えたが、冨岡と錆兎は何やら複雑な表情を見せてきた。
「痴女なんざ初めて出くわしたわ、本当にいるんだな。何だよ、お前らも信じねえのか」
「いや。宇髄は何線に乗ってるんだ」
「そういやお前らとは路線違ったか」
 普段使う路線を口にすると、錆兎はそうかと頷いて災難だったなと労った。二人は宇髄の話を信じているようだ。笑い飛ばしたクラスメートとは違い話のわかる奴らである。
「あービビった。バイク通学に変えようと思ってたとこにこれだよ」
「宇髄はそういうのは良くあるのか」
「何そういうのって。痴女は初めて遭ったぞ」
「変質者とかだ。多かったのか?」
「いやあ? 変質者っつうか女ばっか寄ってきてたな」
 何せ子供の頃にファーストキスを奪ったのも成人した大人の女だった。別に気にしているわけではないが、良く考えると色々と変な女が寄ってきていたことが多かった気がする。女を変質者に変換すれば多かったといえるだろう。
「まあ宇髄は目立つからな。目をつけられることもあるかもしれんが」
「いや、目立つからって理由で股間揉まれたら堪んねえわ。この俺が逃げ腰になっちまったじゃねえか」
 宇髄の言葉に二人は更に表情を歪ませた。幼馴染だか何だか知らないが、表情まで似通うのは何なのだろうか。痴漢扱いされなくて良かったな、と錆兎が宥める。
「冤罪ぶっかけられてたら俺お先真っ暗じゃねえか、人生プランくらいあるっつうのに」
「両手で吊革に掴まると良いらしい」
「冤罪はなくなるかもしんねえけど、触られ放題じゃねえ? まあ良いけどよ、明日からバイクで来るわ」
「それが良い。自衛しなければどうなるかもわからんからな」
 宇髄の言葉に頷いた二人はホームルームの準備を始めた。大きな溜息を吐いた宇髄は、地味に心配しているらしい二人に話してひっそりと安堵した。

*

 視線を向けたのは偶然だった。
 通学の満員電車は相変わらず混雑していたし、乗降の人波に流され奥へと押し込まれるのもいつものことだった。次に停車すればあと一駅、そう考えてふと窓から視線をずらし近くの乗客へと向かわせた。
 その先には普段と違う光景があった。
 どこかの制服を着た女子高生の背後にぴったり張り付くように男が立っている。満員電車で距離を取れというのは無理な話だが、手すりに掴まる女子高生が怯えたような表情で顔色を悪くしているのが見えた。
 身に覚えのある表情に、義勇の眉間に皺が寄っていくのを自覚しながら観察した。
 唇を噛み締めている女子高生の腰のあたりに後ろの男の腕が蠢くのがわかった。女子高生の目が固く閉じられたのを見て嫌な記憶が蘇り、義勇は思わず腕を伸ばして男の手首を掴もうとした。
 ――電車で痴女に出遭っちまった!
 ふとクラスメートの言葉を思い出し、義勇は一瞬躊躇した。
 痴女なんざ初めて出くわしたわ、本当にいたんだな。そう興奮しながら話した宇髄は、放っておけば痴漢扱いされたかも、なんて恐ろしがっていたことを思い返す。だが目の前の光景は男から手を出しているようにしか見えないし、女子高生はどう考えても嫌がっているようにしか見えない。誰が見てもそう思えると感じるくらいだ。
 俯いて震えているようにも見えた女子高生の耳元へ男が顔を近づけた瞬間、義勇は躊躇した手で咄嗟に男の手首を掴んだ。
 考えるのは後で良い。どちらが被害者だとしても後は警察に任せれば良いし、何より義勇の目には女子高生は怯えているように見えた。自分で見たものを信じれば良いのだ。一応問いかけるくらいはしておくが。
「……間違っていたらすまないが、同意の上だろうか」
「………っ、違います!」
 振り向いて義勇に見せた女子高生の顔は、見開いた目に水分の膜が張り、驚きと恐怖と安堵が混じったような複雑な表情だった。
 あの時、自分も似たような表情をしていたのだろうと思う。
 電車で思いきり局部を擦りつけてきた、あの痴漢から逃げた時と。
 降りる駅の一つ手前で義勇は腕を掴んだ男を引きずってホームへと降り立った。立っている駅員へと顔を向け、そのまま引きずってそばへと近寄る。痴漢という単語に慌てて警察を呼ぶ駅員に男を預けて義勇はそのまま電車に乗った。女性の肩を借りてホームのベンチに座った女子高生へ視線を向け、災難だったなと心中で声をかけて。
「えっ。ええと、残らなくても良いの?」
「いや、遅刻するので」
 そう、と困ったような顔をした年配の女性客は、それでも何か興奮しているような様子を見せていた。一本遅れればぎりぎりの時間なのでできれば乗り遅れたくない。そもそも自分は被害者ではないので付き添ったところで何もすることはないし、いても迷惑になるだろう。
 嫌な記憶をはっきり思い出してしまった。
 満員電車ではなく、乗客は少なく空いている時間帯だった。ドア付近に立ってぼんやり景色を眺めていると、乗り込んできた客が義勇の真後ろに陣取った。義勇の立つ側のドアが開くのを待つのだろうとその時は気にすることはなかった。ドアが閉まり電車が発車してしばらくすると、腰を鷲掴まれ臀部へ何かを押し付けられた。驚いて背後に視線を向けると、サングラスで顔を隠した男が荒い息を吐いて義勇へ局部を擦りつけていた。
 硬い感触に唖然としたまま動けないでいると、ゆっくりと男の腰が上下し始めた。頭の中に疑問符が大量に湧いてきて、今まで感じたことのない恐怖を抱いた。
 何、何故、誰と混乱して働かない頭に疑問ばかりが増えていきそのまま硬直していると、車掌のアナウンスが聞こえて電車はゆっくりと停車し、我に返った義勇は腰を掴んでいる手を捻り上げてその場から走って逃げた。あんなに恐ろしいと感じたのは後にも先にもあの時だけである。
 気分が悪い。涙が滲んでいた女子高生の強張った顔を思い出し、憂鬱になりながら停車駅のホームへと降りた。
 あの後義勇は幼馴染に泣きついたものの段々腹が立ってきて、自分は女に見えるのかと憤慨しながら確認してしまったほどだ。姉には心配をかけるからと言わなかったけれど、ともに電車に乗る時はできるだけ姉を乗客から庇うようになった。そのくらい衝撃的な出来事だった。
 あの女子高生も今後は誰かと一緒に乗るほうが良いだろう。自衛はして損はないと義勇は周りから教わった。一時は義勇も電車を避けるようにもしていたくらいだ。
「おはようさん。何か機嫌悪いな」
「別に。嫌なことを思い出しただけだ」
「朝っぱらからかよ、何か知らんが忘れろ忘れろ」
 痴女の話をしていたのは先週のことだったが、宇髄はすでに忘れたかのように振る舞っていた。言葉どおり忘れるのが良いだろう。深く息を吐き、気を取り直してホームルームの準備を始めた。

「痴漢を見かけた」
 帰り道、幼馴染の錆兎と帰路を歩きながら朝の出来事を一言口にした。
 義勇が泣きついたことを覚えているらしい錆兎は、お前が被害を受けたわけじゃないのかと問いかけてきた。
「痴漢に遭ったのは一度だけだし、高校に入ってからは何もない」
「なら良いんだが。あれだけ色々あったのに高校からはぴったり止んだな。もう少し前からだったか」
「成長期が終わったあたりか。やはり女に見えていたのだろうか……」
「そんなことはないと思うが……」
 中学の頃は確かに背も低かった頃もあったが、順調に伸びていたはずだった。錆兎と変わらない速度で成長していたはずだったのに。
「変質者も誘拐も男と認識していたみたいだからなあ。金渡すから家に来いとか言ってきたおばさんとかいただろう。男を標的にする痴漢もいるんじゃないか」
 錆兎の言葉に背筋が寒くなった。恨めしげに睨むとすまん、と困ったように謝られ、何かあれば必ず教えるようにと錆兎は言い含めた。
「その被害者も災難だったな。トラウマにならないと良いが」
「……どうだろうか。泣いていたし」
 痛ましそうに顔を歪めた錆兎は、溜息を吐いて相槌を打った。
 女友達と通学している真菰は電車内では変なことはないと言っていたのだが、高校に入学して早々痴漢に遭ったと相談しに来たことがあった。友達と遊んだ帰り道、乗り込んだエレベーターの中で思いきり抱き着かれ、思わず腕を捻って脱兎のごとく逃げ出したのだという。義勇を心配ばかりしていた真菰はまさか自分がそんな目に遭うとは露ほども思っておらず、少しつつけば零れ落ちそうなほど涙を溜めていた。調べてみると路上でも店でも起こり得ることを知り、三人で唖然としたものだった。
 その後は何もないと聞いているが、このまま何事もなく過ごしていければ良いと思う。
 朝の女子高生に対しても義勇はひっそりと心中で慰めた。