閑話 通勤電車

 朝の癒やし空間がある。
 見目麗しい高校生の男女が毎朝談笑しながら通学するようになった。
 最初に見かけた時は思わず美男美女だと感動し、不躾にも長い間眺めてしまっていたのだが、ふと違和感を持った。
 どこかで見たことのある二人だった。あれだけ目立つ容貌の二人だし、見たことがあるなら覚えていても良いはずなのだが、心中で唸りながら記憶を掘り起こす。女の子の笑顔を見つめていると、ふいにある残暑の出来事が思い浮かんだ。
 ――痴漢されてた子だ。
 すぐにでも泣きそうな顔をしていて、今の様子とは似ても似つかないけれど、あの容貌は間違いない。そして男の子は痴漢の腕を掴んだ子だ。
 痴漢が捕まえられる場面を初めて見たからその時は驚いて、へたり込んだ彼女に肩を貸してホームへ一緒に降りたのだ。そして男の子は捕まえた痴漢を駅員に引き渡して閉まりかけた電車に再び乗り込んでいった。私はといえば、俯いている女の子を放っておくこともできず、聴取に向かうまで付き添っていた。
 当時は知り合いという様子ではなかったけれど、もしかして知り合いだったのだろうか。それともどちらかが声をかけて知り合ったのだろうか。
 どちらにせよ二人は和やかな雰囲気で談笑しているので、良い関係を築いていることはわかる。時折女の子は頬を染めたり可愛らしい仕草を見せる。そうかそうか、初々しいなあ、青春だなあ。なんて微笑ましくなりながら、毎朝勝手に癒やされていた。
 三月も半ばを過ぎた頃、その日も乗り込んでくる二人を視界に入れて癒やされていると、少しだけ雰囲気が変わっているような気がした。
 いつもドアを背にして女の子が立ち、向かいに男の子が立っている。私が陣取った場所によっては男の子の顔は見えず、どんな表情をしているのかはわからない。ただ女の子はずっと頬を染めていて、照れたように鞄を抱きかかえたりする。日々に疲れきった会社員には眩しく感じるほどの笑みを向ける様子も見えた。
 ああこれは、好きになっちゃったんだろうな。
 見かけた時から女の子は照れたりする仕草が見えていたけれど、明確に意識しだしたのではないかと野暮な勘繰りをしてしまっていた。口にはしないからせめて脳内で癒されるくらいは許してほしい。心中で謝りながら私は観察していた。男の子の顔は見えないからわからないけれど、両想いだったりするのではないか。あんな可愛い女の子が頬を染めて見つめてくるのだ、男はきっと即落ちしてしまうだろう。
 そしてある時私は見てしまったのだ。
 初夏を過ぎ梅雨に差し掛かった頃、人混みに隠れて見えにくいけれど、二人が手を繋いでいるところを。
 あー! そうなったんだ! 青春だなあ!
 何ということだ。あの時の痴漢は犯罪者ではあるけれど、恋のキューピッドにもなってしまったようだった。今日は二人の横顔が見える位置に私は立っており、無表情の男の子がふいに見せる笑顔が驚くほど柔らかくて思わず凝視してしまった。
 乗車位置も相まって表情を良く見ていたのは女の子側だったけれど、しっかり男の子も彼女を好きなのだろうことが伝わってきた。何ということだ、癒しどころではない。日々の活力にでもなりそうなほど元気になってしまった。
 男の子が降りて女の子一人になると、鞄を抱えて窓の外を見始める。男の子に見せていた笑顔も鳴りを潜めて、少しばかり寂しそうにも見えるのだ。
 ふとこちらへ顔を向けた女の子が、私をじっと見つめてきた。
 こんなことは初めてだった。いつも遠目に気づかれないように観察していて気づかれたことなどなかったのに、女の子とはっきり目が合ってしまっている。先程よりも空いた車両で移動は簡単にできるようになっており、ドアに背を預けていた女の子がこちらへ近寄ってくるのが見えた。
「あの、」
「は、はい!?」
「以前肩を貸してくださった方ですよね? ええと、去年……覚えていらっしゃらないかもしれませんが」
 怒られるのかと思ったのだが、言葉を濁して女の子はあの時のことを口にした。
 痴漢の話など周りに聞かれたくないだろうから、私は小さな声で返事をした。
「覚えてます。あの時は大変でしたね」
 私の言葉に目を輝かせた彼女は、九十度以上腰を曲げてお辞儀をした。慌てて頭を上げてもらうよう肩を叩くと、恥ずかしそうに口元を覆って周りへと視線を巡らせた。間近で見るともっと可愛かった。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
「いえいえ。トラウマにならなくて良かったです」
 むしろこちらがお礼を言いたいくらい癒しとしてお世話になっているのだが、さすがにそんなことを口にしたら引かれそうなので黙っておく。
「あの手合が捕まるところを初めて見たので印象に残ってました。元気そうで良かったです」
 憔悴しきっていた頃と比べても、彼女は元気で何より楽しそうに通学しているようだったので、ひっそり安堵していたのだ。あの時男の子がいなければ、今頃どうなっていたかもわからない。
「付き添っていただいて本当に安心しました」
「それは良かった。ああいうのはどこでもありますから充分気をつけてくださいね」
「ええ、ありがとうございます」
 笑みを向ける彼女は私が出会った中でもひと際可愛くて、その手の輩から目を付けられてもおかしくない。だがあの男の子がいるなら大丈夫なのではないかとも思う。
 停車のアナウンスが流れる。私の降りる駅はまだ先だけれど、彼女がここで降りることは一方的に知っている。もう一度頭を下げた彼女に向かって声をかけた。
「こちらこそいつも、行ってらっしゃい、お気をつけて」
「え?」
 ゆっくりと停車した電車のドアが開き、私の失言に不思議そうにしながら彼女は降りようとした。足をホームへと踏み出した時、彼女の頬が真っ赤になったのが見えた。ホームから私の顔を凝視して唖然とする彼女に、思わず私は手を合わせて頭を下げた。
 しまった。言うつもりのなかったことを口にしてしまい、彼女はきっと気づいてしまったのだろう。私が二人に気づいていたことを。本当に最悪な失言だった。彼女は照れて驚いただけのように見えたけれど、後から気持ち悪いとか思われないことを祈る。
 明日からいなくなっていたらどうしよう。申し訳なくなって私は溜息を吐いた。