追い込み
「これ貸してあげる!」
兄弟子たちの試験が終わり、久しぶりに満面の笑顔を見せた真菰に帰り道声をかけられた。
何度自己採点しても足りてない気がするのだと不安げにしたものの、今更くよくよしても仕方がないとあっさり切り替えて、炭治郎の試験を応援すると言ってくれた真菰に礼を告げると、鞄からマフラーを取り出した。
「高校受験にも持って行って、センター試験にも着けていったやつ。義勇がね」
「義勇さんの?」
試験が終わって奪ってきたのだと言い、炭治郎の首に巻きつけながら悪戯っぽく笑う。母以外の女の人にマフラーを巻かれる経験がなく、炭治郎は照れたように頬を染めた。
「いやあ、炭治郎は義勇のお守りが効くんじゃないかと思って。憧れてるもんね」
兄弟子たちは等しく尊敬しているが、恩人である義勇のことは確かに人一倍憧れの意識を持っている。それを知っている真菰がわざわざ義勇からマフラーを借りてきたようだった。
「いつも使ってるものじゃないんですか?」
「大丈夫だよ、予備あるの知ってるもん。合否もまだだけど、義勇なら受かってると思うし。炭治郎が受かれば縁起物になるよ」
「責任重大ですね……頑張ります」
義勇には炭治郎に貸すと伝えているのかはわからないが、真菰の気遣いに有難く気合いを入れ直した。
「真菰、炭治郎」
「あ、義勇」
真菰の視線の先を振り向くと、いつもと違う色のマフラーを巻いた義勇が近寄ってくる。竈門ベーカリーに寄ろうと思っていたと口にした。
「炭治郎に貸すつもりだったのか」
「うん、お守りになるでしょ」
「まだ受かってないのに……」
真菰が炭治郎の首に巻いているマフラーを見て、義勇は困ったように眉尻を下げた。大丈夫だと背中を叩く真菰の行動は、無意識にプレッシャーを与えているようだ。使うのは構わないが、と義勇は呟いた。
「いや、でも俺も義勇さんの私物なら気も引き締まりますし。絶対縁起が良いです」
そうかなあ。不安げなのが手に取るようにわかり、炭治郎は拳を握って熱弁する。
兄弟子たちは決して成績が悪いわけではないし、三人なら問題なく受かっていると断言できる。真菰がお守りだと借りてきてくれた恩人の私物があれば、炭治郎だって落ちる気なんてしなかった。
「落ちる気がしないのは胡蝶の家庭教師のおかげだろう」
「それも物凄くあります! けどこれがあればもっと頑張れます」
「……落ちるわけにはいかなくなった」
それもプレッシャーになったのか義勇は一言恨めしげに呟いた後、炭治郎に笑みを向けた。三人で竈門ベーカリーに向かって歩き始める。
これから炭治郎もしのぶと追い込みの勉強をする予定である。
以前驚くほど意識してしまったしのぶとの勉強時間は、とりあえず部屋の扉を開けておくということを実践した。塾に通っている善逸たちを毎回呼ぶわけにもいかず、どうにかして緊張を紛らわす方法を探していたのだが、扉を開けておくというのは炭治郎の気持ち的にもなかなか効果があった。時折竹雄や花子が廊下を通り、顔を出して息抜きに話をしては去っていくので、しのぶに緊張する暇がなくなったのだ。まあ、それに慣れるまでは夢に見たりもしてしまったのだが。
「そうだ、もし良かったら最後の追い込み見てもらえませんか。理数はしのぶさんに教えてもらってかなり成績が上がったんですけど、他の科目も心配になってきて」
「良いよー。だったら錆兎も呼ぶね」
慌ててわざわざ呼ばなくてもと止めたのだが、皆に会いたいだろうからと真菰は笑った。センター試験が終わり気を抜ける時間ができて、ずっと見ていない竈門家の面々にも顔を出したいと話していたそうだ。
「あら、義勇くんと真菰ちゃん。久しぶりね」
「お久しぶりです」
母の言葉に義勇と真菰が会釈をした。試験が終わったから来てくれたのだと告げると、母はお疲れ様と二人を労った。そのまま住居に上がり炭治郎の部屋へと入って荷物を置く。飲み物を準備するためにキッチンに向かおうとした時、しのぶが来たと母から声がかけられた。
「あ。あら、二人ともいらしてたんですね」
炭治郎が飲み物を持って部屋へと戻ると、義勇と真菰にまとわりつく弟妹たちを眺めながら立っているしのぶがいた。この後錆兎も来てくれるので、炭治郎の部屋はかなり混雑してしまいそうだった。
「あの、」
控えめに廊下からかけられた声に振り向くと、禰豆子が部屋の中を窺いながら口を開いた。
「お兄ちゃんのついでで良いんですけど、もし時間があったら私も勉強教えてほしくて……」
どうやら家庭教師がたくさん来てくれたので、禰豆子は今まで言わなかったことを頼みに来たようだった。
「ついでなんて水臭いなあ。科目はどれ?」
「満遍なく……学年末、かなり難しいって言われてて」
「そっかあ。禰豆子はどの先生から先に教えてもらいたい? 私は英語、義勇は歴史、しのぶちゃんは理科と数学! まだ来てないけど錆兎は国語。満遍なくいるよ」
しのぶが家庭教師をしてくれるおかげで、ほぼ全ての科目を教わることができるようだ。義勇や錆兎は歴史と国語のなかでも一部分が得意なようだが、そこ以外が苦手というわけではないらしい。
「お兄ちゃんはどれから見てもらうの?」
「いつも理科からだし、じゃあ理科から教えてもらうよ」
「じゃあ、英語からで」
「オッケー! 義勇は六太たちと遊んでてよ」
真菰の言葉に喜んだ六太たちが義勇の手を引っ張ってリビングへと連れて行く。同じ部屋では気が散ると思ったのか、真菰も禰豆子とともに別室へと向かった。
「本当に頭が上がりません……」
「良かったですねえ、三人とも来てくださるなんて」
呼ばれて竈門家に来た錆兎がしのぶたちの様子を見て、ならば店を手伝うと口にした。てっきり弟妹の面倒を見てくれている義勇のところに混ざるのかと思っていたのに、炭治郎は思わず驚いて首を振った。
「炭治郎も禰豆子も勉強しなきゃならないんだろう。竹雄たちもたまにはがっつり遊びたいだろうし、俺は今手が空いてる。まあ接客なんてやったことないからあんまり役には立たないかもしれないが」
「勉強教えてもらって、さすがにそんなことまでお願いするわけには……」
「だったらおばさんに聞いてこよう」
相変わらず判断が早い。炭治郎相手では平行線だと感じたのか、母に手伝いが必要かどうかを聞きに行った。しばらくして笑顔で戻ってきた錆兎は、恐縮していたものの頷いてくれたと口にした。
「うわああ、すみません本当に……」
「礼をしたいなら受かってみせろ。それ以外は要らん」
「はい……」
錆兎に言い含められる炭治郎を見て堪えるように笑ったしのぶに恥ずかしくなりながらも、炭治郎は有難く厚意を受け取ることにした。
「いたれりつくせりで申し訳ないです」
「皆炭治郎くんたちが可愛いんですよ。素直に年上に甘えて良いと思いますけど」
「年上……しのぶさんも義勇さんに甘えたりしますか?」
長男故か炭治郎は人の厚意に甘えることが少なく、こうして甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる兄弟子たちにだけは素直になることがあった。しのぶもそうなのだろうかと単純に疑問に思い口にしたのだが、しのぶは少々頬を染めて答えた。
「ま、まあ、頼ることは色々……錆兎さんも真菰さんも優しいですから」
「そう、優しいんですよね。俺もいつも頼ってしまうんです」
だから余計に申し訳ないのだが、あの三人が揃うとやり込められてしまうのだ。要らないとは言われていても、今度しっかり礼をしなければならないと炭治郎は考えた。
「しのぶさんにもずっと頼りきりですみません。受かったらお礼します」
「別に構わないんですけど……楽しみにしておきますね」
その後いつもどおり理科の問題集を解いていきひと息ついたところで、別室から真菰が廊下を通るのが見えた。しばらくして錆兎が住居に戻ってきた。禰豆子は次は国語を教えてもらうようだったので、炭治郎は引き続きしのぶから数学を教えてもらうことにした。
理科よりも少々難解に思える数学に取り組んでいると、六太を肩車した義勇が弟妹とともに部屋を覗くように顔を出した。どうやら炭治郎の勉強が気になった六太たちにせがまれ様子を見に来たらしい。
「すみません、義勇さん」
「いや。捗っているか」
「はい。あ、いや、全部わかるわけじゃないんですけど、しのぶさんのおかげでかなり」
「そうか」
あと少しでノルマの問題を解き終わるので、それが終われば次は歴史を教えてほしいと口にすると、義勇は頷き六太を宥め、花子に手を引かれリビングへと戻っていった。その様子を黙って眺めていたしのぶに気づき、炭治郎ははっとした。
二人は付き合っているのに、炭治郎の勉強に時間を割かれ二人でいることができないのではないだろうか。申し訳なくてつい謝るとしのぶは驚いたように目を丸くして、頬を染めて首を振った。
「炭治郎くんが気にすることではありませんから! 冨岡さんたちも試験が終わったばかりですし、ご弟妹と遊びたいと思いますし」
余計なお節介を口にしてしまったようだった。そういうのではなく、としのぶが続ける。
「……愛想のない人ですから、子供には避けられるのかと思っていたので意外だっただけですよ」
「ああ。皆義勇さんが中学生の頃から知ってるのでもう慣れてるんです。昔は良く笑っていたし、錆兎さんたちも来ると良く遊んでくれたから」
義勇を引っ張って店に連れてきた時、弟妹たちは物珍しそうに義勇にまとわりついていた。六太なんかはまだ産まれていなかったけれど、他の兄弟が懐いていたからか人見知りすることもなくくっついたりしていた。道場に通い出して錆兎と真菰も店に来るようになると、皆嬉しそうに三人に懐いていたのだ。その名残が今も続いている。
「店を手伝ってると俺もなかなか構ってやれなくて、三人には本当にお世話になってます」
「偉いですね、炭治郎くんは」
突然褒められて炭治郎は思わず頬を染めた。
店を手伝うのも弟妹を構うのも炭治郎にとっては当たり前のことで、偉いと言われるようなことだとは思っていなかった。禰豆子だってそう思っているだろう。しのぶは柔らかい笑みを向けて、鞄の中を漁り始めた。
「いつも頑張ってる炭治郎くんに。他の人には内緒ですよ」
手のひらに乗せられたのはシャープペンシルだった。書いていても手が疲れず、しのぶがいつも重宝している物と同じ物だという。自分用に新しく買い替えようと買っていたものだと言った。
「えっ、いやそんな、しのぶさんの物なら貰うわけには」
「まだ使ってませんから、私のではありませんよ。テストで使うと何となくですけど、すらすら問題が解けるんです。気に入らなければ返していただいて結構ですけど」
「気に入らないわけじゃ……」
困り果てた炭治郎は、シャープペンシルを眺めてしのぶの顔を見て、やがて頷いて握り締めた。礼を伝えるとしのぶは満面の笑顔を見せた。
こんなに世話になって良いものか。兄弟子たちとしのぶから必要以上に甘やかされているような気がして、何だか慣れなくて気恥ずかしかった。