家庭教師2
翌週溜息を吐きながら道場へと足を踏み入れると、兄弟子たちの顔が炭治郎を出迎えた。どうやら息抜きに稽古に来たらしく、久しぶりの姿に嬉しくなったものの、義勇を見て炭治郎は思わず勢い良く頭を下げた。
「すみません、義勇さん!」
きょとんとしたのは三人全員で、後ろの玄関から挨拶をするしのぶの声が聞こえ、炭治郎はどうしようもなく頬に熱が集まるのを感じていた。どうかしたのかと声をかけられるが、顔を上げることができなかった。
「……良くわからんが、炭治郎なら構わない」
「駄目ですよ! 内容も聞かずに許しちゃ駄目です!」
炭治郎ならと口にする義勇からは信頼の匂いしかしなかった。炭治郎が義勇に対して悪意を向けることなど疑いもしていない。確かに悪意ではないわけだが、そういったことも恐らく心配していないのだろう。そもそもしのぶが炭治郎の家庭教師をしていることを知っているのかもわからなかったが。
「なら理由を話せ」
「……言えません」
言えるわけがない。義勇の彼女であるしのぶにとんでもなくどきどきしましたなどと、口にできるはずもなかった。
「本当に良くわかりませんけど、勉強のことですか? 私なら言えます?」
「もっと言えません!」
もっと? と不思議そうに首を傾げる義勇としのぶに、炭治郎は羞恥で涙が出そうになってきていた。
きっと二人は会うのも久しぶりなのだろうに、炭治郎の様子に心配させてしまっている。謝ったのが悪いのだが、黙っていることもできずつい炭治郎は口にしてしまった。何だかとてつもなく罪悪感を覚えてしまったのだ。
「義勇にも言えないなんて珍しいな。俺には言えるか?」
錆兎は気遣いから別室に炭治郎を連れていき、落ち着くようにと宥めた。正直錆兎にも言い辛いのだが、女の人である真菰に聞かれるよりはましだろうかと口を開く。普段より数段小さな声が炭治郎から漏れた。
「……あー、それは……まあ、うん。言えないな」
複雑な表情を照れたように頬を染めて、錆兎は曖昧に言葉を濁した。恥ずかしさのあまり両手で顔を覆っていた炭治郎の肩を、錆兎は普段の力強さも鳴りを潜めて優しく叩いた。
「まあ、胡蝶も見惚れられ慣れてると思うし。気にしていないだろう」
炭治郎が見惚れていたことに気づいていないようではあった。道場の面々に信頼を置いていることは良く伝わってきていたので、まさか炭治郎がそんな目で見ていたなどとは夢にも思わないのだろう。
「でも俺、今まで平気だったのに……」
「まあその、なんだ。部屋に二人きりというのが駄目だったんだろう。禰豆子とかと一緒に勉強すれば良いんじゃないか?」
「禰豆子……」
何となく、禰豆子を頼るのはやめたほうが良い気がした。
しのぶは義勇の彼女である。禰豆子は炭治郎が義勇への気持ちに気づいているとは思っていないだろうし、しのぶに対して何か嫌な感情を抱いているわけでは決してない。それでも何となく、言い表すことはできないが、禰豆子の勉強を炭治郎がしのぶに頼むのはしてはいけないような気がした。禰豆子自身が頼むのなら問題はないと思うけれど。
「それか友達の勉強も見てもらうのはどうだ。理数苦手な子だっているだろう」
善逸は数学が苦手だけれど、善逸に頼んで良いものか。以前言われたことを意識してしまった炭治郎としては、何だか素直に頼みにくい。玄弥と三人なら大丈夫だろうか。
「……善逸と玄弥も一緒なら……」
「そうか、なら胡蝶に頼もう。……あまり気にするなよ、健全な証拠だと思うし……」
美人な女の人に見惚れることは駄目なことではないのだと錆兎は慰めた。それも理解できるのだが、わざわざ慰められたことで更に炭治郎は羞恥を感じてしまう。錆兎に悪気は一つもないけれど。
「錆兎さんはしのぶさんに見惚れたことはありますか?」
「俺に聞くのか!? い、いやまあ、最初は確かに美人で驚いたよ。……ただ俺は胡蝶より可愛いと思う子がいるから、そんなには」
照れながらも少しだけ教えてくれた錆兎の仄かな恋心のようなものに、炭治郎は別の理由で頬を染めた。それを教えてくれたことにも炭治郎は照れてしまった。
「身近な女子にどぎまぎするのも普通のことだ。俺だってある。義勇だってそんなこともあっただろう、たぶん」
「そうですか……ありがとうございます」
しのぶを見て嬉しそうにするところは良く見るけれど、はっきりいってしのぶ相手ですら義勇がどぎまぎしている様子は見たことがなかった。錆兎が言うならば、炭治郎には見えなかっただけで義勇にも覚えがあるのだろう。思いきりたぶんとついていたが。錆兎も同じように感じたこともあるというのだからとりあえずは安心して、ようやく顔を上げ三人のいる部屋へ戻った。
「大丈夫ですか?」
「ああ、実は友達二人の勉強を胡蝶に見てもらいたかったらしくてな。それで言おうか迷っていたんだ」
「何だ、そんなこと。炭治郎くんのお友達なら構いませんよ」
「すみません……」
問題ないと笑うしのぶの顔を見ても、先週の炭治郎の部屋にいた時ほど緊張することはなかった。善逸の言葉を思い出してしまったのと、やっぱり二人きりが良くなかったのだろう。
結局何故自分に謝ったのかと義勇は不思議そうにしていたので、何と伝えるべきか悩んでいると、錆兎がまた助け舟を渡してくれた。
「気を遣ったんだ。お前胡蝶と殆ど会っていなかっただろう。今日も久しぶりなんだろう?」
「……まあ」
バツが悪そうに錆兎から目を逸らし、義勇は頷いた。しのぶの困ったような顔が苦笑いを乗せていた。
「ちゃんと連絡していたのか?」
「勉強を疎かにするわけにもいきませんから連絡はほぼ貰ってませんよ。送るって約束したのに、ねえ」
錆兎の呆れた視線に義勇の眉尻が下がる。夏が過ぎ、文化祭が終わってからしのぶに殆ど連絡をしていなかったらしい。
「気が散るだろう」
「言い方」
「しのぶちゃんと連絡取ると、しのぶちゃんのことばっかり考えるからだよねえ」
「言い直さなくて良いです!」
しのぶ自身も義勇の口下手加減を知っているので、気が散るという言葉にどんな含みがあるのか大体察したようだった。赤く染まった頬を隠すようにしのぶは手のひらを頬に押し当てていた。
しのぶの照れている様子に炭治郎は安堵した。義勇と一緒にいるしのぶは炭治郎の目から見ても、年上なのにとんでもなく可愛く映る。いつも通りの二人に酷く安心して、胸の奥底がじわじわと薄っすら蝕むような罪悪感が続いていることに、炭治郎は溜息を吐いて誤魔化すように着替えに行った。
*
「はああ、凄い、全然わからなかったのに理解できた」
善逸と玄弥がしのぶを目にした時は、二人とも似たような反応をしていた。顔を真っ赤にして目を剥いて驚いている二人に、気にするでもなくしのぶは自己紹介をして、苦手なところが何かを質問していた。
その後は善逸は、授業中のやる気のない態度などどこへ行ったのかと言いたくなるほど積極的に問題に取り組み、積極的に質問し、本当に苦手なのかとしのぶを疑わせていた。やる気がなかっただけではないかと突っ込まれていたが、しのぶの教え方が上手いのもあるのだと思う。
玄弥はといえば、ただただ顔を真っ赤にしたまま黙って問題と向き合っている振りをしていた。炭治郎自身も免疫があるわけではないが、女子高生相手にドがつくほど緊張しているようだった。受験生なのに勉強以外のことに気を割かせてしまい申し訳なかったが、炭治郎は二人がいるだけで有難かった。
「不死川玄弥くん……ひょっとしてお兄さんがいます?」
「え、あ、はい」
「やっぱり。冨岡さんたちのお友達ですよね。お兄さんと似てますし」
最初に自己紹介をした時、聞き覚えのある名前にしのぶは反応した。不死川といえば、体育大会の日に真菰と一緒に玉入れに参加したあの玄弥の兄だ。義勇の友達だからかしのぶも会ったことがあるようだった。
聞いたことがあると言いながらも冨岡が誰なのかわからなかった善逸に、義勇のことであると教えると大層嫌そうに顔を歪めた後、あの人かと相槌を打った。
「善逸くんは冨岡さんが嫌いなんですか?」
「え、いや、まあ好きじゃないですけど……」
「善逸はモテる人が嫌いなんです」
「ふふっ……、成程。見た目だけで無駄にモテているようですからねえ」
毎年バレンタインは錆兎共々紙袋に詰め込んで持って帰っていると真菰から聞いたことがある。何ならお裾分けとして貰ったこともあるくらいだ。善逸に言えばまた義勇のイメージが下がるかもしれない。
「でもしのぶさんがいるなら渡す人も減るんじゃないですか?」
「……学校も学年も違いますから。普通に渡す子のほうが多いのでは?」
最後の学年でもあるので、記念のように渡す女子もいるかもしれない。炭治郎は貰ったこともあるにはあるが、紙袋いっぱいに大量に貰うような経験はないので、義勇たちがどんな気持ちでそれを受け取っているかは想像するしかなかった。
「出席日数が足りてれば卒業式まで行かなくても良いって錆兎さんは言ってましたね。皆家や予備校で勉強するんだそうだ」
「へえ、高校ってそうなんだ。結構自由なんだな」
炭治郎たちの志望校も義勇たちと同じ学校だ。受かれば三年後には自分たちもそうやって学校に行く頻度が下がるのだろう。
「じゃあバレンタイン行かなかったら貰えないんだ」
「お前貰うような予定ないだろ」
「うるさいな! もしかしたらくれる子がいるかもしれないだろ」
玄弥の指摘に善逸が怒ったように言い返した。貰うと嬉しい物ではあるが、わざわざ貰いに行くのは少し勇気がいる。
思春期の男子の会話に楽しそうに笑いながらしのぶは聞いていた。
「やっぱりバレンタインに貰うのは嬉しいんですねえ」
「そりゃもう! 誰から貰っても嬉しいけど、好きな子から貰えたら天にも登る気分になれます!」
「貰ったことないだろ」
「うるさいな!」
「成程。バレンタインではありませんが頑張っている子にはご褒美にお菓子を持ってきていますので、勉強続けましょうね」
「ご褒美……」
ぎくりと肩を震わせた炭治郎に、呟いた善逸から視線が向けられた。どこか気遣わしげに眉を顰めているのが見え、何故善逸と玄弥が呼ばれたのか、どうやら理由を察してしまったようである。こういうところは本当に鋭い。
「捻りはありませんがクッキーです。不味くはないと思いますよ」
「頑張りまーす!」
きっとあの時のご褒美もお菓子だったのだろう。炭治郎は顔が熱くなっていく感覚に溜息を吐いた。