家庭教師

「でしたら私が教えましょうか。稽古終わりなら時間もありますし」
 数学が不安だと呟いた炭治郎にしのぶは快く勉強を教えてくれると口にした。
 兄弟子たちは皆理数系が得意ではない。何より炭治郎と同じ受験生であるので迷惑はかけられず、本当ですかと諸手を挙げて喜んだ。
 炭治郎の部屋に来たしのぶからみっちりと理科と数学を教わり、そのお礼に竈門ベーカリーのパンを渡してしのぶを見送るという機会が増え、おかげでいまいち伸び悩んでいた科目が点数を取れるようになってきた。不思議がっていた善逸にその話をすると、モテる男子に向ける時のような般若の顔をして悔しがり始めた。
「はああ? 道場の美人なお姉さんに勉強教えてもらってるとか、どこのラブコメだよ」
 道場に新しい門下生が増えたという話は当初にしたのだが、その際美人の女子高生であることまで聞き出されてしまっていた。おかげで善逸からの視線が刺すような鋭いものに変わっている。
「部屋に二人きりとか絶対変な気起こすじゃん。ご褒美とかいってちゅーしてくれたりするかも」
「なっ、何を言うんだ善逸!」
 とんでもないことを口にする善逸に、炭治郎は思わず声を荒げた。
 確かに美人であることは間違いないけれど、炭治郎にとってしのぶは同じ道場の門下生という位置付けであり、何より兄弟子である義勇の彼女である。顔に熱が集まっていくのがわかったが、善逸の言葉を必死に否定した。
「起こすわけないだろう! しのぶさんは義勇さんの彼女なんだぞ」
「義勇さん……って、体育大会見に来てた人? はあああ? 禰豆子ちゃんに好かれておきながら美人と付き合ってんのあの人?」
「それは義勇さんの自由だろう……」
 実際、炭治郎も驚いたのだ。付き合っていると教えてくれたのは真菰からではあったが、二人とも否定せず頷いていた。困ったように顔を見合わせて、照れたように笑っていた。お似合いだと炭治郎も感じたけれど、禰豆子のことを考えると少々複雑ではあった。
 まあ、それに関しては炭治郎が口を挟むことなどできない。禰豆子が義勇に好意を持つことが自由であるように、二人が好き合っていることも自由なのだし。勿論善逸が禰豆子を好きでいることも自由なのだ。
「まあでも禰豆子ちゃんとくっつかなくて良かったかな……お前年上好きだもんな。横恋慕とかするなよ」
「するわけないだろう!」
 善逸の話は良くこうして良からぬ方向へ向かう。これさえなければ良い奴なのに、と思うが、それも善逸の性格なので仕方ないと諦めた。

*

「わかるようになってきたと言ってましたものね。良くできてますよ、頑張りましたね」
 しのぶが炭治郎の部屋に上がり、普段のとおり座布団に座る。テストの解答を眺めながら笑みを向けて褒めてくれた。
「ありがとうございます。でも数学がなかなか……」
「そうですねえ。使う数式を間違えているところがありますね」
「う。なかなか覚えられなくて……」
「今ならまだ間に合いますよ。今日は数学を先にやりましょうか」
 わざわざ問題集を作ってきてくれたらしく、しのぶは鞄から冊子を取り出して炭治郎に広げて見せた。
「しのぶさんて凄く教え方が上手いですよね。授業よりわかりやすいです」
「あら、ありがとうございます。マンツーマンだと質問しやすいのでそれのせいもあるでしょうね」
 授業でも質問は良くするのだが、あんまり長く止めてしまうと周りに悪いかと思いなかなか満足に聞けなかった。個別に先生に聞けば教えてくれるのだが、休憩時間は短いし、放課後は店の手伝いが気になって帰ってきてしまう。母はしなくていいと言うのだが、禰豆子や竹雄に頼り続けるのは気が引けるのだ。部屋にいればすぐに手伝いに行けるので、しのぶの存在は有難かった。
「私も炭治郎くんのような素直な子が相手だと、教え甲斐がありますよ」
 どんどん吸収してくれますから。嬉しそうな笑顔を向けたしのぶに、炭治郎は少し照れてしまった。見慣れた笑顔ではあるが、こんなに近くで見ることはあまりなかった気がする。
「問題集は一応炭治郎くんの成績に合わせて作ってあります。全部できたらご褒美がありますから、頑張りましょう」
 ぎくりと思わず固まって、炭治郎は頬を染めた。
 ご褒美にちゅーしてくれたりするかも。
 善逸の声が耳に残る。
 そんなことをしのぶがするわけないことはわかっているのだが、如何せん二人きりの空間で、優しい女の人が勉強を教えてくれて、何より炭治郎も健全な中学生なのである。今まで意識していなかった部屋に二人きりという状況が、善逸の言葉で驚くほど心臓が高鳴ってしまっていた。
「どうしました?」
「いえっ! 何でもないです!」
 不思議そうに覗き込んできたしのぶの近さに慌てて首を振る。
 綺麗な人だとはわかっているけれど、改めて意識してしまい炭治郎は焦った。せっかくしのぶが時間を作って教えてくれているのに、このままでは勉強に身が入らない。
 笑みを浮かべながら筆箱を取り出し赤ペンを手に持った。こうして眺めていると本当に綺麗な人だと思う。何をしていても花が咲いているかのように華やかで、少しも見飽きなかった。
「炭治郎くん?」
「はいっ! すみません、頑張ります!」
 駄目だ。これ以上同じ空間にいて見惚れない自信がなかった。急いで問題集に顔を向けるが、頭の中は問題よりもしのぶの存在に意識が向いてしまっている。
「顔色も赤いし、ひょっとして熱でもあります? 詰め込みすぎでしょうか」
「い、いえ、そんなことは、」
「ちょっと失礼しますね」
 炭治郎の額に柔らかい手が置かれ、それだけでも慌ててしまったのに、しのぶの顔が近づいてきて炭治郎は固まった。手が離れ額に何かが当たる感触がする。しのぶが熱を測るために自身の額を当てていた。目と鼻の先に驚くほど整った顔があり、炭治郎は鼻血でも吹きそうなほど頭に血が上った。
「す、すみません……」
「え、あ、炭治郎くん!?」
 ふらりと背中から床に倒れ込み、しのぶの顔が驚いていたのがわかったが、言い訳する暇もなく炭治郎は目を回してしまった。
 結局その日は知恵熱を出したのだろうと判断され、しのぶは申し訳なさそうに帰っていった。全然そんな理由ではなかったのに、それでもバレなくて良かったと炭治郎は心底安堵した。