理想
「あなたが禰豆子ちゃんね。しのぶから話は聞いてるわ。想像より可愛い!」
目の前に現れたのは目が釘付けになるほどの美人だった。
禰豆子の受験勉強に、炭治郎の友人の兄である不死川に家庭教師を頼んではどうかと提案され、塾と家庭教師の違いを聞くために善逸と玄弥に話を聞こうとしたのだが、善逸は激しく泣き喚いて話にならなかった。禰豆子の家庭教師に玄弥の兄が担当することが我慢ならず、頑張るから俺に教えさせてください、と土下座までする始末だった。
どうしていいかわからず炭治郎を見つめると、兄もまた口元を引き攣らせながら善逸を見ていた。
禰豆子としては費用の安いほうが良いのだが、塾は生徒が複数いるため個人に合わせたカリキュラムが作れないのだという。だったら個別に対応してくれそうな家庭教師が良いのかもしれないと考えた。炭治郎も随分成績が上がっていたのを知っているので。
不死川も、顔は怖いが悪い奴ではないと義勇が言っていたのだと炭治郎が教えてくれた。玄弥からも似た言葉を聞いて、だったら不死川に頼もうかと思っていたのだが、善逸の駄々の捏ねっぷりに呆れた炭治郎が窘める姿を目の前で披露されて、禰豆子は思わず口にしてしまったのだ。
善逸に教えてもらいたいから、と。
その言葉に奮起したらしい善逸は、禰豆子がわからない箇所を質問すると、これが驚くほどわかりやすく教えてくれた。同じ部屋で見張っていた炭治郎も目を丸くして感心したほどだ。
とはいえまだ教えられるほど理解していない部分もあるようで、善逸がわからない箇所をどうやって勉強していくかと考えていたところ、たまたま居合わせた炭治郎の姉弟子が提案をした。
しのぶの姉に教えてもらうのはどうだろうかと。
兄妹揃って世話になるわけにもいかないと炭治郎が首を振ったのだが、しのぶが道場に行くのを控えているので門下生でもない自分だけが顔を出すわけにもいかず、会えなくて寂しいとメッセージを貰っていたのだという。
禰豆子はしのぶの姉の存在を知ってはいるが、対面したこともなく話に聞く限りでしか知らない。炭治郎にどんな人なのかと問いかけると、しのぶと同じくらい綺麗な人で、蔦子のようにおっとりした人だと言った。
「カナエちゃんも忙しい子だけど、たまにで良いなら行きたいって言ってくれたよ。お金も勿論要らないって」
「うわあ、本当にお世話になりっぱなしだ……どうする、禰豆子。女の人なら善逸も納得するとは思うけど」
何で善逸の許可を貰おうと思ってるんだろうな。口にした後首を傾げた炭治郎に曖昧に笑いながら、禰豆子は少し困ってしまった。
兄はしのぶにずっと受験勉強を世話になっていて、彼女が受験生になった今何もできないことをかなり気にしていた。このまま禰豆子まで世話になって良いものか。きっとしのぶの姉もしのぶと同様、道場の関係者だからと良くしてくれるのだろうけれど。
「禰豆子に会ってみたかったんだって。息抜きに行かせてほしいって」
そんなふうに言われてしまっては、禰豆子に断れるはずがなかった。
そうして真菰が連れてきた女の人は、誰もが唖然とするくらい綺麗な人だったのだ。
「は、初めまして、禰豆子です。よろしくお願いします」
「よろしくね。禰豆子ちゃんは理数が苦手なのね。私もしのぶと同じで得意だから、大抵のことは教えられると思うわ」
「実は英語も苦労してて……真菰さんにたまに教えてもらってます」
「ふふ、頼りになる先輩がいて良かったわね。私も沢山来たいんだけど、部活とか色々手伝ってたら色んなところ掛け持ちしてるみたいになっちゃって、なかなか暇がないのよね」
人が良いカナエは頼まれたら頷いてしまうらしく、大学では引っ張りだこなのだろう。楽しいから良いんだけど、と困ったように笑っている。
「真菰ちゃんたちと同じ学校だったらもっと楽しかったんだろうけどねえ」
「だよねえ。義勇は楽しそうだよ。宇髄くんと不死川くんといっつも三人で遊んでるみたい。錆兎も煉獄くんと良く一緒にいるし」
炭治郎の兄弟子の名前が挙がり、カナエは羨ましそうに声を漏らした。真菰たちの友達とも知り合いなのが会話から読み取れる。
「確か合コンに誘われたけど宇髄くんが断ってくれたんだって」
「ああ。皆格好良いものね、女の子が仲良くなりたがるんでしょ」
「カナエちゃんもそういうこと思うんだね」
興味深そうに真菰が口にして、禰豆子も意外に感じてカナエを見つめた。そりゃ思うわよ、と楽しそうに笑い、鞄からペンケースを取り出している。
「私だって人並みに綺麗とか格好良いとか。冨岡くんにはちょっとだけ見惚れたこともあるし」
驚いたのは禰豆子だけではなく、真菰もそうなのかと目を丸くしていた。幼い頃から一緒だったからか、真菰は見た目に対して見惚れるということはなかったようだった。
「錆兎も義勇も凄い子だし格好良いと思うけど、見惚れたことはないなあ」
「ずっと一緒だとそうなのかもね。私は女子校だったし男の子と友達になることってなくて、冨岡くんと知り合ったのが最初でね。しのぶと一緒よ」
カナエとしのぶは義勇と出会ってから男の子と良く話すようになったのだそうだ。それまで話しかけられることはあっても仲良くしようとはしなかったらしい。きっと告白されることが多かったのだろうと禰豆子は想像した。
「しのぶには内緒よ。あの子結構ヤキモチ焼きだから」
「そうなの? でもカナエちゃんなら大丈夫でしょ?」
「んー、わかんない。真菰ちゃんは大丈夫だけどね。あの子三人揃ってわいわいやってるの見るの好きなのよ」
真菰が何やら不思議な表情をしているが、禰豆子にはどういう感情なのかいまいち判断できなかった。構わずカナエは続ける。
「私はしのぶと冨岡くんが仲良くしてるのを見るのが好きなの。真菰ちゃんたち三人に負けないくらい、二人とも可愛いでしょ」
「好きになったりしないんですか」
禰豆子の言葉に目を瞬かせ、カナエは考え込むように声を漏らす。
思わず聞いてしまったことに、禰豆子は慌てて撤回しようとしたが、質問の意図を汲み取ったカナエの口が先に言葉を発した。
「まあ、うっかり好きになる可能性もあったのかもしれないけど。しのぶがいなきゃ知り合ってないから、やっぱり好きにはならないんじゃないかなあ。だってしのぶがある意味一目惚れした瞬間見てたわけだし、しのぶの好きな人を好きになろうとは思わないもの。二人揃うと可愛いし……私は二人のファンみたいなものよ」
「しのぶちゃんの秘密がしれっと明かされてる……」
「あっ。内緒にしててね」
慌てて口元に人差し指を当てて口にした言葉に頷きながら、禰豆子はカナエの言ったことを考えた。
二人を見るのが好きだという言葉は、禰豆子にも少しは理解できる。どれだけ心の奥底でじわじわとした痛みを感じようと、義勇がしのぶと一緒にいて嬉しそうにしているところを見かけた時、禰豆子は驚きと衝撃と寂しさに紛れて、確かに憧れもしていたのだ。
「理想みたいなものなのかも。しのぶみたいに凄く好きな人が私にもいつかできたらなあって」
さて、と切り替えたカナエに倣い禰豆子もノートを取り出してテーブルに広げた。
じんわりと痛かった胸の奥が少しだけすくい上げられたような気がした。
禰豆子のしのぶへの印象は悪いものではなく、優しく声をかけられたことも勉強を教えてくれたことも、有難くて申し訳なくて、とても嬉しいものだった。禰豆子が好意を抱いた優しさを持つしのぶを義勇が好きになったことも理解できてしまうのだ。
早く良い思い出にしなければと考えていた義勇への想いが少しだけ前向きになれたような気がして、カナエの言葉を反芻しながら考えた。
嫌いになれない二人のファンになってしまえばいい。そう考えられるようになるまでどのくらいかかるのかはわからないけれど、もうすでに片足を突っ込んでいるような気分でもあった。