竈門ベーカリーにて

「母さん、俺道場に通いたい!」
 自分より少し年上の少年の手首を掴んで飛び込んできた息子は、店内の客に思い切り驚いた顔を向けられ、我に返り慌てて頭を下げた。
 竈門家が営むパン屋の常連客は、明るく賑やかな子供がいることはすでに知っているからか、微笑ましさが滲んだ視線を寄越すだけに留まった。これが病院だったなら看護師にでも窘められていただろう。
「おかえり、炭治郎。そちらの子は?」
「義勇さん! 時々河川敷で会うんだ」
「そうなの。いつも息子と遊んでくれてありがとう」
 礼を伝えると少年は笑みを見せて首を振った。可愛らしくて優しそうな少年である。幼い子供扱いを受けたことが恥ずかしいのか、炭治郎は不満げに頬を染めた。
「炭治郎、今は話を聞いてあげられないの。少し待ってくれる?」
 そろそろ店内は落ち着く時間帯ではあるが、まだ客足は途絶えていない。レジを開けるわけにもいかないので待つよう伝えると、炭治郎は少年を振り返り許可を得ようと話しかけた。
「義勇さん、家でご飯食べて行きませんか! 母さんのご飯美味しいんです、俺も手伝って早く準備しますから」
 困ったように表情を変えた少年に炭治郎は容赦なく押し続ける。どうやら随分懐いているらしいが、少年の都合も考えずに誘うのはさすがに強引ではないか。良い子ではあるのだが、時折炭治郎はこうして遠慮を忘れることがある。
「炭治郎、お兄ちゃんの都合を考えなさい。もう夕方だもの、門限もあるでしょう」
「あ……はい。六時」
 あと三十分もすれば六時になってしまう。夕食を食べていくのなら少年の家に了承を得て家まで送るべきだろう。白いカッターシャツに黒いスラックスは制服のように見えるので、恐らく中学生の少年。まだ保護者の許可をもらうべき年齢だろう。
「炭治郎が無理やり連れてきてしまってたらごめんなさいね。もし良ければ家でご飯食べて行かないかしら。親御さんに連絡を入れてくれたら、帰りは送って行くから」
 大きな目が瞬いて、炭治郎へと視線が下ろされた。期待に目を輝かせた炭治郎が少年を見つめている。正直、この目に見つめられて断れる人を葵枝は見たことがなかった。
「ご迷惑じゃなければ……聞いてみます」
「迷惑だなんて。こちらこそ突然ごめんなさいね」
 背負っていた鞄から携帯電話を取り出して操作し始める。レジへとトレーを差し出した客の精算をしながら返事を待った。待ち切れない炭治郎は少年にくっついている。
 下の兄弟の面倒も良く見て友達を連れてきた時も良識のある振る舞いをする、年齢にそぐわぬ落ち着きを持っていた炭治郎が、中学生の少年相手には年相応の仕草を見せた。道場とは一体何を学びたいのだろうか。
「良いって。迎えに来ると言ってました」
「あら、申し訳ないわね。こっちが引き止めたのに」
「姉さんがまだ大学にいるから、終わったら帰るついでに寄らせるって」
「そう。ありがとう、聞いてくれて。良かったわね炭治郎」
 嬉しそうに笑った炭治郎に笑みを返しながら、少年はお邪魔します、と頭を下げた。炭治郎のように元気いっぱい、というような雰囲気ではないけれど、礼儀正しく良い子であることは伝わってきた。
「じゃあ炭治郎、上がって案内してあげなさい」
「うん! 義勇さんこっちです!」
 バタバタと忙しなく二階の住居へと向かった炭治郎についていく少年の後ろ姿を見送った。店内にいた客が和やかに二人を眺め、元気で可愛い、などと世間話を挟みつつ、精算を終わらせるためにレジを操作した。

「それで、凄かったんだ! 義勇さんがちょっと動いたらおじさんがひっくり返って、お巡りさんが来て連れて行かれたんだ」
「だ、大丈夫だったの? 怪我とかしてないのね?」
 咀嚼しながら少年、冨岡義勇は頷いた。
 どうやら炭治郎と遊んでくれていた時、何やら怪しい不審者が二人に近づいてきたそうで、最初は道を聞かれたのだが、教えた後良い所を知っているから一緒に行こうと誘ってきたのだといった。断ると腕を掴んできたので反射的に投げてしまった、ということらしい。
 義勇は良くあるのだと何でもないように言うが、良くあってはだめだろうと葵枝は血の気が引いた。そんなことがあったのに良く夕食を食べて帰るのを了承してくれたものだ。
「すごーい。大人やっつけちゃうんだ」
「そう、凄いんだ義勇さんは!」
「凄いけど……危ないわね。禰豆子も気をつけなさいね」
「だからね、母さん! 俺が皆守るから道場に通わせてほしいんだ」
 なるほど。要するに義勇に憧れて同じように強くなりたいと思ったらしい。そりゃあ目の前で助けられたら憧れてしまうのも無理はない。こうして食べて話している様子はのんびりした普通の中学生なのに。礼儀正しいのは道場で学んでいるせいもあるのかもしれない。
「義勇くんの通ってる道場は、生徒を募集してるの?」
「いえ、先生は親戚だから稽古つけてくれて、俺の友達も良く遊びに行くから教えてくれるようになりました」
 だから弟子は三人だけ。その言葉に炭治郎が勢いをなくした。それでは生徒になるのは難しそうだ。
「やっぱりだめですか。今から義勇さんの友達になったら教えてもらえないですか」
「さあ……先生に聞いてみないと」
「こら炭治郎。義勇くんを困らせないの」
 街内にも道場と名のつく場所があることは知っている。もし断られてあんまりがっかりするようならば、他のところに通うのも考えておかなければ。空手や剣道、良く耳にする武道の道場は徒歩圏内にあったはず。義勇の通う道場は古武術。きっと周りにもなかなか習う人はいないのではないだろうか。
「今度聞いてみる」
「本当に? ありがとう。良かったわね、炭治郎」
「うん! ありがとうございます!」
「その先生の他に同じ古武術教えてるところはあるのかしら。もし断られちゃったら、どこか探してみようか」
「それはしなくて良いよ。だって俺、義勇さんが教わってる先生に教えてもらいたい! きっと義勇さんと同じくらい凄いんだ」
「先生は俺よりずっと凄い」
 炭治郎の言葉にすかさず訂正を入れる義勇は、師を尊敬している様子が感じ取れた。
 これはもう断られてもめげないのだろうなあ、と葵枝は炭治郎の頑固さを思いながら笑みを浮かべた。

「なんで父さんも?」
 義勇の報告では姉が迎えに来るという話だったが、父だと告げた男性に何故いるのかと言い放った。
「義勇の電話の後交番から連絡があって母さんが慌てて父さんに電話したのよ! なんで言わないの!」
「別に大丈夫だったし、」
「何かあってからじゃ遅いんだから! 竈門ベーカリーでご飯食べて帰るっていうから安心してたのに、その前に出くわしてるなんて思わないでしょ! 先に言うことがあるじゃない!」
「う……ごめんなさい」
「まあまあ蔦子。義勇も別に隠したわけじゃないだろうから。すみません騒がしくて」
 正直、義勇の姉だという女性の狼狽えようは理解できてしまう。交番のお世話になり家にも帰るのが遅くては、心配するのも仕方ないだろう。男親としてはあまりに過保護なのも如何なものかと考えてしまうのかもしれないが。
「あの! 俺今日義勇さんに助けてもらって、お礼がしたくて引き止めてご飯食べてもらったんです! 義勇さんは悪くないので怒らないでください」
 ごめんなさい、と勢い良く頭を下げた炭治郎に、驚いたように女性が固まった。両肩を掴まれ揺らされていた義勇も炭治郎を見つめた。
「すみません、息子と遊んでくれていた時に遭遇したらしくて、義勇くんに助けていただいたそうなんです。こちらからご連絡をしそびれてしまい申し訳ありません」
 夕食の席で話を聞き、当の義勇が良くあるからと気にしていなかったので、ついそのまま流してしまったのだ。保護者からすれば気が気でなかっただろう。
「あ……いえ、すみません取り乱してしまって。そうだったの義勇」
「凄く格好良かったんです! 一瞬でおじさんが倒れて、何が起こったかよく分からなくて、でも義勇さんが凄かったのはわかりました!」
 拙い説明と手放しの称賛に、義勇は居心地が悪そうに眉をハの字にしてみせた。子供の必死な言葉に保護者の二人も目を瞬かせている。
「そうか、義勇が格好良かったんだ。凄いな義勇」
「はい、凄く凄かったんです!」
 父親に頭を撫でられ、少々照れたように頬を染めた義勇に、女性は溜息を吐いてようやく笑みを見せた。心配の募る子供とはいえ男の子。人を助けられるような子に育っているのは素直に嬉しいだろうし、立派な子に育つだろうことも予感できる。
「そっか……そうね。心配しなくても義勇は強いんだもんね。でもちゃんと危ない目にあったことは先に報告するのよ」
「うん、ごめん」
 どうやら丸く収まったようで、お騒がせしましたと三人頭を下げて口にした。こちらも炭治郎を助けてくれたのだから、礼をしなければならないというのに、慌てて頭を上げるよう伝える。
「是非お礼をしたいのですが……良ければ連絡先を教えていただけませんか」
「はい、こちらこそ。義勇がお世話になって」
「義勇さん、本当に先生に聞いてくれますか?」
「うん、また河川敷で会ったら教える」
「何の話?」
 親同士で連絡先を交換していると、炭治郎は義勇に約束を念押ししていた。気になったのか女性が問いかける。
「俺も義勇さんみたいに強くなって家族を守りたいから、義勇さんの先生に教えてほしいって頼んでもらうんです」
「凄い、立派だね。そっか、それは先生に頷いてもらわなくちゃ」
 年上の女性に褒められて頬を染めた炭治郎は、頑張ります! とまだ聞いてすらいないにも関わらずすでに生徒になる気に満ちている。炭治郎の性格を知っている葵枝は、どれだけ時間がかかっても生徒になるのだろう、と会ったこともない義勇の師に半ば申し訳なさを感じていた。