自覚 しのぶ
「しのぶちゃんのことが噂になってるのを聞いたんだけど……」
中等部からの友人である女子生徒が恐る恐る口にした話題を聞いた途端、しのぶは口に含んでいた飲み物が器官に入るのを感じ、思わず咳き込んだ。
中等部で同じクラスになり、席が後ろだったしのぶへ良く話しかけてくれた女の子。明るく朗らかで優しい性格をしているが、生徒のなかでは随分目立つ子だった。変わった髪の色は染色しているわけではないらしいが、見た目が災いして少しクラスで浮いていた。高等部ではクラスが離れ、今はどうクラスメートと関わっているのかはわからない。
時折昼食をともにするのだが、しのぶに彼氏がいるという噂が立っているのだと教えてくれた。
「でもしのぶちゃん、男の子の告白とか全部断っていたでしょ。それに恋の話は私たち最初に話すって約束したし、どうなのかしらって思って」
「勿論彼氏なんていませんよ」
お茶を飲んで何とか咳を止め、しのぶははっきりと否定した。道場に通い出したことは彼女にも話しているから、その知り合いなのだと口にする。
「そうなのね。しのぶちゃんにお付き合いする人ができたなら、お祝いしようと思ってたんだけど」
「そんなことがあったら甘露寺さんに一番に報告しますよ」
嬉しそうに笑う目の前の女の子は、安心したのか別の話題に切り替えて話し始めた。
「この間お洒落なカフェを見つけてね、そこの店員さんがとっても優しくて素敵だったの。開店したばかりで私が初めてのお客さんだったらしくて、お店のこととか色々感想を聞かれちゃったわ」
おまけもしてもらったの、と嬉しそうに笑う。
甘露寺蜜璃は食べることが好きだった。幸せそうに食べている姿を見ていると、しのぶも自然と口元が綻ぶほどだ。色んな街に出掛けては喫茶店や食堂、ラーメン屋など好みの店を見つけて、食べに行こうとしのぶを誘ってくれるのだ。
「今度一緒に行きましょうよ。あ、土曜日とかどうかしら」
「土曜日……すみません、土曜日は稽古があるんです」
「あ、そっかあ……」
がっかりと肩を落とす甘露寺に慌てて謝っていると、スマートフォンが短く振動して通知を知らせた。画面を確認すると冨岡義勇の文字が表示されていた。
今まで殆ど活用されなかった冨岡個人の連絡先だったが、名前が目に入ると一体何事かと緊張しながらしのぶは中身を改めた。どうやら次の土曜日は鱗滝夫妻の都合が悪く、日曜日にずらしてほしいとの要望だった。何ともタイミングの良いことだ。
了承のメッセージを送り、甘露寺へ土曜日の予定が丁度空いたと伝えた。頬を染めてしのぶを見つめる甘露寺は、小さく声を漏らしてから土曜日について予定を詰め始めた。
「どうかしました?」
不思議な間があったが、甘露寺は何やらもじもじとテーブルにのの字を書いている。やがて口を開きしのぶへ言った。
「しのぶちゃん、恋してるんだなって思ったの」
スマートフォンを取り落としそうになりながらも、しのぶは甘露寺へ問いかける。
「な、何故でしょう、いきなり」
「だって」
両手を頬に当ててきらきらと目を輝かせる甘露寺は、恋の話が大好きである。しのぶの噂も気になって仕方なかったのだろうし、話自体はしのぶだって興味はある。当事者にさえならないのならば。
「メッセージ確認した時、すごく嬉しそうな顔したんだもの。もしかして好きな人からの連絡だったのかなって思って」
誰も彼も、しのぶの顔色を変えさせるのが大変上手だ。頬が熱くなり色が変わっていくのが自分でもわかった。その反応に甘露寺はきゃあと騒ぐ。
「……そんなに、顔が変わるんでしょうか」
「いつもよりうんと可愛いわ。花が咲くみたいに綺麗」
気づいていないのね、と甘露寺が少し困ったように呟いた。言って良かっただろうかと悩む彼女に、少々ダメージを負わされたがしのぶは気にしないでと口にした。
「……少し、混乱してるので、土曜日相談に乗ってもらっても良いですか?」
「勿論!」
素敵なカフェで恋の話が出来る、と喜ぶ甘露寺を眺めながら、しのぶは内心のこの感情が何なのかを計りかねていた。
「素敵だわ。助けてくれた上にお願いも聞いてくれるなんて」
甘露寺おすすめのカフェはモダンで落ち着いた雰囲気だった。時間帯のせいか開店したばかりだからか、客足はあまり伸びていないように見える。その分ゆっくりと話はできるのだが、店員に内容が聞こえないよう声を潜めてしのぶは話した。
満員電車での出来事から男の子と知り合い、合気道の先生を紹介してもらい、男の子と同じ道場へ通い始めた。文化祭にも招待したし遊びに行った。勿論二人きりではなく、道場で仲良くなった二人も一緒であることは強調して。
「確かに特別であることは間違いないんですけど、それが恋なのかは良くわかりません」
空想の世界へ旅立ってしまいそうな甘露寺に向かって、引き止めるように言葉を続けた。
胸が高鳴ったり頬が熱くなったり、恋の話に聞くようなことがしのぶに起きることはもう認めることにした。だがしのぶはこれが本当に恋なのか判断がつかなかった。こんなことは初めてだったから。
「どきどきしたり顔が赤くなる時って、具体的にはどんな時なの?」
興味津々に詰め寄る甘露寺は落ち着かないようだった。少し考えて思い出す。笑いかけてくれた時、差し伸べてくれた手が触れた時。全部冨岡の意識がしのぶの為に向けられた時だった。それを素直に口にするのはさすがに恥ずかしく、しのぶは頬を染めて黙り込んだ。その様子をどう解釈したのか甘露寺が今にも席を立ちそうなほど興奮している。
「しのぶちゃん、凄く可愛いわ。しのぶちゃんをこんなに可愛くさせる冨岡さんって凄い」
いたたまれなくなって話題を変えてしまいたいのだが、しのぶから相談に乗ってほしいと言い出した為止めづらい。憧れるわ、と今度こそ空想の世界へ潜ってしまった甘露寺の呟きを聞きながら、しのぶは困ったように窓の外へと視線を向けた。
通り過ぎる人の様子を眺める。いつもなら道場で稽古を受けている時間だった。休日に学校の友達と会うのが久々で、何だか妙な気分だった。
鱗滝夫妻の都合で稽古を明日へ変更したのだから、冨岡も今日は別のことをしているのだろう。きっと彼らは三人で暇をつぶしている。少し羨ましいのだと思う。
「しのぶちゃん」
「あ、すみません、ぼうっとして」
「ううん、良いのよ」
先程よりも落ち着いた甘露寺がしのぶを見つめて笑っていた。普段よりも優しくて、最近のカナエが見せる笑顔に似ていた。
「しのぶちゃんがこんなふうに照れたり幸せそうにするの初めて見たから、それだけで素敵な関係なんだろうなって思ったの」
「し、幸せそうって……ただのお友達ですよ」
「うん、でも、とっても素敵よ。気持ちって大事なものだもの、じっくり考えて整理が出来ると良いわね」
甘露寺の言葉にしのぶは俯きながらも、静かに頷いた。
この感情が恋だとして、認めてしまったらどうすれば良いのだろう。自覚すれば自然とどうなりたいかがわかるのだろうか。
出会いが出会いだったから、吊り橋効果というものなのではないかとも思うけれど、そういえば初めて会話をした時は少々気分を損ねたことを思い出した。こんなに心臓が跳ねるようになったのはいつからだろうかと考える。
「……笑うと可愛いんです」
しのぶの呟いた言葉に甘露寺は目を瞬いた。
「最初は無表情だし口下手だし、何なんだろうこの人って、今も思うんですけど。笑った顔を初めて見た時、こんなふうに笑うのかと驚いて」
三人で笑い合う様子を見た時、しのぶはもやもやとしたのを思い出した。会ったばかりのしのぶと幼馴染では優劣が出来てしまうだろうけれど、その後はしのぶにも笑ってくれるようになったけれど。何だかとても寂しかったのだ。
「もっと見たいとは思いました」
文化祭の時だって周りの視線に焦ったものの、しのぶを見つけたから自然と笑ったのだと言われたのは、恥ずかしかったけれど本当は嬉しかったのだと思う。
「答えが出てるような気がするけれど……」
「……や、やっぱり、恋なんでしょうか」
確実に顔を合わせる明日の稽古を、どんな顔をして会えば良いのだろう。思わず甘露寺のように両手を火照った頬に当てて、言葉にならない呻き声を漏らしてしまった。
知り合ってたった数ヶ月しか経っていないのに、しのぶの人生で初めて経験することばかりだった。それでも嫌な気分にならないのは、惚れた弱みというものだろうか。
「そうですか、これが恋……」
「素敵だわ。私もしのぶちゃんみたいな恋がしてみたい」