月の障り
「うおっ。い、いたのかよォ……」
「すまん、動けない」
「いや、こっちこそ何か悪ィ……」
誰かが入ってきたのは気づいていたが、義勇はソファから動けなかった。空き巣ならば後でどれだけ文句を言われようと放り出して捕まえるところであったが、合鍵を渡していた義兄である実弥の姿が見え、目を丸くした後照れたように顔色を変えたので、とりあえず安心した義勇は今の状態から動くことができないことを伝えた。
腹の上に上半身を預ける形でしのぶが蹲って眠っており、離すなと言われた腹部から手を動かすことができなかった。眠っている間にしのぶを移動させても良いのだが、実弥ならば許してくれるだろうと甘い考えで義勇は口にしたのだった。
「体調悪ィならベッドに寝かしてやれよォ……」
「俺もそう言った。湯たんぽでは嫌らしい」
ベッドに湯たんぽを用意して眠っていた時もあったのだが、こうして痛みを訴える日は寂しいからと離れるのを拒んでくる。腹が痛いので手を当てておけと指図され、うんうん唸るしのぶの腹へと労るように添えた。ほんの少しだけ落ち着いたように眉間の皺が薄くなったものの、すぐに痛みが消えるはずもなく、溜息を吐きながら耐えるように服を掴んだ拳に力がこもっていた。睡魔に負け先程ようやく眠りについたところである。義勇まで巻き込んで毛布に包まっているものだから、体温も相まって大層暑い。
「暑くて死にそうだ」
「だろうなァ。何でてめェまで毛布被ってんだァ」
呆れた顔が義勇を眺め、溜息を吐きながらキッチンへと移動していく。開けるぞ、と一言呟いて冷蔵庫の中身を改めている。目当てのものが見つかったらしく、ガラス製のピッチャーを取り出してコップに注ぎ始めた。
「せめて毛布をどかせねェのかよ」
「起きるかもしれない」
どうやら飲み物は義勇に渡すために注いだらしく、コップを手渡してくれた。その後自分用にも準備してソファの近くへ腰を下ろした。礼を告げて一口含むと、冷たい水分が食道を通っていくのがわかった。
「何かあったか」
「いやァ? うちのチビ共がお袋連れて旅行に行ったんでなァ、お裾分けに来たんだよ」
立派に成長したもんだとしみじみしている。電話もしたらしいのだが、ソファから少し離れた位置にスマートフォンを置いていたので取ることができず、振動にも気づかなかった。実弥が拾い上げた端末を義勇へと手渡した。二度ほど着信していたようだ。
「いつもこんな感じなのかよォ」
「何がだ」
「だから、その……大抵家でくっついてんのかよォ」
どうやら義勇としのぶのソファでの光景に驚いたらしい。人前では慎みだの照れだのが先行してこんな状態を見せることは素面では全くない。酒が入ると大変なことになってしまうが、それは実弥もカナエも同じだった。
「……今日は特に体調が悪いからだ」
男にはわからない特有のもの。姉も月に一度顔色が悪い時があった。痛みは人によるらしくしのぶは動けなくなるほど痛いようで、同居して初めて見た時は思わず狼狽えてしまった。腹を温めるとましにはなるらしく、色々と試していた結果、しのぶは義勇の手を使うという発想に落ち着いていた。さすがに冬でもない時期に義勇を巻き込んで毛布に包まられると、暑すぎるのでどうにか改善したくはあるのだが。
「薬は」
「飲んでいた。効いたらしい」
「それで寝てんのかァ」
どうやら心配してくれているらしく、義勇の言葉に安堵して息を吐きコップを口元に近づけた。
「悲鳴嶼さんとこの店、雑誌に取り上げられたらしいなァ」
「そうなのか」
「あァ、伊黒から聞いた。顔出した時に言ってたらしいわ。何つってたかなァ……帰りに探そうと思ってたんだが」
スマートフォンを眺めながら聞いたことのある雑誌名を呟いた。
開店当時は客足が伸びないと嘆いていたが、今では常連客も随分増えたようだ。社会人となってからはなかなか行くことができていないが、今度顔を出さねばならないと義勇は考えた。
「甘露寺のおかげで繁盛してるっつってたなァ」
伊黒と結婚する際に甘露寺は新卒入社した会社を寿退社し、今は悲鳴嶼の店でアルバイトをしていると聞いていた。どうやら看板娘のおかげで店も回っているらしい。
「伊黒がバイト許すとは思わなかったが、まあ悲鳴嶼さんとこだしなァ」
甘露寺目当ての客も来るらしく、伊黒は青筋を立てながら実弥に愚痴を言い続けていたらしい。悲鳴嶼がいるので何か起こるとは思えないが、相変わらずらしい伊黒の様子が手に取るように思い浮かんでしまった。
「看板娘二人目も待ってると言ってたらしいがよォ」
「……今のところ辞める気配はないな」
正社員でもアルバイトでも義勇としてはどちらでも構わないが、しのぶは特に今の会社を辞めたいとは言っていない。入社当初は色々と憤慨していたが、仕事自体は好きなようだ。何かきっかけでもあればアルバイトに移行することもあるかもしれないが。
「……ん、」
身動ぎをしたしのぶの眉間に皺が寄る。声を潜めて話をしていたのだが、うるさくしすぎただろうか。ぼんやりと瞼が持ち上げられた。
「少しはましになったか」
「……だいぶ。え、実弥さん、」
しのぶの体が持ち上がると毛布ごと盛り上がり、人の気配に気づいて実弥へと顔を向けた。起きかけたしのぶに慌てて席を立ったところで目が合った実弥は、引き攣った口元のまま挨拶をした。気づかれる前に逃げようとしたようだ。
「土産を持ってきてくれた」
「悪かったな、アポなしでよォ……」
寝起きで回っていなかった頭が動き出したのか、しのぶの表情がじわじわと困惑したものに変わっていった。身内とはいえ実弥に寝ていたところを見られたのが恥ずかしくなってきたらしい。
「すみません、お構いもできなくて」
毛布から抜け出ししのぶはキッチンへと向かう。義勇も体を起こしてソファに座り直した。
「体調悪いんなら寝とけよ、そこに布団があるんだからなァ」
義勇を指して実弥はしのぶへ声をかけた。困り果てた顔のまま頬を押さえるしのぶを眺めながら、たまにはそういうこともある、とフォローのような言葉を呟く。その気遣いがしのぶにとっては逆効果のようだった。
「布団扱いでも良いが、毛布は一人で使ってくれ」
熱の篭った毛布を剥ぎ取ると、涼しい空気が体を包んだ。毛布を軽く畳んで立ち上がった。
手渡された紙袋から土産の箱を取り出し、羊羹であることを確認して包丁を準備している。甘党である実弥へ出すつもりのようだ。
「義勇さんも座っててください。だいぶ良くなりましたから」
「いや、土産だし俺はいらねェって、」
「アポなしで来たんだから黙っててくださいよ」
最近実弥はしのぶに弱く、言い返すこともできずぐ、と喉を詰まらせて渋々椅子へと座り直した。こういう時のしのぶに何を言っても突っぱねられるので、義勇も素直に従い椅子に座った。
「悲鳴嶼さんが看板娘を待っているそうだが」
「え? ……ああ、蜜璃さんから誘われていました。もし仕事を辞めることがあるならって」
「繁盛してるらしいぜェ。雑誌で特集されたとよ」
「あら、それは買いに行かないと。結局父が反対してアルバイトができませんでしたし、蜜璃さんとは一緒に働けなくて」
大学に進んだのだからとアルバイトの許可を打診したが、義父は首を縦には振らなかったそうだ。甘露寺は悲鳴嶼の店で伊黒としのぶと働けることを楽しみにしていたようだが、一度だけ甘露寺が悲鳴嶼の店でウェイトレスをした結果、甘露寺につられて寄ってきた客を伊黒が手酷く罵りながら帰らせたので悲鳴嶼が困り、働けなくなったと悲しんでいたことがある。おかげで学生のうちに働くことが二人ともなかった。今回伊黒が実弥に愚痴を言い続けるのも、前回の二の舞にならないよう悲鳴嶼に釘を刺されでもしたのかもしれない。
「一度くらいウェイトレスはやってみたいですけど」
何を着ても似合うのでウェイトレスも可愛いとは思うが、看板娘目当ての客が増えて更に繁盛するのだろうと考えると、胸の奥にもやもやとしたものが広がっていくのに気づいた。
切り分けられた羊羹を食べ終え、実弥は一言邪魔をしたと呟いて帰っていった。溜息を吐いてしのぶは皿を片付け始める。やっておくと言っても頑として譲らない。
「起こしてくれれば良かったのに」
「寝たばかりだったし、不死川なら良いだろうと思った」
「……まあ、確かに構いませんけど」
空き巣なら放り投げていたと伝えると、当たり前だと呟いてシンクを片付けている。
実弥が来る前より元気そうには見えるものの、まだ顔色は悪いままだった。
「悲鳴嶼さんの店で働きたいか」
「それはまあ。でも仕事は好きなので今のところはないでしょうかね。ああでも、」
洗い終えた手を布巾で拭いながら振り向いて、しのぶは笑みを見せた。普段より顔色は悪いのに、普段より少しばかり優しく笑っているように見えた。
「子供でも出来たら、仕事を辞めてアルバイトを始めても良いかもしれません」
「………。……成程」
再びソファで布団代わりの義勇に体を預け、今度はしのぶ一人で毛布を頭から被った。促されるまま腹に手を当てる。しのぶの持っているマグカップには生姜湯が湯気を立てていた。さすがに義勇には冷たい茶の入ったコップを用意してくれたらしい。
「生理が来て残念でしたけど、まだ二人が良いですねえ」
「そうか」
息を吹きかけながらマグカップを傾ける。
そうかの意図は、と義勇の相槌に不満げにしたしのぶが更に問いかけてくる。少し考えて義勇は口を開いた。
「……子供、は出来たら嬉しいだろうが、二人でも構わない」
「いなくても良いんですか?」
「しのぶがいるから良い」
「ふふ。素直ですねえ」
私もですけど。義勇の耳には心底嬉しそうに聞こえる声音で呟いた。