ご挨拶

「きみじゃないとだめです。嫌だと言ってもしのぶを貰ってもらいます」
 娘思いの父親のことだから、一発は殴られる覚悟で胡蝶家へと足を踏み入れたはずが、一言口にして頭を下げた時、しのぶの父からそう言い放たれた。
 学生の頃からバラしているのだから否という訳がないとしのぶは言っていたが、まさかそんな言葉をかけられるとは思ってもいなかった。母親は小躍りし始めて義勇へと抱きついて、父親はそんな母親を窘めていた。その様子にしばらく呆然としてしのぶへと視線を向けると、勝ち誇った顔で笑みを向けた。
 義勇の両親も挨拶に来たしのぶを大喜びで迎え入れ、良くやった、大事にしなさい、と言葉をかけられた。大なり小なり難色を示されると聞いたことがあったが、それは単なる冗談だったのかもしれない。
 だが喜んで受け入れてくれるのならば義勇としても有難かったし、しのぶも嬉しそうにしていたので深く突っ込むのはやめておいたのだった。
「顔合わせはいつになるかしら。楽しみねえ、ご両親にはお会いしたことないから」
 胡蝶家へ挨拶をした後誘われた食事の席でしのぶの母が問いかけた。同席していたカナエが参加したいと口にして、姉の蔦子も是非にと続ける。
 蔦子は遠方のため来られるかどうかわからないと答えると、少し残念そうにしながら頷いた。
「お姉さんが来られないなら私も外したほうが良いかしら」
「両親は気にしないと思うが。聞いてはみる」
 恐らく声を掛ければ蔦子も喜ぶだろうが、義兄の実家は旅館を営んでいる。だが事前に伝えておけば調整して来てくれるのではないかとも思う。会う頻度が少なくなってしまい、以前鱗滝夫妻も連れて家族で泊まりに行った時は義兄の両親も喜んでいたのを思い出した。
「道場にもご挨拶に行かないと」
「そうよねえ、しのぶがお世話になったし、母さんも見てみたいわ」
 しのぶが合気道の段を取ったのは随分前のことだ。試験を受けるたび着実に昇段しているしのぶに驚きながらも見守っていたらしいしのぶの両親は、挨拶も兼ねて礼をしたいと考えていたらしい。
 義勇の習う古武術に昇段試験などはない。しのぶが受け取る賞状を弟子四人で目を輝かせて眺めるのは毎回恒例のようになっている。
 ここ最近はあまりないものの、不審者相手に危なげなく実践できるようにもなっていた。まあ、技を使うのではなくできるだけ回避してほしいとは思うが。
「しのぶが楽しそうだったし、素晴らしい先生で良かったなあ。今度見学に行かせてほしいんだけど、口添えしてもらっても良いかな」
「……はい、伝えておきます」
 幼い頃から義勇へ色々なことを教えてくれ、義勇の友に対しても武術を教え孫のように可愛がってくれた。鱗滝は一生頭の上がらない大事な師匠であり、その奥方も優しく義勇たちを大事にしてくれていた。理解してくれているようなしのぶの父の言葉が素直に嬉しかった。
 働き始めてからはあまり道場に顔を出すことができていない。報告をしたら鱗滝はどんな顔をするだろうか。涙脆い人だから、もしかしたら泣いてしまうのかもしれないとぼんやり考えた。

*

「楽しみねえ。冨岡くんのお師匠さまかあ」
「凄く優しい人たちだけど、稽古の時は厳しいわ」
 挨拶の際に父が口にした、稽古の見学をしたいという頼みを義勇は師へ報告したらしく、いつでも来て構わないと快諾してくれたと喜んでいた。本日しのぶが道場へ顔を出すついでに両親とカナエも一緒に連れてきた。
「馬鹿もんがあ!」
 道場の引き戸を開けようと手をかけた時、道場主の怒号が響きしのぶは弾かれたように顔を上げ、誰かの体が宙を舞うのが視界に映った。庭の池に勢い良く投げ込まれる音と水柱が上がる。
「それで一人前になったつもりか! さっさと上がってこい!」
「………っ、いえ! 申し訳ありません!」
 高校の間、三人揃って池に投げられる様を見たのは一度だけあったが、卒業してからはなかったはずなのに。唖然としたしのぶとカナエ、蒼白になっている両親がただ庭を茫然と眺めていた。
 池から道着姿の黒髪が這い上がり、肩で息をしながら玄関にいるしのぶたちに気がついた。それにつられるように道場主もこちらを見た。
「これはこれは、来られるのは今日でしたね。見苦しい所をお見せしてしまった」
「い、いえ……すみません、お取り込み中に……」
 辛うじて言葉を口にした父親は、鱗滝の迫力に萎縮してしまったようだった。母も父の腕に縋りついて青い顔色を見せている。格闘技や武術に関わりのなかった二人にとって、かなり驚くべき場面だったようだ。
 池に放り込まれた義勇はまとわりつく髪を掻きあげて、重そうに道着を上半身だけ脱いで水を絞っていた。大きな息を吐いて呼吸を整えている。乾かすのに時間がかかりそうである。
「大丈夫か義勇」
「ああ」
 苦笑いをしながら顔を出した錆兎と真菰が義勇へと声をかけ、しのぶたちへと目を向け会釈をした。拭くものが必要かとしのぶが鞄を漁りながら近づくと、義勇は首を振って拒否した。
「ただの激励だから問題ない」
「機嫌が悪い時の制裁法じゃありませんでした?」
「普段はそうだが、今日は違う。さっきまで先生は感激していたし」
 弟子が何かをやらかした時、鱗滝の機嫌によって制裁方法が変わると昔言っていた。通常ならば拳骨、機嫌が悪い時や本当にまずいことをした時は池に投げ落とされるのだそうだ。機嫌が良すぎても池に投げられるのだろうか。
 玄関から顔を出した鱗滝夫妻が両親たちを迎え入れてくれた。しのぶは少々義勇を気にしながらも家族の後について屋内へと足を踏み入れた。
「申し訳ない。結婚の報告を受けて嬉しくなってしまい、つい手合わせを」
 鱗滝の斜め後ろに座る奥方が困ったように笑っていた。
 弟子が独り立ちして鱗滝は涙を流したそうなのだが、先程は師弟としてではなく一人前の武術家としての試合をしていたのだそうだ。手を抜いて投げられるとはまだ性根が甘いと呟いている。着替えて戻ってきた義勇へと声をかけると、返事をして鱗滝の前に正座した。
「義勇。お前はもう儂などとうに軽く捻ることができるほど強くなっている。師だからと手を抜くな、甘さを捨てろ。これは稽古ではなく死合だ」
「……申し訳ありません」
「だが、お前の覚悟はわかった。……真っ直ぐに育ってくれたことに感謝する。ありがとう、義勇」
 目元を赤くした鱗滝の言葉に、義勇は少し驚いて唇を引き締めた。板張りの床に手をついて頭を下げる。邪魔をしないよう両親が息を詰めて見つめているのがわかった。
「しのぶさん」
「は、はい! 申し訳ありません、私も揃ってご報告に来るべきだったのですが」
「いや、それは構わない。至らぬ点もあるが……穏やかで優しい、自慢の弟子だ。義勇を頼みます」
 揃って頭を下げた鱗滝夫妻に、しのぶは焦って手を伸ばしながら腰を上げかけたが、やがて姿勢を正し真っ直ぐに二人を見つめ笑みを浮かべた。
「……はい。こちらこそ」
 顔を上げた鱗滝の目はまた潤んできたらしく、目元を手で押さえて奥方に笑われていた。その様子に両親も安堵したようで、ほっと詰めていた息を吐き出した。
「錆兎も真菰も、人生の岐路に立つ時は死合をする。その時は手を抜くなよ」
 揃って顔を赤くした錆兎と真菰は、照れながらも鱗滝の言葉に頷いて返事をした。手を抜いては義勇のように池に落とされるので、ダイブしたくなければ全力で迎え撃つしかないだろう。
 その後いつも通りの稽古が行われ、両親は初めて見る古武術に驚いたり怖がったりと、それなりに楽しそうに眺めていた。しのぶが真菰と手合わせをしている様子も興味深く眺めていたので、両親は随分好奇心を擽られたようだ。
「いや、最初は本当に怖かった。逃げ出したくなるくらい」
「父さん真っ青だったし、投げられたのが冨岡くんって気づいて余計怯えたのよ」
「いやだって、冨岡くん強いって聞いてたのに……」
 いくら師とはいえ、老人といっても差し支えない年齢の男性に、二十代の、更には鍛えている義勇が投げられるのはとてつもなく衝撃的だったらしい。話をしてみると頑固ではあるけれど、優しい人なのは理解したようだ。
「でも楽しかったわ。しのぶはずっとあそこで稽古してたのねえ」
 母の羨ましそうな声に笑みを浮かべた。カナエと目を見合わせて、しのぶは両親に向かって大きく頷いた。