嫉妬
「胡蝶さんは彼氏いるって言ってるんだから、良い加減諦めれば良いのにね」
周りのお膳立てが始まってから、実をいうと一部の女性社員から少しばかり冷たい態度を取られることが多くなった。いじめのようなはっきり危害を加えられるものではなく、気に入らないから話しかけないとか、そういうレベルのものだ。しのぶ個人としてはどうでもいいが、周りが囃し立ててくれるおかげで要らぬ反感を買ってしまったようだった。
はっきりいって敵視する相手が違うのではないかと思うが、やっかみ自体は昔から受けていたので気分は良くないが慣れてはいる。
「今日も二人で帰るのか?」
冷やかしたくてたまらないらしい年配の社員ににこやかに笑みを向け、しのぶははっきりと断った。
あなた方が無理やり二人にするから仕方なく帰っていただけですが、という本音はとりあえず仕舞い込んで。
「いえ。今日は迎えが来ていますので」
「えっ、彼氏が?」
「はい。忙しいのが落ち着いたそうなのでお願いしました。飲み会の度に送っていただくのも申し訳ないですから」
残念そうにしのぶを見る年配の社員から顔を背け、しのぶは座敷の下に並べた靴を取り出した。到着を伝える連絡は数分前に確認しているので、後は早くこの店を出るだけだ。会計を済ませ興味を持ったらしい女性社員と並んで店を出る。歩道を挟んだガードレールに腰掛けた冨岡が視界に入った。
「すみません、待たせてしまいましたね」
「いや」
缶コーヒーを飲んでいたらしく、駆け寄るしのぶに気づいた冨岡がガードレールから腰を上げ、ゴミ箱へ空き缶を投げ入れた。
驚いたようにこちらを見る飲み会参加者たちへ適当に挨拶をして、彼らへ会釈をした冨岡の腕を掴みながら、連れ立って歩き始めた。調子に乗って囃し立てた連中のことは知らないが、ぽかんとした女性先輩社員には来週顔を合わせた時にでも話せば良いだろう。茶化さず親身になってくれたのは一人だけだったので。
画策する相手が見目の良い先輩社員ではなく小太りの中年だったならば、きっと周りももう少し違う対応を取ったのではと思わなくもないが、イケメンだろうが中年だろうがしのぶにとっては等しくどうでも良い存在である。仕事関係で厳しく突っぱねるのが憚られただけなのだから。
大体、彼氏本人を連れてきてようやく驚いて黙るなんてのも腹が立つ。しのぶは早い段階で交際相手がいることを明かしていたにも関わらず、冨岡を見てようやくぎょっとするのだ。何故こんなことに冨岡の時間を取られなければならないのか。
頭から湯気でも出そうなほど怒りが溜まっていたしのぶの手を掴んで、冨岡は落ち着けと呟いた。
「落ち着けませんね。もう絶対飲み会なんて行きませんから」
今まで我慢してきたものが漏れ出てしまっているようだった。
元来しのぶは気が長くない。つんけんしてると幸せが逃げちゃうわよ。なんて言葉をカナエから浴びせられ、しのぶは最初こそ無理やり笑顔を作っていた。成長するにつれ怒りを隠すことがうまくなったし、それは別に悪いことではないと思う。というより、子供のように怒って我を忘れるということをしなくなっただけで、怒り自体は感じているので、別に気が長くなったわけでも何でもない。
カナエはおっとりのんびりしているから怒るということをあまりしない。困ったわね、と眉を下げ注意をするくらいのものだ。何故姉妹なのに怒りの沸点がここまで違うのだろうと不思議だった。
「すまなかった」
「何で冨岡さんが謝ってるんですか。何も悪くないのに」
むすりとしたまま冨岡を睨みつける。ただ巻き込んだだけの者から謝られたところで、しのぶの気持ちが収まるわけがない。
「気づかなかった。相当我慢していたんだろう」
「………っ、」
毎度始まる先輩社員への称賛も、如何に格好良いかの褒め合戦もしのぶには興味がない。溢れ出てくるほど、自分でも気づかないうちに我慢していたらしい。
「冨岡さん以外の人紹介されたってどうしろっていうんですか。否定しても別れて付き合えなんて言うんですよ。馬鹿にするにも限度があるでしょう」
困ったような顔がしのぶを眺めている。言いにくそうに口を開いて、小さな声で呟いた。
「……たぶん、昔なら、そうしたいと言うなら俺は頷いていた」
「は? 別れるのをですか」
「ああ」
目の前が真っ赤に染まり、怒りに任せて手を振り上げた。引っ叩こうとした手首を掴まれ止められてしまう。今冷静ではないことは自覚しているが、あんまりな言葉にしのぶは胃が煮えくり返っているような気分になっていた。
「何でそんな、私がこんなに怒ってるのに」
「最後まで聞け。今は無理だ。そのお膳立てしてくる社員には悪いが、お前が嫌だと言っても離してやれないと思う」
しのぶが嫌だと感じるというその前提は何なのか。最高に厄介な世話焼き爺どもに申し訳なさを感じるな。言いたいことが纏まる前に、掴んでいた手首を離して冨岡はしのぶを抱きしめた。
「結婚しよう、しのぶ」
人通りはまばらとはいえここは間違いなく往来で、本来こんなことをするような性格をしていない。突然将来のことを口にして、名前で呼ぶなど反則ではないか。そういうことばかり覚えてきて、一体いつまで少女のように慌てふためいていれば良いのだろう。
「な、何で今。そんな要素ありました? 私怒ってたんですけど」
「……仲良くなるための口実に夜道でも送れと宇髄が言っていたのを聞いたことがある」
「ああ、飲み会の帰り……成程、先輩はそれで毎回送ってくれるんですか。それで?」
宇髄の名が冨岡の口から出てきてしのぶは少し冷静になった。先輩社員が実際そういう思惑を持って送ってくれているかまではわからないし興味もない。ただ、そういう下心を持っている者も少なからずいるということらしい。
「胡蝶がそういう思惑に曝されていると考えたら嫌な気分になった。どうすればいいかを考えていたんだが……」
あの、呼び方が元に戻ってるんですけど。まさか一度きりの呼び名などと思っていないだろうかとじとりと冨岡を見つめて、ふと耳にした言葉に意識を向けた。
「……嫌だと思ったんですか?」
「ああ」
脳裏に浮かんだ言葉は、しのぶにとって晴天の霹靂ともいえるほどの衝撃を与えた。だってそうだろう、まさかこの冨岡がそんな感情を知ることになるなど、本当に思ってもいなかった。
「冨岡さん、それ嫉妬ですか」
少なくとも冨岡の友人たちに向ける感情とは違うことを、本人は気づいているのだろうか。驚いたような顔がしのぶを凝視した。しばらく見つめ合った後、冨岡は無言で体を離す。
「………。……そうか」
随分葛藤があったような沈黙をようやく破り、眉間に皺を寄せた顔をしのぶからそむけた。歩道の脇に座り込み膝を抱えて俯き始める。視界に映る耳が赤いことに気がついた。
「ねえ、そんな落ち込まないでくださいよ」
喜色の滲んだ声で呼ぶ。こちらが不安になりそうなほど嫉妬という感情を見せなかったのだから、しのぶとしては嬉しくて仕方ないくらいなのに。
「俺は未熟者だ……」
「嫉妬するのが未熟だからなんてことありませんから。だったら私はどうなるんですか」
冨岡の友人をライバル視するような心の狭さだ。最近は向こうも楽しみ始めているように思えるが。
「伊黒さんの嫉妬、甘露寺さんは喜んでいるんですよ。何で悪いことのように思うんですか。私だって嬉しいんですから」
顔を上げた冨岡の表情は頼りなく、迷子になった子供と似たような顔をしていた。そんなに不安にならなくても、世の中にはそうやって仲が深まる者たちだっているだろう。
「嬉しいのか」
「ええ。だって初めてでしょう、そんなふうに言ってくれたのは」
伊黒と比べると可愛いものだけれど、はっきり意識した嫉妬心が嬉しくないはずがない。冨岡の特別になってからというもの、終ぞ見なかった一面を見せてくれたのだ。
「帰りましょう、義勇さん」
ぱちりと音が鳴りそうな瞬きをして冨岡がしのぶを見つめた。
良い加減歩道の脇で膝を抱え続けるわけにもいかない。手を掴んで立ち上がらせしのぶは笑みを向ける。
「私をあなたのお嫁さんにしてくれるんですよね」
指輪もムードも何もない、言葉だけのものだったが、しのぶはそれで充分だった。飲み会のことなど頭からすっかり飛んでしまっていた。
「本当に良いのか」
「あら、答えはわかりきってるのかと思ってましたけど。でもそうですね、もっとムードとかは考えてくれても良かったんじゃないですか?」
「そうか……わかった。難しいな」
「え? 何がわかったんですか?」
思わずしのぶは聞き返した。今日は感情の起伏が激しかったが最後に上機嫌で帰れることが嬉しいのだが、冨岡の一言が気になってしまい聞き返す。
「? やり直せということじゃないのか」
「やり直しなんて一言も……やり直してくれるんですか?」
「……努力する」
しのぶはバツが悪そうな顔をする冨岡を眺めて、貼り付けただけだったものではなく心からこみ上げた笑顔を見せた。
答えなど既に伝えた後だし、本当は充分過ぎるほどだったのだが、冨岡が言うのならば努力してもらおうとしのぶは考えた。