余計なお世話
「胡蝶さん、結構飲めるね」
新卒入社した会社の歓迎会で、勤務して三年目になるという男性社員が隣に座り話しかけてきた。しのぶに向けて笑う顔は所謂イケメンといわれるような爽やかさだった。
事務所の隣席に座る女性社員から少し所属者たちのことは聞いている。毎年新卒の女性社員に粉をかけて若い子を食っている、らしい先輩社員が事務所内にいるという。それが今隣に座る男性社員だ。
人当たりも良く上からの評判は悪くなく、若い女性社員からも人気があるけれど手が早い。胡蝶さん美人だから気をつけて。そう事前に忠告してくれていたものの、少し遠いテーブルで盛り上がる彼女は、今の状況を把握していなかった。
とはいえしのぶは話したこともないのだから、話くらいならしても困らないだろう。
「いえいえ、嗜む程度です」
「そう? 顔に出ないよね。胡蝶さんって酔ったらどうなるの?」
「顔に出ないわけでは……飲み過ぎて潰れないようセーブしてますし。酔うとそうですね、割と楽しくなります」
「へえ、セーブしてるのは偉いね。ここの人たちは割と潰れるまで飲む人多いからなあ」
介抱するのが大変だと笑う。入社して二週間ほど経っているが、社員同士の仲は悪くないようだった。日頃のストレスを飲み会で発散させているのかもしれない。しのぶも仲間内の飲み会では色々と曝け出すこともあった。さすがに社内の飲み会でやらかしたくはないので飲む量は控えめにしていた。
「早速胡蝶さん口説いてんのか」
「いやいや、話してただけですよ」
話していた男性よりも年上の男性社員が揶揄いに話題に入ってきた。否定した言葉を聞いていないのか、美人だもんなあと頷いている。
「それだけ美人だったらモテて大変だったんじゃない? うちのも昔は学校で結構モテてたんだよ」
「あら、奥さんがいらっしゃるんですね」
「ああ、去年結婚したんだけど、家庭を持つってのも良いもんだよ。お前もそろそろ身を固める歳だろ。胡蝶さんはまだ若いけど」
「いやいや、俺と結婚してくれる人なんて」
「良く言うよ色男」
自分より先輩の言葉に返しづらいのか、男性社員は謙遜して誤魔化している。
結婚か。深く意識したことはないが、将来の夢がお嫁さんだと言う友人もいた。しのぶもそれなりに興味はある。
「式も挙げられたんですか?」
「そうなんだよ、親族だけのものだったけど、嫁も喜んでたからなあ」
スマートフォンを操作して写真を見せられた。そこには目の前の社員とドレスを着た女性が幸せそうに笑って写っている。
「わあ素敵。良いですね」
「お、胡蝶さんも結婚興味ある?」
「そうですね、いつかはしたいと思ってます」
いつになるかはわからないが、昔と違い今は現実味を帯びているような気はしている。どうせ結婚をするとしたら相手は一人しか考えられない。
「胡蝶さんしっかりしてるからなあ、旦那は尻に敷かれそうじゃないか」
「胡蝶さんに尻に敷かれるんだったら俺なら嬉しいですけどね」
尻に敷けるかは分からなかった。案外頑固で負けず嫌いなところがある上に、天然を発揮されると翻弄されてしまうかもしれない。
「おっ、そろそろ本領発揮か? 胡蝶さん、こいつとかどう? イケメンだし優しいぞ。仕事も出来るし」
「どうと言われても……お話したのは今日が初めてですし、」
「こいつ良い奴だよ。若い女性から悪い噂聞かないし。まあ万人に好かれてはないけどな」
「最後の一言余計ですよ。まあでも俺個人としては胡蝶さんに興味あるな。話すの初めてだからよく分からないのも当たり前だし、俺はもっと知りたいけど」
そもそもしのぶには交際している相手がいるので彼に全く興味はない。既婚である男性社員は面白そうに眺めているが、要らぬ世話を焼かれてしまった。
「仕事外でのことなら申し訳ありませんが、彼氏がいますので」
「あっ、ごめん! いやそっか、そりゃそうだわ。胡蝶さんくらい美人なら彼氏いておかしくなかったな」
「そっか、残念。結構長いの?」
慌てたように謝った社員と、さほど残念そうにも見えない男性社員が問いかけてきた。ええまあ、と適当に返しながらしのぶは笑みを見せた。
「そっかあ。となるともう結婚も意識してるとか? さっき興味あるって言ってたもんな」
「どうでしょう。そんな話はしたことありませんけど」
ぽろりと口にした言葉をどう解釈したのか、男性社員は少しだけ顔を顰めた。
「胡蝶さんの彼氏かあ。お前もさすがに負けるくらいのイケメンだったりして?」
「だったら諦めもつきますよね」
その後歓迎会も終わり、二軒目の話をしている先輩へ帰る旨を伝えて残念がる数人へ頭を下げた。時間はまだ九時頃である。
「胡蝶さんは家どの辺なの? 送るよ」
「まだ電車もありますし大丈夫ですよ」
「俺も帰りたいから、理由になってくれない?」
歓迎会の間隣で話していた社員がこっそりと呟いた。二軒目へ向かう女性社員たちががっかりしていたが、男性社員は気にせずしのぶを促して背を向けて歩いていく。
「どう胡蝶さん。続けていけそう?」
「ええ、まだ仕事には慣れてませんけど、皆さん優しくて助かります」
当たり障りのない話をしながら電車が最寄り駅に着くのを待つ。良く気が利くと絶賛していたのは女性ばかりではなく、先輩の男性社員からも印象は悪くないようだったのを思い出した。
「何か困ったことがあったら何でも言ってよ」
「ありがとうございます」
最寄り駅から連れ立って歩いていると、曲がり角から二つの影が現れた。街灯に照らされたのはしのぶの良く知る者たちだ。
「姉さん」
「あら、しのぶ。そういえば今日歓迎会だったわね」
同日にカナエも今年の新卒歓迎会をやると言っていたのを思い出した。カナエの隣にいる人物に驚いたが、向こうも驚いてこちらをしげしげと眺めている。隣の男は誰だと視線が問いかけているように感じた。
「不死川さん」
「……おォ」
知らぬ仲ではない。だがカナエと親しいような素振りも殆どなかったはずだ。訝しんでいると何だかバツの悪そうな表情をしている気がした。
「あ、すみません、ここまでで大丈夫です。送ってくださってありがとうございました」
「ああ、うん。じゃあまた会社で」
「はい。お疲れ様です」
少し名残惜しそうに見えたものの、男性社員は挨拶を返ししのぶの帰路とは別の道へと向かっていった。
「会社の人?」
「うん。面倒見のいい人みたい」
女好きという点を除けば周りの評判も良く、男女問わずイケメンだと持て囃されている。その割に鼻にかけるような素振りは見なかった。
「そういえば不死川さんは姉さんと同じ会社なんでしたね」
「あァ。だから二軒目回避に送らせてもらったんだよォ」
「先輩と同じ言い訳。使いやすいんですか?」
苦虫を噛み潰したような顔を見せて不死川は黙り込んだ。なぜそのような顔をしたのかは分からないが、しのぶは素直に不死川がカナエを送ってくれたことに安堵していた。
「ありがとうね不死川くん。上がっていく?」
「こんな時間に上がりこむほど常識知らずじゃねェわ。じゃあなァ」
背を向けて手を振りながら歩いていった不死川を見送って、しのぶはカナエとともに我が家の玄関へ足を踏み入れた。
*
「冨岡、お前彼女と別れたりとかしてないよな」
村田の問いかけに訝しげに眉を顰めた冨岡は、それでも否定するように首を振った。
だよなあ。高校の時から仲が良いと噂も流れていたし、実際彼女の話をしている時は柔らかい雰囲気を醸し出す。長く付き合っているのに倦怠期とかマンネリとか、そこら辺のものとは無縁のように見えていた。
「えーっ! 冨岡さん彼女いたんですか! ショック!」
会話が聞こえていたらしい女性社員から悲鳴が上がり、騒ぎながら去っていった。興味もなさそうに冨岡は社食の日替わり定食を頬張っている。
この間見かけた光景を思い起こした。
夜の雑踏に紛れて、思わず振り向くほどの美男美女とすれ違った。和やかに会話をしながら歩いていく姿を眺めた。
どこかで見た覚えのある女性だった。あれほど美人ならばそうそう忘れはしないだろうが、唸りながら村田は歩く。やがてあ、と小さく声を漏らした。
高校の卒業式で友人と一緒にいたのを見た。当時から可愛かったけれど、大人になったからか驚くほど美人になっていた。冨岡の奴、凄い美人と付き合ってるんだなあ、なんて羨望を抱えてしまう。
「あれ?」
冨岡が一緒にいたのならば、さほど苦労することなく彼女を思い出したと思う。先程すれ違った彼女の隣にいたのは、イケメンと持て囃されていそうだけれど、冨岡とは違う爽やかな男だった。
普段は男女二人で歩いているだけで不審に思ったりなどしないのだが、まるでカップルのように寄り添っていた気がするのだ。ひょっとして別れたのかなあ。何となく残念な気分になって村田はとぼとぼと帰路を歩いたのだった。
「何かあったのか」
「いやあ、何かあったってほどのものじゃないけど」
高校の卒業式でもうこれきりかと思っていたら、新卒入社した先で冨岡と再会した。新入社員たちが顔を合わせた入社式から再び話をするようになった。
学生時代から輪をかけて無表情がこびりついている気がするが、村田と話す時は高校の時とさほど変わらない。おかげで女性社員からは何者なのかと複雑な視線を向けられることとなっていた。
しかし、別れていないのならわざわざ変な話をしなくても良いのではないか。村田が見たのは一瞬だけだし、もしかしたら他にも同行していた人はいたのかもしれない。男性が彼女の背に手を添えていた気もしたが、それも先入観から目にした気になっているだけかもしれないし。
「この間冨岡の彼女見かけて気になっただけだよ」
首を傾げた冨岡は、村田がそれ以上話す気がないことを察したのか食事に集中し始めた。
*
「周りがその気になって困ってるんです」
不安そうに眉を下げた甘露寺の顔を眺めながらしのぶは呟いた。
就職先に勤める年配の社員がこぞってある男性社員としのぶをくっつけようとしてくるらしい。彼氏がいると伝えているにも関わらずだ。男性社員も困ったように笑うものの、厳しく否定することはできないようだという。別れたらこんな良い男が待ってるぞ、などと怒りを誘うような言葉を突きつけてくるそうで、我慢するのに必死になっているらしい。
しのぶは女性の先輩社員に相談すると、自分の事のように憤って上司へ直談判しに行ってくれたそうだ。表面上は収まったものの、飲み会などでは図ったように席を隣にしてきたりと、そろそろ疲れてきたようだ。
「気にしなければ良いんですけど、苛々してしまって」
「そんなことがあったら疲れるのも無理ないわ。その男の人が冷静な人なのが有り難いわね」
「そうですね。正直助かってます」
女好きですぐ手を出すなどと噂はあるものの、今のところは紳士的なのだと言った。酒の席や連れ立って歩く時、少々距離が近いのが気になるけれど、それとなく離れてもいつの間にか距離を詰められてしまう。一度指摘してみたのだが、癖で無意識のうちにやってしまったのだと謝られたそうだ。
「パーソナルスペースの狭い人なのね……冨岡さんとは正反対な感じがするわ」
「ああ、爽やかな人ですしね。本当にもう……別れたらとか、失礼にも程がありません? 別れませんよ」
「うふふ、しのぶちゃん素敵。私もずっと仲良くしてる二人を見ていたいわ」
付き合う前から見てきたしのぶが、どれほど冨岡を好いているのか甘露寺は知っている。周りがどれだけ冨岡以外の誰かとの付き合いを推奨しようと、しのぶは首を縦には振らない。煩わしいだろうけれど、味方も少なからずいるようだし。
「冨岡さんには相談したの?」
「いえ……最近仕事が忙しいらしくて、あまり会っていませんし」
「そうなのね……次会う時に話だけでもしてみたら? 伊黒さんは良く何でも話してほしいって言ってくれるの。知らない間に何か起こって私が困るのは嫌だって。前のストーカーの時も相談したでしょう?」
「あの時はまだ学生で会う機会も多かったからですよ」
「うん、でも冨岡さんもしのぶちゃんから頼られて嫌な気分になるはずないと思うの。それに異性とご飯とか飲み会とか、何かあった時は話しておいたほうが後々ややこしくならなくて良いって職場の子が言ってたわ」
「ややこしく……?」
「よくわからないけれど、目撃されて浮気とかを疑われるかもしれないからって」
はっとした顔をしのぶが見せ、浮気と一言呟いた。勿論しのぶが浮気などするわけないとわかっているが、誰かが見かけて噂が歪曲して冨岡の耳に入るかもしれない。冨岡がそれを真に受けるかはわからないけれど、別れたくないならばリスクは減らすべきだと同期は言っていた。
「そ、そうですね。変に拗れてしまうより私の口から伝えるべきですか」
「そうね。私も飲み会なんかは毎回伊黒さんに伝えてるわ」
何でも話してほしいと言ってくれるものだから、甘露寺は遠慮なく伊黒にその日あった出来事を伝えている。特に社会に出てからは、何かと気にかけてもらっていることは自覚していた。相手の色んなことを知っておきたいと思ってもらえるのは嬉しい。きっと冨岡もそう思うのではないだろうか。せっかく付き合っているのだから、色んなことを知っていてもらいたいとも甘露寺は思っていた。
*
「周りが囃し立てて迷惑してるんです」
久しぶりに会うのに愚痴ではつまらないだろうと思うが、甘露寺の言っていたとおりしのぶは現状を冨岡へ伝えておくことにした。
根も葉もない噂を流されても嫌だし、何より冨岡に誤解はされたくない。迷惑をかけるのも忍びないのだが。
「彼氏がいると言ってもそれとなくお膳立てされて。先輩が真に受けないのが助かってますけど、帰りは毎回二人にさせられて」
「……それは」
妙な顔をした冨岡がしのぶを見つめる。それは、何だろう。途中で言葉を切った冨岡は一度黙り込み、やがて口を開いた。
「飲み会はしょっちゅうあるのか」
「そうですね、私も最近は断ってるんですけど、毎回だと角が立ちますし」
「次は」
「来週の金曜です。大半は断ってるんですけどね」
「そうか。来週は迎えに行く」
目を瞬いてしのぶは冨岡を見つめた。打診することも考えてはいたが、冨岡から言ってくれるとは思っていなかった。
「それは嬉しいですけど……仕事、忙しいでしょう」
「迎えに行くくらい大したことはない」
「そうですか? それなら……お願いします」
「うん」
笑みを見せた冨岡に安堵したものの、これで囃し立ててくる彼らが落ち着けば良いのだが。
「冨岡さんの会社はどうですか?」
「飲み会はそんなにない。村田もいるし」
「ああ、村田さん。良かったですね、冨岡さんを理解してくれる人がいて」
「ああ。……そういえば村田に聞かれたことがある」
首を傾げると冨岡は少し逡巡したが口を開き、村田から聞いた話を教えてくれた。
どうやら先輩と歩いているしのぶを見かけられたのだろう、別れたのかと突っ込まれたらしい。否定するとそれ以上何かを聞かれることはなかったという。
淡々と話す冨岡は昔から嫉妬とは無縁だった。話を聞いた時もさほど気にならなかったのだろう。
「皆別れさせたがるんですね。村田さんは気遣いで聞いてくれたんでしょうけど」
うんざりして溜息を吐いてしまう。
誰が誰と付き合っているのかなど、会社内で必要なことだろうか。しのぶに彼氏がいることを聞いて残念と身を引いた先輩も良い迷惑だろうに、面倒極まりないことだ。
部屋のテーブルに突っ伏していると、頭に柔らかい感触が伝わった。少しだけ顔を上げると、冨岡の手が頭を撫でていた。
むすりと唇を尖らせていたのだが、頭の感触に思わず口元が緩み始める。
社会に出ると色んなしがらみがあり、学生の時のようにきっぱりと断って良いのか迷ってしまう。特に社内の人間関係は、今後にどう影響するのかわからずしのぶは強く言えなかった。面倒極まりないことだと溜息を吐いた。