勉強中2

 しのぶの成績は上位から数えたほうが早い。
 進路先の判定も悪くはなく、もう一つ判定を上げれば問題なく受かるだろうという話だった。
 油断して落ちてしまうことは何としても避けたいので、合格の文字を見るまでは稽古も冨岡と会うことも控えるようにはしている。
 とはいえたまには会いたくもなり、せめて声だけでも、と集中が切れた時、しのぶは勉強机に突っ伏しながらスマートフォンを眺めていた。
 あの道場の柔らかな空気を吸いたい。脳裏に過る門下生たちと早く笑い合いたい。そのためにはまだ頑張らなければならない。ああ、冨岡に会いたい。全然連絡を寄越してくれない冨岡の顔を思い浮かべては、苛々悶々としてしまっていた。
 どうせ勉強の邪魔をしないようにと思っているのだろう。しのぶから送れば良いのだが、久しぶり過ぎても浮かれて勉強が更に手につかなくなりそうだった。今もやる気は失せているのだが、禁欲生活のような気分でしのぶは溜息を吐いた。
 何か、そう、何かご褒美が欲しい。何でもいい、あの時のたい焼きでも、ガムでも、とにかく冨岡から受け取る何かが欲しい。物じゃなくても構わない。むしろ欲しいのは物じゃなかった。そう、未だ経験のないことをしてほしい。そこまで考えてしのぶは体を起こした。
 去年は冨岡が受験生だったおかげで、夏以降それらしいことは何一つできなかったどころか、殆ど会うこともできなかった。キスだって合格したのがわかってようやく解禁されたような状態だった。初めてではないのにあまりに久しぶりで、しのぶは三回目のキスも緊張して心臓が爆散しそうだった。一体冨岡はどれだけ耐久力があるのか。しのぶは会おうと会わなかろうと勉強が手につかなくなるのに、それも稽古の賜物なのだろうか。
 とにかく、そう、新しいことがしたい。甘露寺はだいぶ前に経験したと言っていた。いや新しくなくても構わないが、ご褒美として少しは貰っても良いだろう。キスもしたいけど何よりあれをしてほしい。そう。
 抱きしめて欲しい。
 いわゆるハグというものを、しのぶは未だに経験していなかった。キスだって数えるほどしかしていないけれど、甘露寺はファーストキスとともに受け取っていたというのに。手を繋ぐだけではなく、もっと色んなことをしたいのだ。いやそういう大人向けのことはとりあえず先に置いておいて。もやもやと脳裏に浮かんだ如何わしい妄想を振り切るように頭を振った。
 溜息を吐いて深呼吸をする。
 これでは駄目だ。散歩でも行って気分転換しなければ、とてもじゃないが勉強に身が入らない。煩悩を断つためにジョギングでもしよう。ジャージに着替えようとクローゼットを開けた時、スマートフォンが短く通知を鳴らした。
 正に今悶々と考えていた相手からのメッセージに、思わず頬を染めたしのぶは慌てて内容を改めた。今から出てこられるかという問いに、散歩に行こうと思っていたと返信する。薄暗くなり始めた空が見える窓から家の周りを見渡すと、胡蝶家へと向かってくる人影が見えた。
 着ようとしていたジャージをやめて、しのぶはジーンズを履いた。甘露寺とお揃いで買った手触りの良い薄ピンクのパーカーを羽織り、変なところはないかと鏡を覗き込みながら髪を整えた。
 リビングにいる母に散歩に行くことを告げ、勘づかれないよう落ち着いてスニーカーを履いた時、こんな普段着で会うのが少し恥ずかしくなった。もう少しお洒落ができる時に来てくれても良いのにと思うものの、わざわざ来てくれたのだからとそのまま玄関を出た。
 少し離れた電柱の近くで冨岡は待っていた。しのぶに気づくと口元が弧を描く。久しぶりの見たかった顔にしのぶの眉が情けなく下がっていくのがわかった。
「差し入れだ。道場の皆から」
「ありがとうございます……」
 どうやら皆から差し入れを預かってきてくれたらしい。袋の中身は合格祈願のお菓子が大量に入っている。目元を温めるアイマスクや、ハーブティーの箱も入っており、満杯に入っている袋に思わず声を出して笑った。
「あー、もう。本当にあなた方は、気分転換してくれるのがうまいですね」
 道場の面々を思い浮かべ、しのぶは満面の笑みを冨岡に見せた。
 並んで歩き出しぽつりぽつりと会話をする。何もかも久しぶりで、しのぶは片想いをしていた時のようにひっそり冨岡を見上げた。
 冨岡は以前と変わりなく、視線に気づいてしのぶへと目を向け笑みを見せる。相変わらず柔らかくて優しい。無表情から一変する瞬間がしのぶは好きだった。
「大学は如何ですか? 今年は学祭には行けませんでしたけど、高校みたいに色々あるんですよね」
「ああ、規模が大きかった。遊びに来た真菰が写真をやたらと撮っていた」
「今度見せてもらいます。今年は女の子に何回告白されたんですか」
「……宇髄ほど言われていない」
「比較対象が宇髄さんではわかりませんよ。怒らないから教えてください」
「今は殆どない。前から胡蝶がいるからと断っている」
 告白自体は受けたことがある。わかってはいたがしのぶは不満げに唇を尖らせた。とはいえしのぶの存在は伝えているらしいので、とりあえずは納得しておいた。
「……胡蝶が同じ大学にいたらなくなるだろうと言っていた」
「それは頑張らないといけませんね」
 ほんの少し頬を染めて、宇髄から言われたという言葉を教えてくれた。プレッシャーをかけに来たのか激励しに来たのかわからなくなりかけたが、冨岡の赤くなった頬を眺めながら、意地でも受からなくてはと心中で気合いを入れ直す。
「お前だってされているだろう」
「私は今学校行ってませんよ。ありません」
 自分だけ言われるのが納得いっていないような顔をしつつも、冨岡はそうかと呟いた。
 受験に受かったら、告白の話は詳しく聞かなければ。大抵口下手のおかげで大半は逃げるらしいが、大学は広いからそれを知らない女の子が時折告白してくるのだろう。告白回数など好きで知りたいわけではないが、黙っていられるのも何となく嫌だった。
 冷たい風が吹き、外気に晒された首筋を通って体が冷えていくのがわかった。思わず身震いをして、口元を覆って我慢しようとしたくしゃみが出た。パーカー一枚羽織るのでは寒かったようだ。
「何でそんな薄着なんだ」
「こんなに寒いと思わなくて、」
 冨岡の首に巻いていたマフラーがしのぶの首元に巻かれ、顔の間近にある手に思わずしのぶは頬を染めた。先程まで悶々と考えていたことを思い出しマフラーに添えられた手に触れると、冨岡の目が瞬いた。
「あの。………、……だ、抱きしめてほしいんです、けど」
「……今か」
 聞き返してくる冨岡に心中で恨めしげに聞くなと叫びつつも、視線を彷徨わせながらしのぶは頷いた。恐る恐るとでもいえそうなほどゆっくりと腕が伸び、しのぶの背中に両腕がまわされた。
 去年の夏の終わり、背中から抱きつくようにしがみついた時とは違う、包み込まれるような感覚にしのぶは一瞬思考が止まった。息を吸うと冨岡の匂いが肺に充満してしまいそうで、呼吸をするべきかしないでおくべきか迷ってしまった。頬に熱が集まっていく。冨岡の衣服を掴んで唇を噛んだ。
「……合格祝いは、何が欲しい」
 耳元で聞こえた冨岡の声に、思わずしのぶの体がびくりと震えた。声のあまりの近さに驚いて、頬だけではなく耳まで熱くなってきていた。
「……時間。冨岡さんの時間をください」
 キスしてほしいと伝えるのはさすがに恥が勝ってしまうが、それよりももっと重要なことをしのぶは思いついた。時間さえあればいくらだって、何だってできるはずだ。結局キスどころかデートもそんなに多くしていないのだから。
「物じゃなくて良いのか」
 少し体を離して冨岡がしのぶの顔を覗き込む。腕が背中から離れ少々残念ではあるが、耳元で喋られては心臓が持たないので助かった気もする。
「欲しいものはそれ以外ありませんから」
「欲がないな」
「してほしいことがありますので」
 実際は煩悩まみれだ。
 不安げに顰めた眉を眺め、しのぶは笑みを向けた。詳細を聞きたそうにしのぶを見た冨岡は、ちなみに、と問いかけた。
「どれだけあるんだ、してほしいことは」
「いやだ、そんなにありませんよ。普通の人たちが普通にしていることをしたいだけです」
 普通の人たちとは、と首を傾げた冨岡の手を取っていつものように繋いだ。しのぶよりも大きい男性の手だ。ちらりと見上げてから口を開いた。
「良く頑張ったと褒めてもらって、デートして、一緒に居て……普通のことですよ」
 そしたら頑張れますから。しのぶの言葉に冨岡は視線を逸らして考えてから、やがて頷いて笑みを見せ、もう一度しのぶを抱きしめた。今度はしのぶも冨岡の背中に手をまわした。
「落ちても褒めるから頑張れ」
「縁起悪いこと言わないでくださいよ。……まあ良いですけど」
 受験生相手に何てことを言うのか。本当にそう思っているから口にしたのだろうが、この時期に言ってはいけない言葉である。謝る声が耳元で聞こえた。
 冨岡の手のひらが後頭部を撫でる感触に目を瞑る。しばらくそうして浸っていると、後頭部にあった手が耳やこめかみを滑り、頬に辿り着いた。感触に驚いて瞼を上げると至近距離に冨岡の顔があり、しのぶの顔を見つめていた。
 一体何回目で慣れるのだろうか。唇に触れた久しぶりの感触にしのぶの心臓は相変わらず激しく主張を始める。頬だって、こんな触り方を今までされたことがない。
「……ご褒美に、してほしいって言うつもりだったんですけど」
「………、……そうか、すまん」
 しのぶの熱が伝染ったかのように、冨岡の頬も赤みが濃くなった。無表情の眉間に皺を寄せて体を離し、何故か謝ってきた。
 冨岡がしたくなったのだろうか。キスをしてくれたのが嬉しくて、照れているのが可愛くて、その割に何だかおかしくてしのぶは思わず吹き出すように笑った。
「合格してからもお願いしますね」
 何やら複雑な表情を見せた冨岡は、それでも口元に笑みを乗せて頷いた。