合否

 そわそわ、はらはらと落ち着かなかった。
 受験番号など聞いていないし、いつ合否がわかるのか、どうやって知らされるのかもわからなかった。あまりに落ち着かないので思わず家を出てきてしまったのだが、冨岡の家まで行くのはさすがに迷惑だろうかとしのぶは考えた。
 もし落ちていたら、何と声をかければいいのかわからない。そばにいて背を擦るくらいのことはできるけれど、冨岡がそれで慰められるのかもわからなかった。
 いや、きっと受かっているはずだ。何せしのぶをほぼシャットアウトしてまで勉強していたのだし。マフラーに口元を埋めて、しのぶはポケットに収まるスマートフォンを握り締めた。
 連絡が来れば振動で気づく。すぐわかるようにポケットには手を入れたまま足を動かした。ちゃんとしのぶにも報告が来るだろうか。少し心配になった。
 堪らず最寄りの駅まで来てしまい、しのぶは近くの本屋へと寄ることにした。適当に雑誌でも物色しようとしたが、気もそぞろで頭に入ってこなかった。手に触れるスマートフォンが振動していることに気づき、慌ててポケットから取り出した。冨岡の名が表示されており、急いで操作して応答しながら本屋を飛び出た。
『受かっていた』
「ほ、本当ですか! 今どこ!? 行きます!」
 電話の先で驚いたように言葉を詰まらせた冨岡は、家にいると教えてくれた。飛び乗った電車は人が少なく、座席は空いていたがしのぶはドア付近に立ち、スマートフォンを握り締めて駅への到着を待ち侘びた。口元が緩んでいくのがわかり、引き締めようとしても表情筋はいうことを聞かなかった。
「冨岡さん!」
 玄関から歩き始めていた冨岡の姿が小さく視界に映り、駅から走ってきたしのぶは更にスピードを上げた。早いなと呟いた冨岡の目の前でつんのめりそうになりながら、両手で冨岡の左手を持ち上げた。
「電話来た時、駅にいたので。おめでとうございます」
「ありがとう」
 息を整えようと深呼吸を繰り返しながら、しのぶは笑みを向けた。ようやく呼吸が落ち着き始めた時、冨岡の視線が周りへと向けられるのが見えた。何かあるのかとしのぶも振り向こうとすると、肩に手を置かれたので冨岡を見上げた。
 屈んだ冨岡の顔が近づいて、目を閉じる暇もなく唇に触れる感触がした。瞑っている冨岡の目にかかる睫毛がやたらと分厚いのに気づくと同時に、しのぶの心臓が大きな音で胸を叩き、一気に激しく暴れだした。
「……目標にした甲斐があった」
「……そ、れは良かったです……」
 至近距離で呟いた冨岡が柔らかい笑みを見せた。うるさく叩き続ける心臓が顔にまで熱を運んでくる。何ヶ月かぶりに触れたせいか、三回目もまるで初めてキスをした時のように息苦しくなった。
「こ、こんな目標立ててるなんて言わなかったじゃないですか」
「言ったら怒るかと思った」
 怒るわけがない。ないのだが、これで冨岡のモチベーションが上がるのだと知らされては、一人合格発表の日まで悶々としてしまっていただろう。黙っていてくれたことには少し感謝してしまった。
「錆兎と真菰も受かったと連絡が来た」
「そうですか、良かった。これで後は炭治郎くんの入試だけですね」
 しのぶの心臓はまだ落ち着かないが、平然としている冨岡に張り合うように無理やり平静を装った。ふと先程冨岡が周りを気にしたのを思い出して振り向くが、誰もいない住宅地があるだけだった。
「さっき何かいました?」
「………。……誰もいないのを確認した」
 平然とした表情が少しだけ眉を顰め、頬が色づいていくのが見えた。しのぶの頬の熱も更に上がっていくのがわかり、聞くんじゃなかったと後悔した。
「上がっていくか。姉さんがいる」
「良いんですか」
 早鐘を打つ心臓が更に跳ねたものの、家族がいるという言葉に安心したのかがっかりしたのか複雑な感覚を抱いてしまった。
 冨岡の家に上がるのは、家族で礼を伝えに訪れた時以来だった。ドアを開くと冨岡の姉が出かけようと上着を広げている姿が見え、慌ててしのぶはお辞儀をした。
「あら、こんにちは。もしかしてお祝いに来てくれたの?」
「うん」
「お久しぶりです。お邪魔します」
 蔦子はしのぶを見て笑みを向け、冨岡に良かったわね、と声をかけている。しのぶとの関係をすでに知っているのかはたまた知らずに口にしたか、どちらにせよしのぶとしては少々気恥ずかしい気分だった。
「そうだ、良かったら夕飯食べていかないかしら。お祝いにご馳走作ろうと思っているの」
「え、いえ私は、たまたま来ただけですから……」
「義勇も喜ぶから、駄目かしら。今日は両親も遅いから、食べてくれるなら助かるんだけど。あ、もし良かったらよ」
 困った顔を見せたしのぶに慌てて蔦子が付け足した。
 喜ぶからなどと言われて、気づかれているような様子にしのぶは頬を染めた。両親には夕飯を食べてくると連絡すれば良いのだが、蔦子の微笑ましげにしのぶを見つめてくる視線に、いたたまれなさを感じつつも小さく頷いた。
「ええと、じゃあ、ご馳走になります」
「ありがとう! じゃあ急いで買い物行ってくるから、ゆっくりしててね」
 蔦子が買い物に出かけ、真っ直ぐ廊下を進んでいく冨岡の上着の裾を掴んで、振り向いた冨岡にしのぶは問いかけた。
「……あの、お姉さん、知ってらっしゃるんですか」
 今日冨岡と会ってから頬の熱が収まらない。しのぶは眉をつり上げながら見上げた。無表情がしのぶを見下ろし、瞬きをして目を逸らした。
「……言ったわけじゃないが、気づかれていた」
 夏休みの終わりに花火をして帰ってきた冨岡に、うまくいっているのかと突然問いかけられたそうだ。あまりに驚いて冨岡はただ頷くしかできず、今度連れて来てほしいと言われていたのだと口にした。
「そ、そうですか……」
 夕食の席で何か聞かれたりするのだろうか。何と答えれば良いのだろう。彼女だと公言すれば良いのか。それはそれで恥ずかしいのだが、あの微笑ましいものを見る目で見られ続けるのも恥ずかしかった。
 飲み物を準備して階段を上がり、突き当たりのドアだという冨岡の部屋に足を踏み入れた。
 初めて入る冨岡の部屋に少々緊張しながら見回した。勉強机には参考書や文房具が乱雑に置いてあったが、本棚とタンス、窓際にベッドがある以外は整然としておりあまり物がない。タンスの上に置かれている写真立てに視線を向けた。
 歯を見せて笑う幼い三人が映っている。話には聞いていたが、屈託のない笑顔が向けられているのが可愛かった。
「……冨岡さん、アルバムが見たいです」
 こちらを向いたのがわかったが、しのぶは写真立てから目を離せなかった。何だろうかこの可愛い三人は。冨岡が可愛い子供であったことは、昔を知る者たちからの話の節々から伝わっていたが、どう考えても全員可愛い。
「……特に変なものは写っていない」
「変なものはなくても可愛い子たちは写ってるでしょう」
 諦めたような顔をして、冨岡は黙って本棚の下の段からアルバムを引っ張り出した。しのぶに渡す前に少し中身を改め、溜息を吐きながら手渡した。
 感嘆の声を心中で叫びながら、しのぶは食い入るように眺めた。蔦子に抱かれながら写っている幼少の冨岡から、道着を着た幼い三人、体操服を着て一位の旗を持ってピースをしている冨岡がしのぶの視界に飛び込んでくる。
「はあ? ちょっと……びっくりするくらい可愛いんですけど」
「普通だ」
 どれもこれも満面の笑みを向けている。何が普通だというのだろうか。大きなぬいぐるみを抱えてはにかんでいるものとか、胸を押さえるほど可愛いのだが。
「このぬいぐるみはどこに?」
「それは真菰のだ」
「抱えている真菰さんはどこですか?」
「真菰のアルバムにある。錆兎もある」
「成程……全員見て回らないといけませんね」
 眉を顰めた冨岡がしのぶへ視線を向けるが、想像するだけでも絶対に可愛いことがわかる。今度真菰の家に泊まった時に見せてもらわなければ。
「冨岡さん! この着ぐるみは何ですか!」
「……姉さんの受験の時に鉛筆を渡したら、お返しにと買ってこられたものだ」
 サメのような着ぐるみを着た冨岡をでれでれの顔で抱きしめる蔦子が写っている。正直しのぶも目の前にこんな冨岡がいてはこのような顔になると思う。溺愛したくなるのも理解できてしまった。
「お姉さんが可愛がるのが良くわかりますね」
 何かを言いたそうにするものの、冨岡は顔を背けて溜息を吐き、悪足掻きのように別の話題を口にした。
「胡蝶の姉はすでに進路が決まっていたんだったか」
「ええ、冬になる前に。おかげで生徒会だとか華道部だとかに手伝いを要求されて、やたらと忙しかったみたいです」
 カナエがセンター試験を受けていたら、こうして冨岡の合格を祝いに来ることはなかったと思う。家族で祝いながら過ごしただろう。
「そうか」
「今度皆でお祝いしましょうか。姉もしばらく来ていませんでしたから会いたがっていましたし」
 頷いた冨岡に笑みを向け、さっさとアルバムに目線を戻した。項垂れた冨岡には悪いが、今はとにかくこのアルバムを見終わるのが先である。
「……そんなに楽しいか」
「体育祭の時も言いましたけど、私は見たことがないんだから楽しいですよ。何たって可愛いですし」
「俺にはいつ見せるんだ」
 どうやら冨岡もしのぶのアルバムを見たいらしい。ちらりと視線を向けると頬杖をついて少しばかり拗ねたように見える表情でこちらを眺めている。
「……家に遊びに来てくれたら、いつ見ても良いですよ」
 しのぶの言葉に笑みを見せた冨岡が頷いた。今度と呟く様子に照れてしまい、しのぶは頬を染めた。
 しのぶの家族はカナエしか冨岡との関係を知らないが、母は何となく気づいているような気もする。やはり女の勘が働くのだろうか。
 そもそもしのぶはわかりやすいと言われることもあるので、反応を見て勘付いているのかもしれない。真菰に言われた時は顔から火を吹くかと思うほど恥ずかしかったのを思い出した。
 そろそろそういった話に慣れても良いのに、どうしても恥ずかしさが顔に出てしまう。冨岡の無表情を見習うべきだろうかと考えた。