勉強中
息抜きにで良いですから。たまに近況を報告してくれれば。
ふいに思い出した言葉に義勇はスマートフォンを視界に入れた。
文化祭が終わってから早朝に学校で勉強するようになり、通学時に顔を合わせていた胡蝶は試験が終わるまでは姉と一緒に登校するようになっていた。
胡蝶と久しぶりに会ったのは先週に道場へ顔を出した時だ。勉強漬けの日々を労い、道場に来たことに礼を言い、メッセージを送らない義勇に恨めしく嫌味を言ってきた。申し訳ないとは思ったが、送ろうとすると勉強に身が入らなくなるので業務連絡以外はしていない。今は道場に行くのを控えているから業務連絡などほぼしないわけで、結局のところ、文化祭以降胡蝶と関わることが殆どなかった。一度だけ、終わるまで朝学習が入るので通学は一人で行くことと、連絡は控えると伝えた時だけだ。了承と応援する言葉だけを返してきていたが、顔を見て文句を言いたくなったのだろう。
夏休みの最後の週、花火をした時に言われたことに頷きはしたものの、いざ息抜きに連絡をしようかと考えると、脳裏にあの時の顔がちらついてその後の勉強が全く集中できない。これでは駄目だと義勇は一切のやり取りを断つことにしたのだ。試験が終わればいくらでも時間は作れるし、胡蝶に会うことを目標にすると割と捗ってしまう。我ながら現金な頭をしていると義勇は思う。
あんまり会えなくなりそうですね。
寂しそうにした胡蝶の顔を思い出し、義勇は気づかぬうちに口元を綻ばせた。
可愛いことを言っていた。あの時言ったことを殆ど反故にしてしまっていたが、色々と考えた結果、これが最善であると判断した。なので勝手ではあるが胡蝶には今しばらく待っていてほしい。
溜息を吐いて目を瞑った。
シャープペンシルを手でもてあそびながら頬杖をつく。胡蝶のことを考えたおかげで集中が切れてしまった。時計を見ると机に向かってから数時間経っており、凝り固まっている体を解すように伸びをした。脳内の思考を入れ替えるためにジャージに着替え、走ってくると蔦子に声をかけ玄関を出た。
「義勇」
外に出てしばらく走っていると、背後から声がかけられた。どうやら気分を変えに錆兎も走り込みをしているらしい。幼馴染だからか考えることが同じように被ることが良くあった。
「もうすぐだな。どれだけやっても足りない気がする」
「ああ」
判定は上がりはしたものの、当日までひと月を切っている。この時期になると進路が決定している者しか登校している者はおらず、クラスも人はまばらになっていた。
「ばあさんがお年玉の代わりに合格祈願のお守りをやたらと買ってきていてな、山ほど渡された」
「姉さんも妙な物を買っていた」
不思議そうにする錆兎にジャージのファスナーを下げ、中のTシャツを見せた。必勝と達筆な文字が表れ、錆兎の口元が笑いを誤魔化すように歪んだ。
「錆兎に影響されている」
「俺のせいにするな。蔦子が応援のために買ったんだろう」
「そうだが、Tシャツだけじゃない。当日に履いていけとだるまの描かれた合格祈願のパンツを渡された」
吹き出したのを誤魔化すように錆兎は咳払いをした。ファスナーを上げながら錆兎へじとりと視線を向ける。蔦子らしいのか良くわからん、と一言呟いた。
「時々姉さんはテンションが上がって変な物を渡してくる」
「何かしてやりたいんだろう。着てるあたり義勇も嫌じゃないな」
「Tシャツはまあ」
パンツはどうかと思うが、大事な試験の一日くらいなら履いても構わないとは思っている。せっかく蔦子が義勇のために買ってきたのだから、使わなければ悪いとも思うので。
蔦子の受験の時、小学生だった義勇は何を渡したのだったか。確か必勝の鉛筆か何かを渡した気がする。蔦子は驚くほど喜んで義勇を抱きしめていた。試験にも使って受かったと教えてくれたのを思い出した。
その後テンションの上がった蔦子は何故か義勇へのお礼としてサメ型の着ぐるみパジャマを贈ってくれた。中学に上がろうという年齢の弟にそれはないだろうと父が言っていたが、渋っていた義勇を着替えさせ、割と無理やり写真を撮られた。蔦子の感性はたまに理解し難かった。
その後も会話をしながらしばらく走り込みを続け、錆兎も戻ると言って家へと入っていった。冨岡家の玄関が見え、スピードを落として門へ手をかける。
「冨岡さん」
切れた息を整えながら声の先へと顔を向けると、走り込みに出る前に考えていた人物がいた。
「胡蝶」
「気分転換ですか? お疲れ様です」
「ああ」
先週と変わらない顔が義勇を眺め、道場の帰りだと口にした。これから同じ受験生である炭治郎の家庭教師に行くのだと言う。
「その前に渡したい物があって。ポストに入れておこうと思ってたんですけど」
ラッピングされた袋を手渡され、礼を告げて中身を開ける。シンプルな色と形のペンケースが出てきた。ペンも数本入っている。
「受験生に渡す物って何が良いかわからなくて、とりあえず使えそうな物を……ペンは私が使いやすいと思った物です」
「……ありがとう」
「あの時頼んだこと全部反故にされましたから。せめて何か渡したくて」
わざわざ新調しなくてもと思ったのだが、胡蝶の続けた言葉に義勇は言い返すことができなくなった。
「……悪いと思っている」
「良いですよ、受験に失敗されても困りますから。……気が散るんでしょう、私に連絡すると」
「ああ」
「私のことばかり考えるんですか」
「……ああ」
先週道場で言ったことを掘り返されたので、義勇は羞恥を感じながらも素直に頷いた。連絡をしないのは胡蝶のことばかり考え始めて気が散って勉強が手につかなくなるから。連絡を取っていないことを錆兎に指摘され、気が散るとしか言わなかった義勇の言葉を補足するように真菰が付け足してしまったのだ。真菰が言わずとも胡蝶にはバレていたような気もするが。
「顔を合わせるのも、駄目でした?」
照れたように頬を染めて目を逸らした胡蝶を眺めながら義勇は口を開いた。あまり知られたくはなかったが仕方ない。
「駄目ではないが……目標にすると勉強が捗る」
「目標?」
「胡蝶に会うという目標。すでに二回達成してしまった」
段々と胡蝶の頬の赤みが強くなっていく。
道場に行ったのは最後の息抜きだったのだが、その時点で胡蝶に会うことはわかっていた。だから次は連絡することを目標にでもするべきかとは考えていた。順番が違うような気もするが、試験の前に道場に行ってしまったのだから仕方ない。
「じゃあ……新しく目標を立てましょう。試験が終わって学校に行く日は、前みたいに一緒に電車に乗る、とか。受かったら……前みたいに手を繋ぐとか」
「……成程」
ぼんやり考えていたことと似たような提案をして、胡蝶は笑みを見せた。
モチベーションが上がりそうなことを一つ脳裏に思い浮かべる。邪念と言われれば頷くしかできないが、義勇は胡蝶の言うとおり新たな目標を脳内に定めた。
「そうする」
「どんな目標立てます?」
「……とりあえず、終わったら通学時間は戻す」
「そうですか」
弾んだ声が胡蝶の口から紡がれる。一緒に乗る電車の時間が戻ってくるのが嬉しいようだった。暗に義勇と会わなかった期間が寂しかったと言われているようで、知らず義勇の口元が綻んだ。これだから会いたくなかったのだが、胡蝶が可愛いのはずっと前からわかっていることなのでそれも仕方なかった。
「……じゃあ、私炭治郎くん家に行ってきますね」
「ああ」
「決めたこと、今度こそ守ってくださいね」
「試験が終わったらきちんと守る」
そもそも勉強中に気が散ることは想定外だったのだ。受験勉強が終われば普段通りの生活が戻ってくるので、普段通りに胡蝶との通学が含まれているのだから、義勇の中では守る守らないの話ではない。また何か言い返される気がしたので口にはしなかったが。
まあ、受かった時の目標は、普段通りには含まれてはいないものを定めてしまったので、守れと言われれば守らなければならない。先に伝えてしまえば顔を真っ赤にして怒られそうな気もするので、胡蝶には黙っておくことにした。
はにかみながら手を振って弟弟子の家へと向かった胡蝶の背中を見送り、義勇は玄関の扉を開けた。