ファーストキス話
女性ファッション誌に載っている特集を二人して覗き込んでいた時、甘露寺はしのぶに恥ずかしそうに教えてくれた。
この夏休み、伊黒と二人で色々なところをデートしてきたのだそうだ。水族館や花火大会、映画も観に行ったという。
「それでね、映画の帰り道に……その、してもらっちゃったの」
「してもらった……というと、」
両手を火照った頬に当てて照れる甘露寺の次の言葉を、しのぶは固唾を呑んで待った。甘露寺の口が静かに開く。
「……ファーストキス」
「………っ!」
頬に当てていた両手のひらで顔を覆った。甘露寺の耳が赤く染まっている。
しのぶの頬がつられるように熱を帯びていくのが分かった。
「いつもそうなんだけどその時は夜だったから、家まで送ってもらって……別れの挨拶の時に。私が観たいって言ってた恋愛映画の後だったから、心臓が飛び出そうなほどときめいちゃった」
同じシチュエーションがあったのだと興奮したように甘露寺は騒ぐ。唖然としたしのぶの口が塞がらなかった。
だって、そんな。互いの唇が触れ合うキスだなんて。
「凄くどきどきして死んじゃいそうだったんだけど、それ以上に嬉しくて泣いちゃいそうだったわ」
「そ、それで……?」
顔を真っ赤にしながら甘露寺を見つめ、続きを促した。ファーストキスの経験はまだだが興味がないとは嘘でもいえない。奥手なしのぶにだってイメージしているものはある。
「その後は抱きしめてもらって別れたの。次どんな顔して会えば良いか、恥ずかしくてどうしよう」
「だ、抱きしめ……そ、そうですか」
俗にいうハグという行為もしのぶは経験がない。甘露寺たちとのダブルデートの日、最後の観覧車でキスを受けたことは忘れていないが、あれは唇ではなく額に貰ったのだ。その後は相変わらず手を繋ぐところから進んでいなかった。
「夏休みも今週で終わりだし、伊黒さんとも平日は会えなくなるけど……うふふ、素敵な思い出ができて嬉しかったわ」
「成程……」
夢見心地の甘露寺に妙な相槌を打ちながら、話に聞くだけでも照れてしまったしのぶは落ち着くために紅茶を口に運んだ。
夏休み、花火大会は真菰たちと四人で行ったけれど、帰りも四人で胡蝶家へと帰ってきた。優しい真菰と錆兎は何の疑いもなく冨岡とともにしのぶを送ってくれたし、それをしのぶも普通に喜んで受け入れていた。四人で遊びに行ったのだからそれは普通だと思う。
だが甘露寺は映画の帰りに、ファッション誌にも花火大会の帰りにファーストキスを済ませた者がいると書いているのだ。デートの帰りに済ませるのが自然であるのだと。
夏休みも終盤、花火大会はすでにどこも終了し、後は普段どおり道場に通う日々が残ってはいるが。
「それでね、お父さんから手持ち花火を貰ったんだけど、伊黒さんはもうアルバイトが入って夏休みは会えないから、良かったらしのぶちゃん、どうぞ」
うきうきと手渡された手持ち花火の袋を受け取り、しのぶは頬を染めて心底困ってしまった。
この話の流れでは甘露寺はしのぶと花火をするつもりはないのだろう。誘えば喜んでくれるかもしれないが、甘露寺がしのぶの背中を押しているのはそういうことではないはずだ。
「……ありがとうございます……でも私、」
「あの! 真菰ちゃんたちと一緒にやったらきっと楽しいと思うし、カナエさんとやっても楽しいと思うの」
慌てて言葉を付け足しているが、言外に期待が膨らんでいるのが分かる。甘露寺は冨岡と花火をすることを期待して、手持ち花火を譲ってくれたのだ。しのぶが積極的になりきれないことを分かってくれている甘露寺は、彼女なりにしのぶの恋を控えめに応援してくれている。
「……そうですね、夏休みですし。花火をするくらいなら付き合ってくれるでしょうから……」
意を決してしのぶはスマートフォンを持ち上げ操作し始めた。甘露寺が両手で拳を握り、無言で応援しているのが視界の端に映った。
*
会うのが夜で良かったと思う。
しのぶの頬は色づいており、はしたなく何かを期待しているのが丸わかりになってしまいそうだった。
手持ち花火を貰ったのでやりませんか。
そうメッセージを送ると、もしかしたら冨岡は錆兎と真菰にも声をかけるかもしれないと考えた。それならそれで良かったのだが、冨岡は声をかけることなく一人で待ち合わせ場所の河川敷へとやって来た。周りは複数花火を楽しんでいるグループがいる。しのぶたちだけでは余計緊張してしまいそうだったので、正直ほっとしていた。
冨岡の自転車の前かごには小さなバケツが入っている。その中に着火ライターとゴミ袋、懐中電灯が乱雑に入れられていた。花火はしのぶの鞄に入っている。
「姉さんが昨日花火をしたから、そのまま乗ってきた」
「冨岡さんも?」
「いや。彼氏としたらしいから」
今年の手持ち花火は今日が最初だというので、何となくしのぶはほっとした。
近くにある手洗い場で水を汲み、比較的静かに過ごせそうな、コンクリートで舗装された場所に座った。人がいて助かった部分はあるけれど、やはり二人で来ているのだから少しは風情を楽しみたい。遠くで騒ぐ声が聞こえる。
「去年は不死川の服が燃えていた」
「誰がやったか想像がつきますね。楽しそうで何よりです」
花火に火をつけると、火花が大きく散りながら音を立て始める。照らし出された冨岡の顔が良く見えた。
乙女の下心満載で花火に誘ったものの、しのぶはどうすればそんな良い雰囲気というものになるのかさっぱりだった。宇髄のような百戦錬磨が相手ならともかく、冨岡もしのぶも奥手中の奥手であると自覚している。互いがそんなではなかなか先に進まないのも納得しかない。
だからといって冨岡が遊び人でも嫌なので、そんなに焦らなくても良いのかもしれないけれど。
そう考えると、少しだけ気が抜けて楽になれた気がした。そもそも甘露寺が経験したからといって、競うようなことをしなくたって良いのだ。付き合ってまだ半年も経っていない。もうすぐ経つけれど、進んでいく周りに倣わなくても良いはずだ。
「皆さん最後の花火でしょうかね。もう来週は新学期ですし。そろそろ受験の準備ですか?」
「ああ、文化祭が終わったら本格的に」
「文化祭……今年は何するんでしょうね、楽しみです。甘露寺さんも行きたいって言ってたんですよ。伊黒さんに頼んでチケットを貰うんですって」
去年はコーヒーカップで三半規管を麻痺させられたけれど、女子校では拝むことのできないものだったので、あれはあれで楽しかった。今年も冨岡は宇髄と同じクラスなので、また趣向を凝らした出し物をするのではないかと期待する。
「今年も姉と来るのか」
「そうですね、甘露寺さんは伊黒さんに用意してもらうそうですので、二枚です」
「わかった」
受験勉強が始まればこうしてのんびりする時間も少なくなるだろう。朝の電車や稽古に行けば会えるかもしれないが、どうなるかなどは分からない。
「どうした?」
花火の光でしのぶの表情が見えたのか、冨岡が顔を覗き込んできた。先のことを考えて少々落ち込んだのが顔に出てしまっていたようだ。隣同士で座っているためか、いつもより少し近い位置に冨岡の顔がある。
「い、いえ、受験のことを考えてました。稽古には行くのかなって……」
「先生は中学の時も受験が終わるまで稽古に来なくていいと言っていた。行ける時は行っていたが」
「じゃあ終わるまであんまり会えなくなりそうですね」
ぽろりとこぼれた本音にしのぶは口元を押さえた。冨岡の目が瞬いて、柔らかく細められた。こんな言い方をするつもりではなかったのに、冨岡は笑っているけれど、我儘だと思われてはいないだろうか。
「できるだけ行くようにする」
「受験に失敗しても困りますから、勉強優先してください」
あ、でも。しのぶはふと思いついてしまった。今年の受験に冨岡が失敗して来年合格すれば、しのぶと同学年になるではないか。
いやいやだめだ。しのぶのちょっとした憧れで冨岡の人生を左右してしまうことがあってはならない。思わず考えてしまった案を脳内で封印した。
「連絡くれれば良いです。毎日じゃなくても」
「……わかった」
冨岡のメッセージは端的で、用件のみの短いものが多い。世のカップルは文字でも好意を確かめ合うのだとどこかで見たけれど、冨岡がまめにメッセージを送ってくることは殆どなかった。それはそれで冨岡らしくて構わないのだが、筆不精を自覚しているらしい冨岡は、何を送るか悩むかもしれない。逆に勉強の妨げにならないか不安になってしまった。
「息抜きにで良いですから。たまに近況を報告してくれれば」
「ああ、そうする」
疲れただとか勉強についていけないとか、愚痴みたいなもので良い。冨岡がその時感じている気持ちを教えてほしいだけだ。しのぶに伝えて楽になるかは分からないけれど、少しでも関わっていたかった。
「あ、」
花火の入っていたビニール袋が風に舞い浮き上がる。いつの間にか殆ど火をつけていたようで、残りは線香花火があったはずだったが、風に吹かれて袋から飛び出しコンクリートに転がっていた。
飛んで行ってしまおうとするビニール袋に座ったまま手を伸ばすと、隣からも腕を伸ばしたのが目に映った。しのぶの先に飛ばされた袋を膝立ちでどうにか冨岡は捕まえたものの、しのぶが伸ばしていた足につまずいてバランスを崩し、二人揃って地面に倒れ込んだ。
「悪い、」
「………っ、」
冨岡の顔が目の前にあった。取り落とした花火の光で薄っすらと表情が見え、驚いているのが分かった。起き上がろうと体を離しかけた冨岡の服の裾を思わず掴んでしまい、しのぶは頬に熱が集まってくるのを感じた。なんてことをしたのだろう、泣きそうなほど情けない顔になっていたと思う。
驚いた顔が困ったように眉を顰め、頬に赤みが差しているのが良く見えた。照れている。しのぶの心臓だって破裂しそうなほど暴れまわっているので、苦しくて涙が出そうだった。
服から手を離しかけた時、冨岡の顔が距離を詰めた。
短くも長くも感じた一瞬は目を閉じる暇もなく、感動とか羞恥とかよく分からなかったとか、とにかく混乱した感情が表情に押し出されてくる。冨岡が体を起こししのぶの腕を引っ張った。辺りが暗くて助かった。しのぶの顔は耳まで熱を持っていたから。
「……心臓が破裂しそうです」
「俺もだ」
しのぶの言葉に同意した冨岡の横顔は、情けなく眉をハの字にして、膝に頬杖をついて口元を隠している。取り落とした花火はすでに消えていたので良く見えないけれど、きっと頬は赤いままなのだろう。
「……線香花火、やりませんか。これで終わりですし」
地面に取り残された線香花火を拾って手渡し、火をつけてぼんやりと小さな火花を眺める。息苦しさは少しはましになったけれど、心臓は痛いほど主張し続けていた。
もう一回、とか。してはもらえないだろうか。
心臓に負担がかかり過ぎていたせいもあるのか、離れるのが早すぎて、唇に当たったことしか分からなかった。
ひっそりと冨岡の顔を見つめていると、線香花火を眺めていた視線がふとしのぶへと向けられた。
いやいや、もう一回だなんてとんでもないことを。考えたことが顔に出ていないか不安になった。慌てて視線を外すと冨岡の手がしのぶの手に触れ、恐る恐るもう一度冨岡の顔を見上げた。そのままどちらともなく指を絡ませる。
しのぶと同様に緊張しているのが伝わってくる。もう一回、と同じことを思ってくれたことも。胸が苦しくてうまく呼吸ができないのを誤魔化そうと息を止めた。目を伏せた冨岡の顔が視界いっぱいに広がり、しのぶは目を瞑った。
観覧車で額に感じた柔らかい感触が離れた時、そっと瞼を持ち上げると照れた冨岡の目が窺うようにしのぶを見ていた。きっとしのぶも同じような目を向けていたと思う。
「……花火、落ちちゃいましたね」
そのうち四散するのではないかと思えるほど胸を叩いて暴れる心臓を何とかやり過ごしながら、しのぶは辛うじて小さな声で口にした。最後の花火だと言っておきながら、殆ど見ていなかった。
「また来年やればいい」
顔を見るのは恥ずかしくてできなかったけれど、年を跨いだ約束にしのぶの口元は綻んだ。来年はしのぶが受験生になるはずだが、勉強漬けの合間にくらい会える日だってあるだろう。
「片付けましょうか。花火もなくなりましたし」
「ああ」
水を捨てて燃え殻をゴミ袋に入れ直し、自転車の前かごにバケツを入れる。きっかけになってしまったビニール袋を見て、しのぶは頬を染めてゴミ袋に慌てて突っ込んだ。
河川敷を通った自転車に人影が二つ乗っていたのが目に入った。何となく目で追っていると、気づいたらしい冨岡が声をかけた。
「乗りたいのか」
「でも私、」
二人乗りなどしたことがない。冨岡の自転車は後輪に荷台はついているものの、バランスを崩して落ちないかと不安になった。
「掴まれ。尻は痛いかもしれないが」
スマートフォンで時間を確認した冨岡は、歩くよりは自転車で送ったほうが早いと判断したのかもしれない。少しは余韻を考えて、ゆっくりと並んで帰ってくれても良いのでは、なんて思いはするものの、しのぶもまだ気恥ずかしいので何も言わなかった。
荷台に横向きに乗り上げ、冨岡の服を掴む。乗ったことを確認して冨岡はペダルを踏んだ。
「わ、わ、ちょっと」
砂利道ではないのにがたがたと自転車が揺れる。驚いて冨岡の腰に両腕をまわした。
冨岡はゆっくり進んでくれているようだが、サドルに座って自分で漕ぐよりも荷台からの衝撃が大きい。乗り慣れるのに時間はかかりそうだったが、しばらくすると余裕は少しだけ出てきた。
思わずしがみついてしまった冨岡の背中を眺める。見た目よりもずっとしっかりしている体つきに、恥ずかしさを感じ頭をぐりぐりと擦り付けた。
「、何だ」
驚いたのか冨岡の声が少し跳ねた。
結局のところ、夏休みは甘露寺たちほどどこかへ遊びに行くことはなかったけれど、最後に花火ができたのでしのぶは満足していた。街でよく見かける二人乗りだってできたのだし、何より。いや、あれは家に帰ってから思いきり浸ることにする。
家の近くまで来ると、しのぶは限界が来て荷台から降りた。冨岡も付き合って自転車を降り、二人で夜道を並んで歩く。胡蝶家の明かりが見えた。
「じゃあ、また道場で」
「ああ」
自転車に跨った冨岡に向かって手を振ると、ほんの少し逡巡した素振りを見せ、照れたようにはにかんだ。また、と口にしてペダルを踏んでしのぶから遠のいていく。
だから、またそういう思わせぶりなことをして。しのぶの顔は真っ赤になり困り果ててしまった。