謝意を示しに

 あの日から数日後。無事にお礼を渡すことができた胡蝶一家は、それはもう大いに湧いていた。主に母とカナエであったが。
 格好良い子だったね、と母が黄色い声を上げ、カナエもそれに笑って頷いた。それを見た父は感謝しつつも複雑な顔を見せた。
 しのぶからすれば恩人以上の感情はないし、母もカナエもアイドルを眺めるような感覚なのは見ていてわかる。二人とも割と色恋の話が好きなので、調子良く騒いでいるだけだ。冨岡のように守ってくれる子がお婿さんに来てくれれば、なんて飛躍した考えを母が口にしたりもしていた。
「あらまあ、弟がそんなことを。わざわざすみません」
「いえいえ、本当に助かりました。若いのに正義感のある弟さんで」
 まさか住所を教えてくれるとは思ってもいなかったしのぶは驚き、隣で見ていた友人の少年も焦って窘めていた。勿論悪用はしないと口にして有難く情報は家族へ共有した。
 一家総出で訪問した際、出迎えたのは二十代の女性だった。柔らかく笑う姿がとても可愛らしい。
 冨岡の姉だと言った女性は、本人を呼んでくるので待っていて欲しいと口にして、人数分淹れたお茶を準備してくれた。あの無表情からこんな朗らかな姉は少々予想外だったが、どちらも人目を惹く容貌をしていた。
 しばらくして階下へ降りてきた冨岡の顔を見て両親は驚いていた。冨岡自身は全員で訪れた胡蝶一家に驚いていたが。
 感謝を述べて菓子折りを無理やり手渡し、胡蝶家四人はようやくひと息つけたのだった。
 朝のラッシュ帯に話題は変わり、女性陣が満員電車の愚痴を零し始める。冨岡の姉もまた痴漢の被害に遭ったことがあるのだそうだ。
「女の子だけだと不安ですもの。朝起きられるなら時間をずらしたほうがいいわ。こんなに可愛いんだから」
 しのぶとカナエを見てうっとりと笑う冨岡の姉は、心配だと口にした母に同調するように頷いた。一緒に電車に乗るといつも匿ってくれるのだと弟自慢をさりげなく入れるのは忘れない。
 女でなくともターゲットにされれば被害に遭うということを姉は知らないような口ぶりだった。
「冨岡さんが腕を捻り上げていたのは護身術ですか?」
 気になっていたことをしのぶは問いかけた。
 軽い力しか出していないように見えた。力が弱くても使えるものがあるのだろうか。
「あれは単に腕を掴んだだけだ」
 古武術の師範が親戚にいるらしく、実戦に使えるほど体術を叩き込まれたらしい。
「この子も昔は色々と大変で。何かあっても大丈夫なようにって教えてくださったんです」
 しのぶとカナエの周りは大変だっただろうと思う。何せ昔から変質者やストーカー、色んなものが姉妹へ引き寄せられてきていた。目の前の冨岡姉弟もそうだったのだろう。しのぶたち姉妹は周りの大人たちに守られて今まで生きてきたが、一人でもどうにかできる術を持たなければならないと冨岡は教えられたそうだ。結果他人を助けられるほどになっているのは凄いと思う。怖い思いをしたしのぶは護身術の会得を本格的に考えていた。あんなふうに強くなりたい。
 しのぶだけでも強くなれれば、カナエと一緒にいれば守ってあげられる。問題はしのぶの力が弱いことだ。握力測定はクラスの中でも一際数値が小さかった。
「小柄な人間でも身につきそうな護身術はありますか?」
「俺は先生じゃない」
 他意はなく、本当に口数が少なく言葉選びが下手なだけなのだと短い時間でしのぶは理解していたが、それでも時折溜息を吐きたくなる時がある。それも冨岡の性格だと言われると、そうですかとしか言えないのだが。
「合気道なら体格に左右されない。武器も使う」
「あ、そうなんですか? 力が弱くても?」
 続けて口にした冨岡の言葉に、しのぶは思わず質問を投げかけた。
 合気道。聞いたことはあるが調べたことはなく、どんな武術なのか良く知らない。
「相手の力を利用して技をかける。体格差があっても投げ飛ばすことも出来るようになる」
「へえ……」
 かもしれない。小さく呟いた冨岡の言葉は聞こえていたが、しのぶはそれを重要視しなかった。体が小さくても身につくものがある。それを聞いたしのぶは両親へ視線を向けた。冗談半分で言っていた護身術の話は、しのぶにとって冗談では終わらなかった。
「冨岡くんが強いんだから、同じ先生に習ったら私も強くなれるかしら?」
「ちょっと姉さん」
 にこにこと笑みを絶やさずにカナエが口を開いた。少々面食らったような顔を見せた冨岡は、強くなれるかは知らないが、と口にしてしのぶはひくりと口角を引き攣らせたが、言葉を続ける気があったのか口を開いた。
「役に立つことはあると思う」
 呟いた冨岡の言葉にしのぶとカナエは目を見合わせた。カナエが口を開く前にしのぶは冨岡へと視線を向ける。
「良ければ私を冨岡さんの通う道場へ紹介していただけませんか」
「あらっ? 私は?」
「姉さんは部活があるでしょ。掛け持ちできそうなら始めれば良いんじゃない」
 不満げにしのぶを眺めるカナエは、それでも提案には納得できたようで、そうねえ、と呟いた。
「冨岡さんが通っているところは合気道も教えてらっしゃるんですよね?」
「……まあ、教えてるが。先生じゃなく奥さんが」
 俺は習ってない。そう続けた冨岡の声音は物凄く不本意そうに聞こえたが、しのぶは気づかないふりをした。
 道場を一から探すより、誰かが通っているところへ通うのが一番だろう。あくどいところもあるかもしれないし、続けている人がいるのなら間違いないはずだ。
「……あそこの道場は、門下生を募集してるわけじゃない」
「え、」
 姉妹が揃って声を漏らしてしまい、両親は苦笑いをしていたのがわかった。カナエやしのぶのやりたいことならば基本的に止めはしないが、話がどう纏まるのか気にはなっているようだった。
 どうやら親戚だからと面倒を見てくれているらしい冨岡の師は、さすがに知り合って間もないしのぶには教えてくれないかも知れない。しゅんとがっかりしてしまったしのぶを見て、冨岡の姉が声を掛けた。
「義勇は一度先生に聞いてみてあげたら? 私も奥さんに言ってみるから」
「……先生に?」
「錆兎も真菰も面倒見てくれているし、鱗滝さんは皆大事にしてくれるからね。奥さんだって可愛がってくれてたんだし、義勇の友達だって言えば教えてくれるんじゃないかしら」
「友達じゃないんだが……」
「義勇!」
 あんまりな言葉に冨岡の姉は慌てて窘めるが、しのぶはもう既に慣れてしまっていた。確かに会うのは今日でたったの三度しかないし、友達かと言われるとそうでもない。
「まあ、私も冨岡さんのことは恩人だとは思っていますが友達だとは思っていませんし。でもそう考えると少し図々しかったですね、すみません」
 良い案だと思ったのに、冷静になったしのぶは少し恥ずかしくなって俯いた。何だかテンションが上がっていたような気がする。
「……電話してくる」
「よろしくね」
 顔を上げると冨岡は椅子から立ち上がり、姉に見送られて席を外した。冨岡の師に話をしてくれるようだった。
「い、いいんですか?」
「聞いてみるだけだから、先方が無理ならお断りすると思うわ」
「でも……」
 面倒見が良いのだと先程言っていた。冨岡が頼めばやってくれるとまで口にしていた。何だか無理やり頷かせてしまいそうでしのぶはもやもやとする。
「……弟はあなたが心配なんだと思うわ。自分が大変だったから親身になっているのよ、あれでも。わかりにくいんだけどね」
 困ったような笑顔を向けて冨岡の姉は言った。しのぶが痴漢に遭った時、冨岡は自分の事のように怒りを覚えてくれたことを知っていた。言葉の真意を汲むのはなかなかに骨が折れるが、真意があることを知っているだけでも受け止め方が変わる。少ない口数でどんな意味を含ませたのかを問い質すことだって出来るのだから。それはそれとしてもう少しわかりやすく話してほしいけれど。とはいえ親身になってくれているのならば、有難く厚意は受け取っておくことにした。
 しばらくしてリビングへ戻って来た冨岡を全員の目が出迎え、何かの圧を感じたのか輪に戻ることを躊躇したように立ち止まった。彼の姉は笑顔で座るよう急かし、カナエと両親は期待に目を輝かせている。
「今度連れてきて良いと」
「あら、良かったわね」
「教えるかどうかは決めていない。見学でもしてじっくり考えるようにと言っていた」
「……あ、ありがとうございます」
「礼は先生に言ってくれ」
 安堵の溜息を吐き出すカナエと両親を見やり、しのぶは冨岡へ視線を向けた。
 兎にも角にも話は動いたのだ。後は冨岡の師匠夫婦に教えてもらえるよう頼み込むだけである。