幕間 蜜璃
晴れて常連と呼ばれるほどに通いつめたお気に入りの喫茶店には優しい従業員がいた。
顔を出すたびに話しかけてくれたり、他のお客様にバレないようほんの少しだけおまけをしてくれたりと、甘露寺は申し訳ないと思いつつも、特別扱いが嬉しくて受け入れていた。
モダンで落ち着いた雰囲気の喫茶店は、体の大きな男性が店長として切り盛りし、いつもマスクをしている小柄な店員はアルバイトとして手伝っているのだそうだ。接客は店員がメインとしてやっており、店長はカウンターからあまり出てくることはないが、時折話しかけてくれる。来店第一号として、甘露寺を少しだけ優遇することも容認してくれているらしい。
優しい。仲良く話してくれる店員も、ほんの気持ちを乗せたおまけをしてくれる店長も。甘露寺は今まで通ってきたなかでもひときわこの喫茶店が好きだった。
一番のお友達を連れて一番好きなお店へ向かう。きっと今日も二人とも優しく出迎えてくれるはずだ。今日も楽しく過ごせるに違いない。
店の付近まで来ると、何やら店頭に二人の男性の姿があった。喫茶店のドアは開け放たれており、閉まらないよう固定されている。
「おいそこに置くな、邪魔だろう。もっと考えて運べ」
「つってもよォ、どうせ戻すだろ」
「何度も行ったり来たりするのにそんなところに置かれては迷惑だ」
何やらテーブルが店前の歩道に出されている。甘露寺は見知った顔に向かって声を掛けた。
「伊黒さん!」
「甘露寺?」
平均男性より少し小柄な店員は、甘露寺の姿に驚いて目を丸くしていた。
「もしかして今日はお休みなのかしら」
「休みというわけじゃないんだ。掃除が長引いて開店時間をずらしている。すまないがもう少し待ってくれると助かるのだが……いや、時間も勿体無い。違う店に行くほうが良いかも知れない」
「そうなのね……しのぶちゃん、どうしよう?」
「私は甘露寺さんに付き合いますよ。このお店が良いんですよね? 待ち時間なんて話していればすぐですし」
隣にいた友達が甘露寺の欲しい言葉をくれた。大きく頷き、終わるまで待つと伊黒へ伝える。ほっとしたような気配がして、どこで時間を潰そうかと考える。
「悲鳴嶼さんに中で待って良いか聞いてこよう」
悲鳴嶼とはこの喫茶店の店長のことだ。大きな体で可愛らしいラテアートを作る、巷でいうギャップの塊のような人である。
「わあっ、そんな、悪いわ」
「気にしなくて良い。お得意様は大事にしなければと悲鳴嶼さんも言っていたからな」
「お? 何だ胡蝶じゃねえか、奇遇だな」
ドアの奥から顔を出した男性が、甘露寺の隣にいたしのぶへと声を掛けた。笑顔で挨拶を返したしのぶを見て、甘露寺はまさか彼が件の冨岡さんなのでは、と目を輝かせた。
悲鳴嶼よりは小柄に見えるけれど、伊黒と並ぶと随分大きい。宇髄さんです、としのぶが教えてくれた。冨岡ではなかったようだ。
「甲斐甲斐しいなあ伊黒」
「うるさいぞ。甘露寺、入って待ってくれていいそうだ。少し騒がしいがすぐ終わらせる」
「ありがとう、伊黒さん。悲鳴嶼さんにもお礼を言わなきゃ」
「お邪魔します」
昨夜床に調味料をぶち撒けたんだと伊黒が掃除の理由を教えてくれた。昨日の時点である程度拭いてはいたのだが、普段も混雑することはないし、ついでだからと大掃除をすることにしたらしい。伊黒は暇そうにしていた友人に手伝える者を集めてもらったという。報酬はきちんと用意されているそうだ。
「おい、宇髄。何故ついてこなかった」
「いいじゃねえか別に。お前腕力担当だろ」
「俺の腕力は普通だ。宇髄のほうが強い」
「お前が普通なわけねえだろ。俺の力が強いのは事実だけどな」
ドアから不機嫌そうな声を発した男性が一人、両手に山ほどの荷物を抱えて立っていた。ぶち撒けたという調味料、その他諸々の買い足しのように見えるが、台車もなしに抱えて帰って来たようだ。
「あら、冨岡さん?」
カウンターで少し待つよう勧められたので、ドアから遠い奥の席へ座ろうとしていたのだが、甘露寺の隣にいたしのぶがドア側へと顔を向けた。荷物を抱えて帰って来た男性がこちらに気づいて視線を向ける。
「胡蝶」
甘露寺の隣のしのぶに向かって、眠気も吹っ飛びそうなほどの笑顔が向けられた。店内で見ていた全員が目を丸くして驚いた顔をしていた。しのぶの手が甘露寺の腕を掴んでいるのだが、少々痛みを感じるほど力を込められている。彼女は以前話してくれたことがあった。
――笑うと可愛いんです。
初対面の、しかも男性にこの言葉を贈るのはあまり嬉しくないだろうとは思うのだが、それでも甘露寺にはこれ以上しっくり来る言葉は思いつかなかった。
本当に可愛いわ!
あの人が冨岡さんなのね。そう聞きたくてしのぶを振り向いたのだが、笑顔を見せたまま固まっていた。顔色は変わらずとも耳が赤くなっているので、好きな人のあまりの可愛さに思考が停止しているのだろう。たぶんきっとそうである。甘露寺にはわかるのだ。
「誰だァこいつは。冨岡の皮被った何者かだろォ」
「宇髄、知らん奴を連れてくるな。どうりであの二人がいないと思ったんだ」
「いや、あいつらに声掛ける前に不死川が捕まったから……まあ俺も驚いたが本人だよ一応」
「何の話だ」
疑問符が頭の上に見える。男性たちの会話に入れなかった冨岡が首を傾げて問いかけたのだが、三人とも首を振ってなかったことにしようとした。
「んなこといいから冨岡はさっさと悲鳴嶼さんにそれ渡してこいよ」
抱えたままだった荷物を指して奥へと促した。怪訝な顔をしつつも言われた通りに冨岡は奥の従業員スペースへと消えて行った。
「しのぶちゃんのお友達が伊黒さんのお友達だったのね」
「そうみたいですね。驚きました」
伊黒は何か言いたげにしていたが、しのぶが肯定すると溜息を吐きながらモップを持って床を掃除し始めた。他の二人も雑巾や水切りを手にし始める。
「大変そう。何か手伝いましょうか?」
「いや良い。気にせず待っていてくれ」
周りが忙しなく動いているなか甘露寺としのぶはカウンターに腰を下ろしたのだが、せっかく席を貸してくれたのに何もしないのは気が引けた。甘露寺が問いかけても伊黒に断られてしまったのだが。
「お客さんだろ? 俺らは今日従業員だからな、働いて当たり前なんだよ」
宇髄と呼ばれていた背の高い男性は、伊黒に同意するように座っていろと口にする。奥から悲鳴嶼が顔を出し声を掛けてくれた。
「すみません、開店前なのに」
「大事なお客様は大切にしなければ。カフェオレで良いだろうか」
「ありがとうございます」
大変な特別扱いだ。皆の言葉に甘えて、甘露寺としのぶはカウンターで掃除が終わるのを待つことにした。
「しのぶちゃんの言ってたとおりの人ね」
「……慣れないんですよ」
声を潜めて話をする。冨岡といる時に気を抜いていると、笑いかけて来た時すぐに頬が火照ってしまうのだとしのぶは言った。
甘酸っぱくて素敵なことだと甘露寺は思う。気持ちの赴くまま表情に出しても良いと思うのに、しのぶは顔色を変えないよう必死に耐えているらしかった。
頬を染めたり嬉しそうに笑うしのぶは言葉では言い表せないほど可愛い。冨岡だってそう思うはずなのに。
「お前何食ってんだァ」
奥から顔を出した冨岡はサンドイッチを頬張っていた。賄いを用意したと悲鳴嶼が口にする。
「俺も貰お。いただきまーす」
「ああ、皆食べると良い。手は洗うように」
「冨岡貴様、まだ掃除は終わってないぞ」
「俺は腕力担当だと聞いたが」
サンドイッチを飲み込んで、冨岡はようやく伊黒に答えた。本当にそれだけなわけがないだろうが! と伊黒に苛立ちが見えるが、皆のやり取りは気心の知れた仲のようで楽しそうにも見える。いつも甘露寺に優しく接する伊黒とは違い、何だか新鮮だった。
「まあ良いじゃねえか。脳筋にはテーブル運ばせとけ」
「俺らは床掃除で終わりだなァ」
サンドイッチを咥えて戻って来た宇髄の言葉に冨岡は少し不満げにしたものの、咀嚼していたせいか何かを言うことはなかった。
悲鳴嶼手製のカフェオレが目の前に置かれ、甘露寺としのぶは有り難く口に運んだ。ほっとする味だ。
「ワックスかけるかァ?」
「いや、それはいらん。拭き終わったならテーブルを戻すぞ。おい冨岡」
丁度食べ終わったらしい冨岡が伊黒に従い外へと向かった。四人掛けのテーブルを入り口まで移動させ、伊黒が誘導して元の位置へと戻していく。みるみるうちに甘露寺の知る内装へと戻っていった。
「不死川、テーブルを拭いてくれ」
伊黒が主に指示を出し、一日限りの従業員だと言った彼らがそれに従い動く。チームワークの良さが垣間見え、仲が良いのだと甘露寺は微笑ましい気分になった。
「皆ありがとう。帰りは置いてある袋を持って帰るように」
「ご苦労だったな。やらかしもなく終わってほっとした」
カウンターのすぐ後ろの席を陣取り、三人は残りのサンドイッチを食べ始めた。伊黒は勤務中らしく、甘露寺としのぶの注文を取り悲鳴嶼へとオーダーを通している。
「胡蝶らは良くここ来んの?」
「私は二回目ですよ。甘露寺さんが良く来てるんです」
「そうなんです! 素敵なお店でお気に入りになっちゃったの」
宇髄は咀嚼しながら相槌を打った。客足があまりふるわないのが不思議で仕方ないくらいの店だと甘露寺は思うが、世間は案外厳しいようだった。
だが繁盛し出すと今のゆったりした時間が過ごせなくなってしまうかもしれない。それを考えると少し複雑だった。
「伊黒さんたちを見てると、私もアルバイトが出来れば良いのにっていつも思うの」
「あー、やっぱ学校は禁止されてんだな。うちは申請すりゃ大体オッケーだからなあ」
甘露寺は自分の通う学校に不満を感じたことはなかったが、他校の校則を聞くと少しだけ羨ましく感じてしまう。文化祭の話もしのぶから聞いたが、自由な校風で目移りするほど興味を唆られるものがあったらしい。
「いずれは社会に出るのだし、今焦らずとも良いだろうに」
「伊黒さんはずっとここで働くの?」
「む、俺は……そうだな、少なくとも高校の間はここで働くが」
甘露寺の一つ上である伊黒は二年。もう進級の時期だから、残り一年だ。三年になれば受験が控えている。進路を伊黒に聞いたことはないが、丸一年アルバイトを続けるとは考えにくいだろう。アルバイトを辞めたら甘露寺とは接点が無くなってしまう。
「だって私伊黒さんと一緒にここで働きたいもの……。あっ、まずは悲鳴嶼さんに雇って貰わないといけないけど」
「そうか……考えてみよう」
甘露寺がオーダーしたオムライスを差し出し、話を聞いていた悲鳴嶼が前向きな言葉を口にした。しのぶにはミートソースのパスタが渡される。
「成程なあ。卒業してもバイト続けるしかねえな」
「わかった。出来るだけ長く働き続けよう」
楽しそうに笑う宇髄の言葉を聞いて、伊黒へ期待の眼差しを向けてしまう。マスクをしていて顔の半分は見えないが、少し照れているように見えた。伊黒の言葉で後二年が待ち遠しくなった。
「しのぶちゃんとも一緒にアルバイトが出来たら嬉しいけど……お稽古があるから難しいかしら」
「二年後ですか……どうでしょう。でも甘露寺さんと一緒なら楽しく働けそうですね」
「看板娘が一気に二人かあ。こりゃ悲鳴嶼さん、繁盛しちまうぜ」
うんうんと頷いている悲鳴嶼は喜んでいるように見えた。
「足繁く通う野郎が増えそうだな。用心棒が必要だろ」
「甘露寺に近づく不届き者は俺が全員始末していくが」
格好良いわ。甘露寺はオムライスを頬張りながら頬を染めた。しのぶが楽しげに目を細めたのに気づき笑い合う。
「お前店員じゃん。見るからに用心棒面の不死川か一見普通の冨岡かどっちが良い」
「誰が用心棒面だァ」
「冨岡など選択肢に含めるな! どう考えても用心棒など向かん。腕っ節が強いだけで不審者の選別も出来なさそうだ」
伊黒の言葉に冨岡はむ、と眉を顰めた。歯に衣着せぬ伊黒の言葉は甘露寺も少し驚いたが、年頃の男の子同士とはこういうものかもしれない。宇髄は笑っているし、不死川は興味がなさそうだ。悲鳴嶼も止める様子はなかった。
「何だその顔は。貴様忘れたとは言わせんぞ。球技大会のドッジボールで敵味方の区別もせず当てまくっていただろう。クラスの男子が痛いと嘆いていた。自分は早々に当たっておいてだ。貴様少しは避けることを覚えろ」
「おいおい、途中で論点ずれてるぞ」
「こいつ最初に当ててやったのに外野からめっちゃ狙ってきたんだよなァ」
気になって話を聞いていたのだが、想像するだけでも甘露寺は笑いそうだった。黙っていた冨岡へ視線が集まっている。しのぶも甘露寺同様に食べる手を止めて背後のテーブル席を振り向いていた。
「……ドッジボールは、外野から当てたら中に戻れる」
「誰もルールなど聞いてないが」
「見境なくボールを投げんなって言ってんだろォ」
「不死川に当てる為だ。少々力が入りすぎていたかも知れないが」
「……あー俺わかっちゃった。初っ端当てられたの悔しかったんだな」
力を込めすぎてボールのコントロールが出来なかったということだろう、と宇髄が口にした。そして天井を仰いであの二人のせいだ、と心底げんなりした様子で嘆いた。良くわからずしのぶを見ると俯いて震えている。どうやら笑いを堪えているようだった。
「冨岡の保護者が同じクラスなせいで、宇髄にも翻訳可能になっちまったかァ」
「……錆兎と真菰のことか? 二人は保護者じゃない。友達だ」
「貴様もう喋るな」
「それで、どっちが勝ったのかしら?」
あまりに気になって甘露寺は口を挟んだ。しのぶは深呼吸をして落ち着こうとしているが、可笑しさで口元が緩んでいる。
「あん時は……うちのクラスだったな。冨岡と俺。クラスに凄えすばしっこい奴がいて、不死川も冨岡も当たんなかったんだよな」
「へえ。じゃあ冨岡さんと宇髄さんのクラスが優勝ですか?」
「いや」
しのぶの疑問を冨岡は否定して、宇髄もまた溜息を吐きながら首を振った。結局別のクラスが優勝を攫っていったらしい。
「煉獄のクラスだったか。まあ煉獄なら妥当だろう」
「あっちにも避けるのが上手い奴いたしなァ」
「そうそう、あの地味な奴。妙にドッジで生き残りやがる」
「村田だ」
兎にも角にも、白熱した球技大会だったようだ。話に聞くだけでも楽しい。きっと普段も賑やかで飽きない学校生活であることが予想できた。
「楽しい人たちね、しのぶちゃん」
「そうですね」
しのぶの想い人との予期していなかった接点は、甘露寺が今後に期待を膨らませるには充分なものだった。