翌日の浮ついた心

「胡蝶さん、めっちゃぼーっとしてるね。珍しい」
「ていうか物憂げ。すっごいエロい。最高」
「きっも。でも美しいわ」
 アオイが出勤して部署のフロアに入った時、先輩である男女の社員がひっそりと話していた。
 朝からエロいだの何だのと眉を顰めたが、胡蝶へ目をやると確かにぼんやりとしている。時折溜息を吐いては目を瞑り、頬杖をついて窓の外を眺めていた。成程、物憂げとは確かに。何かあったことは明白だが、何があったのかはアオイにはわからなかった。
「おはようございます」
「……あ、おはようアオイ」
 すでに胡蝶とは下の名前で呼び合うほど仲を深めていたが、社員の下の名前までは皆知らないだろうからと呼び合うのは二人の時だけだった。これが男女だったなら仲を疑われることもあるのだろうが、アオイは女性であるし胡蝶も女性だ。特に妙な目で見られることもなく、仲が良いと部署内では微笑ましく見られていることは知っている。
「何だかぼんやりされてますが、何かありましたか? 昨日付き合わせてしまったので疲れてしまったとか」
「昨日……いえいえ、違うわよ。イタリアン美味しかったし、楽しかったもの。何でもないわ」
 ほんの少しだけ照れたような笑みを見せた胡蝶にアオイは首を傾げたが、本人が何でもないと言うのだからそれ以上問いかけることはしなかった。アオイとの食事が原因ではないのなら、その前か帰ったあとのことだろう。そこまで詳しく聞く気にはなれず、納得してアオイは始業の準備を始めた。
 ふと隣を見ると人差し指に絆創膏が貼ってあることに気がついた。
「指、どうかしたんですか?」
「……ああ、これ。包丁で切っちゃって」
「しのぶ先輩がですか? 珍しいですね。それとも意外としたりするんでしょうか」
「いや、いやいや。初めてよあんなの……」
「ですよね、今まで怪我してることなかったですし」
 曖昧に笑みを見せたあと胡蝶はまた溜息を吐いた。
 弘法も筆の誤りというし、たまには胡蝶にも失敗することはあるのだろう。アオイだって皿を落として割ってしまったり、卵焼きを焦がしたりもする。胡蝶ならば失敗の頻度などアオイよりも少ないだろうし、指を切ったのも初めてというし、驚いたのではないだろうか。
「そういえばホームパーティーのこと、いつ頃になるんでしょう。冨岡さんの部署は繁忙期いつ終わるんでしょうね」
「冨岡さんの……そうね、一度聞いて……いえ、宇髄さんに聞きましょうか。知ってるかもしれないし、本人に聞くのは邪魔になるかもしれないし」
 昼に食堂へ行けばいるかもしれないが、残業続きだというのだから昼間も食事を惜しんで仕事をしているのかもしれない。竈門ならいるかもしれないけれど、昨日のように少し落ち込んでいるかもしれない。見かければ声をかけて話を聞くのも良いだろう。今日アオイは弁当を持ってきておらず、食堂に行くことになるだろうから。

「あれ、胡蝶さんに神崎さん。珍しいな、食堂」
「はい、たまには良いかと」
 昨日は夕飯を食べて帰ったし、少し寝坊して弁当を作る暇がなかったというのは内緒だが、食堂のビュッフェも美味しいのだからたまには食べたくなるのも本音だ。胡蝶は今日も弁当を持ってきているのだが、アオイに付き合って券売機までついてきてくれた。
 券売機の前に立っていたのは村田で、昼休憩が至福だと息を吐いている。繁忙期が早く終わってほしいと呟いて肩を落とした。
「大体いつごろまで繁忙期なんでしょうか」
「んー、去年も三ヶ月は忙しかったけど、まあ最後のほうは良心的な残業時間だったよ」
 本当だろうか。ともあれ忙しくなってからひと月ほどになるので、少なくとも残り二ヶ月はかかるらしい。長い二ヶ月なのだろうなとアオイは労いの言葉をかけた。
 まあ、二ヶ月もあればホームパーティーをするなら充分な期間である。彼らを労うためと宇髄の結婚祝い。この理由では宇髄の奥方に手伝ってもらうわけにはいかないが、新居のキッチンを見知らぬ人間に触られるのは大丈夫なのだろうかと少し考えた。そのあたり宇髄に聞けば何とかなるだろうか。
「今年は冨岡さんも戻って来てるし、全然ましだな。その分あいつの仕事量がえぐいけど」
「そうなんですか……」
 大丈夫なのだろうか。ひとり暮らしだと聞いたし忙殺されて死んでいたりしないか。頑丈だし大丈夫だと村田はアオイたちには軽く笑うが、やはり気にはなっているのだろう。ああ、こういうところを知っていて宇髄が世話を焼こうと女性を紹介しようとしていたのかもしれない。あれは一体どうなったのだろうか。
 あの日は胡蝶の様子も妙だったし、やはり冨岡と何かある気がするのだが、アオイが直接聞いて教えてくれるかはわからなかった。
「お、冨岡さーん。ひと休み?」
 食堂で人も多いからと村田は冨岡に敬称をつけて呼び、入り口から入ってきた冨岡はアオイたちのそばまで寄ってきた。顔を見渡して村田へと視線を戻す。その口には棒つきのキャンディが挟まれていた。
「ペロペロキャンディて……何で? 昼飯前だし……似合わねえな!」
「煉獄がくれた。部署に置いてある」
「おお、あとでお礼言わないと。お前差し入れに手つけるの珍しいな」
「煉獄だぞ。口に突っ込んでくる」
 ああ、と冨岡と他部署の煉獄とのやり取りを知っているのか、村田は思い浮かべるように天井を仰いで苦笑いを漏らした。長期出張に行っていた煉獄という人物の顔をアオイは知らないが、お帰り会しなきゃなあ、と村田が言うのでまた飲み会でもあるのかもしれない。
 村田が冨岡へ食事を摂るのかと問いかけると、カップ麺の自販機を指してすぐ戻ると口にした。
「竈門の差し入れも食えよ。お前の金なんだし、あとはお前の分だけだぞ」
「ああ……パンがあったな」
 何やらパン屋で買ってきたパンが大量の差し入れの中に入っていたらしいのだが、これが美味いのだと村田が目を輝かせた。店の場所を聞いてそのうち買いに行くつもりのようだ。竈門の話で何となく感じていたが、やはり経費申請をするつもりはなさそうに見えた。竈門に気を遣わせないための方便だったのだろうか。
「飯買いに来たのに無駄骨だったな。まあ気分転換にはなったか」
「ああ」
 手に持っていたらしい二つの棒つきキャンディをアオイと胡蝶へ差し出し、貰い物の残りだと呟くので、とりあえず胡蝶と二人礼を告げてキャンディを受け取ると、ふと冨岡が目元を緩めたように見えてアオイは目を瞬いた。戻ると一言口にして冨岡は自販機でコーヒーを買い、食堂を出ていった。
「何か今日機嫌良いんだよな」
「そうなんですか?」
「うん。繁忙期は眉間に皺刻まれてるのがデフォだけど今日はないし、よく喋る」
 あれでよく喋ると言われる冨岡が、普段どれだけ喋らないのかと不思議に思ってしまった。飲みの席での冨岡しか知らないが、歓迎会の時ですら割と喋っていたらしいし、部署内での冨岡がどれほど無口なのかは想像するしかないのだが。
「まあ昨日早めに帰ってたし、元気になったみたいだな。それとも良いことあったのかもなあ、煉獄さんも帰ってきたし」
 煉獄とも仲が良いと村田が教えてくれ、アオイは成程と相槌を打った。ふと喋らなくなっていた胡蝶へ目を向けると、棒つきキャンディを両手で恭しく持ちながら、ほんの少しだけ照れたような微笑ましいような笑みを浮かべていた。
「しのぶ先輩、」
「あ、アオイ並ぶの? そしたら私レンジで温めてきます」
「はい、わかりました」
 券売機から胡蝶と別れ、村田とともにビュッフェの並ぶカウンターの列へと並んだ。トレーを手に取りながらプレートの上に昼食を取り分けていく。沈黙を破ったのは村田だった。
「……あのさ。やっぱり、……あの二人ってそうなの? 何かあるとは思ってたけど」
「……わかりません。片想いのようなそうでないような」
 全くもって接点などないはずなのに、妙にお似合いにも見えてアオイは困惑した。胡蝶の横顔がまるで恋をしているとでも宣言しているような表情にも見えて、機嫌の良さも元気だというのも、緩んだように見えた冨岡の目が胡蝶と顔を合わせたからなのではないかと思えて、もしかして片想いではないのかもしれないと考えていた。
「確かめたいけど、……言うかなあ……」
「ううん……どうなんでしょうか」
 隠しそうな気もするし、意外と話してくれるかもしれないし、はたまたまだ付き合っていないのかもしれない。いまいちどれが真実なのか、それとも本当に何もないのか。全くわからずアオイは唸った。

*

 まるで思春期のような浮つき具合にしのぶ自身困惑していた。
 それなりに恋もして男性だろうとあしらうこともできていたしのぶが、冨岡を相手にすると妙に乙女な反応をしてしまった。恥ずかしさに悶えるなど何年ぶりだろうか。持って帰ってきた棒つきキャンディを眺めながら、社内で顔を見ることができたことに喜んでもいた。
 機嫌が良いとか元気だとか、きっと朝の出来事のせいもあるのだろうと思いながら、朝からしのぶも回想に耽ってしまっていたことを反省しつつまた思い出してしまう。
 キスをしたあと用意していた夕飯を食べてもらい、ひと息ついたところで部屋の奥に置いてあったソファでぼんやりと並んで座っていた。このあとどうしよう、どうするつもりなのかと冨岡の顔を見上げると、疲れた横顔が視界に入って少し心配になり背を擦った。
「寝たほうが良いのでは? お疲れでしょうし」
「うん……」
 妙に幼さを醸し出す返事をして冨岡はまた溜息を吐き、せっかく早めに帰れたのだからとしのぶは睡眠を邪魔せず部屋に戻るつもりだった。黙り込んだ冨岡の体が段々しのぶに凭れかかり、驚いたしのぶの体が緊張した。
 こんなに疲れているのに、まさか今、このままするつもりなのか。しのぶだって風呂も入っていないし歯磨きもしていない。何なら帰ってきたそのままの格好なのに、というか気持ちを伝えてその日にキスはともかく最後までって早すぎないか。狼狽えていると支えきれなかった体がしのぶごとソファに倒れ込み、しのぶは目を瞑ってその次の行動を待った。
 重なるようにしのぶに体重をかけてくる冨岡が動かず、不審に思いしのぶはそっと目を開けた。胸の上にある冨岡の頭が見え、静かな部屋にこれまた静かな息が聞こえる。眉を顰めてしのぶは胸の上の冨岡を覗き込むと、すやすやと小さく寝息を立てて目を閉じている顔が視界に映った。
 寝ている。何とまあ気持ち良さそうに寝ている。
「嘘でしょ……」
 覚悟を決めて目を瞑ったのに肩透かしを食らった。いや早いとも思うので良かったのだが、こんなに突然寝るとは思わなかった。ソファに座った時点でだいぶ眠そうに瞬いていた気もして、しのぶは溜息を吐いて冨岡の髪を手で梳いた。
「……お疲れ様です」
 疲れているのは帰ってきた時点でわかっていたし、久しぶりに早めに帰ってきたのだし。初めて見た全く見飽きない寝顔を眺めながら、身動きが取れるようになるまでしのぶはそのまま枕になることを決めた。
 しのぶが気づいた時には朝日が部屋に差していて、鳥の囀りに目が覚めた。枕として胸を冨岡に貸したままの状態で朝まで眠ってしまったらしい。
 びっくりした。叫びそうになったけれど昨夜のことを思い出し、しのぶはとりあえず落ち着いて冨岡の顔を覗き込んだ。相変わらず安らかに眠っている。無駄に分厚い睫毛を眺めながら、起きてくれないと動けないことに気づいてしのぶはどうしようかと悩んだ。
 気持ち良さそうに眠っているから起こすのは忍びない。何時だろうかとスマートフォンを探すが、ソファから少々遠く手が届かなかった。
 困りながらも冨岡の寝顔を眺めていると、睫毛が震えてぼんやりと瞼が持ち上がった。何度か瞬いて手がもぞもぞと動き、調べるような手つきがしのぶの体に触れた。びくりとしたのに驚いたのか、冨岡が頭を上げるとしのぶと目が合った。
「おはようございます」
「………、おはよう」
 驚いた顔が普段より幼く、寝起きだからだろうかと少々物珍しげに顔を眺めた。体を起こしてようやくしのぶも解放され、凝り固まった肩をまわして息を吐いた。
「すまない、拘束してた。久しぶりに……」
「いえ……何ですか?」
「……顔を見たから」
 顔を見たから拘束とは。思いきり睡魔に負けて寝ていただけだと思うが、心臓が締めつけられるようにときめいて、妙に恥ずかしくなり頬を染めて顔を歪めた。
 しのぶに会いたかったのか。わかる、理解しかない。しのぶだって顔を見て嬉しかったのだし、そう思ってくれているならもっと嬉しい。しかし。
 口下手のくせに天然だからか、しのぶの心臓を容赦なく抉り取ろうとしてくる。朝からそういうことはやめてほしいのだが。
「えっと、朝ごはん食べます? 作りますよ」
 スマートフォンを確認するとまだ早朝の時間である。冨岡は早くに出るのだろうが、しのぶの通勤時間は遅めなので時間は充分ある。シャワーを浴びてご飯を食べて準備して、それを加味しても冨岡の朝食を作るくらいは余裕があった。
「世話は受けない。早く戻れ」
 これだ。天然を発揮したかと思いきや今度は口下手を発揮してくる。冷たく聞こえる言い方にしのぶは唇を尖らせて睨みつけ、まあ食事の用意は元々夕飯のみの約束だからと頷くことにした。
「じゃあ……今日は早く帰るのは無理そうですよね」
「ああ」
「わかりました。会社に泊まる時はまた教えてください」
 玄関先で声をかけるために振り向くと、ぼんやりした冨岡の手がしのぶの髪を撫で、頬へと触れた。来る、と感じたしのぶが目を瞑ると、昨夜の唇に触れた感触がまた訪れて離れていった。
「……そういうの、起きた直後にしないんですね」
「……いや、寝起きは、びっくりして」
 顔を歪めて目を逸らした冨岡が照れていることに気づき、しのぶもつられるように頬を染めて照れてしまった。ほんの少しだけ口角を上げた冨岡に見送られて扉を開け、しのぶの部屋へとようやく戻った。
 何よあれ。何なのよあの空気は、朝っぱらから。
 唇に指を這わせ、ふと人差し指に貼られた絆創膏が視界に入った。きっかけになった出来事まで思い出してしまい、堪えきれずしのぶは朝から顔を真っ赤にした。
 そんなことをしていたからか、会社に来てからもしのぶは早く帰りたくて仕方なかった。別に帰っても冨岡はいないが、一人で悶える時間が欲しかったのだ。現在一人で悶えに悶えているので望んだ時間はできていたのだが、ふと我に返ると少々情けなくもなる。
 思春期の中学生じゃあるまいし、何故ここまで恥ずかしさが込み上げるのだろう。相手も立派な成人男性、何なら出世街道を邁進している人間だ。
 肉食系女子に狩られる前に捕まえられて良かったとは思うけれど、そんなことを思う思春期はどこにもいないはずで、やっぱりしのぶは成人している大人である。頬を染めて照れてとしているのがおかしい気がする。
 まあ別に、嫌な気分ではないけれど。むしろちょっと楽しくも感じるこの回想時間は、悪くないとは思っている。欲をいうならば早く繁忙期が終わらないだろうかと思っているけれど。