繁忙期と疲労とチャンス

「竈門、お前は帰れ」
 ひと段落したのを見計らったのか、上司である冨岡が炭治郎に声をかけた。
 時刻は夜九時、繁忙期に入ると定時で帰ることはできず、また新人である炭治郎に手助けできることも限られ、いても迷惑になることはわかっているし、だが迷惑だからと冨岡が言ったわけではないことも理解していた。しかし申し訳なさそうな顔をすると、見かねた村田が未成年だし危ないからと付け足し、他の面々も頷いてデスクに齧りつきながら帰らせようとする。そういう光景が繁忙期に入ってから毎日のようにあった。
「明日もやることあるしな。あとは年長者に任せろって」
「はい、でも……皆さんは何時までいるんですか?」
「んー……まあ、日付が変わる頃にはな。面倒だから俺は仮眠室で寝るけど」
 もしかしたら終電に間に合わない可能性もあるのだろう。もしくはそれも炭治郎を帰らせる口実で、ずっと仕事をやり続けるのかもしれない。泊まり込みはあまりしてほしくないらしい冨岡は村田の言葉に少し顔を顰めたが、面倒だと口にしたことで無理に帰れとも言えないのかもしれない。
 冨岡の涼しげな顔にくっきりと残るくまに炭治郎は何ともいえない気分になったが、迷惑をかけるわけにもいかず了承して荷物を纏め始めた。
「何か差し入れとかいりませんか?」
「そこまで気にするなって。お前も疲れてるだろうし、また明日な」
 手を振られてはもう出ていくしかない。頭を下げて炭治郎は扉を開け、廊下へと出た。
 九時。今からではスーパーも開いておらず、寄るのはコンビニくらいになるだろう。明日の朝差し入れを配って元気を出してもらいたい。もしくは家でおにぎりでも作って持っていくか。甘い物が良いだろうかと悩みながら歩いていると、炭治郎を呼び止める声が聞こえた。
「冨岡さん。何か手伝えることがありますか?」
「余計な気を遣おうとするな」
 差し入れの話をしたからか、冨岡が何やら眉を顰めて話しかけてきた。う、と黙り込むと少し考え込むように冨岡も黙り、ポケットから財布を取り出した。
「何か渡したいのなら買ってこい。中身は任せる」
 財布から抜き出した紙幣を差し出され、炭治郎は慌てて断ろうとした。新人で未成年の炭治郎に出させるわけにもいかないらしく、顔を立てろと冨岡が呟いた。そんなこと初めて言われたが。
「直行してどこか買いに行ってから来い。予定は書いておく」
「でも……」
「仕事だ。経費で落とすから領収書。釣りは……好きにしろ」
 菓子折りでも買って差し入れるのが明日の炭治郎の仕事内容に含まれるらしい。仕事と言われると従うしかなく、経費という言葉に安堵したものの、釣りの行方にまた慌てた。手間賃ということらしい。
「本当に経費で落とすんですよね?」
「申請は出す」
「どこにですか?」
「……経理以外にあるか」
 明日以降冨岡の申請したものにきちんとこの差し入れがあるかどうかを確認しておかなければならない。眉を顰めた冨岡にはこんな時間を過ごさせることも申し訳なく、礼を告げて退社した。
 経費の申請は内容によっては経理から突っぱねられることもあるらしいが、戻ってきた申請書を冨岡が握り潰す可能性もあった。冨岡はたまにこういうことをするのだと村田も言っていたし、繁忙期だけの労いだとも言っていたが。
 有難いけれど申し訳ない。できるだけ釣りが出ないよう考えて買わなければ。何が良いかと考えながら歩道を歩いていると、また呼び止められて炭治郎は振り向いた。
「胡蝶さん、神崎さん」
「お疲れ様です。お帰りですか?」
「はい、俺だけ。新人の未成年だからだそうです」
 少し困ったような笑みを見せた胡蝶と神崎に笑みを返すと、二人は夕飯を食べに行っていたのだと口にした。近くに新しくできたイタリアンがあり、美味しいと同僚が言っていたので食べてきたのだそうだ。イタリアンでは差し入れにはならないが、繁忙期が終われば皆を誘って行くのも良いかもしれない。
「お疲れですね。どうしました?」
「ああ、いえ。冨岡さんから仕事を頼まれて」
「あら、それはそれは。難しいんですか?」
 難しいことではない。炭治郎の感性で選んだ差し入れを買いにいくだけの簡単な仕事だ。それが仕事になるのかといえばそうではない気がするのだが、上司が言うのだから仕事としておかねばならない。
「皆さんの差し入れを明日買って会社に来いと言われまして。お金も」
「差し入れですか」
 釣りは好きにしろと言われたこと、領収書を貰ってこいとは言ったものの、冨岡は本当に経費申請するのか怪しいこと、新人なので仕方ないのかもしれないが、あまり役に立てていないので申し訳ないことを少し相談のように口にした。
「冨岡さんてそんな人だったんですね。知りませんでした」
 神崎の言葉に炭治郎は頷き、わかりにくいけれど優しい人だと口にした。
 言葉は確かに足りないし、何を考えているのかもわからないことがある。しかし気遣われていることはわかるし村田も良い奴だと笑うのだ。部署内では冨岡を悪く言う者はおらず、理解者がまた増えたと炭治郎を見て笑っていた。まあ理解者は部署と宇髄のような冨岡の友人くらいで、他からは割と怖がられたり妬まれたり文句を言われたりとしてはいるらしい。優しい人なのにそれを知らないなど勿体ない話だ。
「仕方ない人ですねえ」
 ぽつりと呟いた胡蝶の言葉に炭治郎と神崎は目を瞬いた。
 胡蝶の声音が呆れと微笑ましさが混じっているような気がして、何というのか、言葉どおりではない思惑も含まれているように思えたのだ。
「胡蝶さんてやっぱり冨岡さんと仲良いんですね。どこだと色々話してくれるのかな。休憩室とかですか?」
「えっ。あ、ええと……そうですね、休憩室かも」
 訝しげな神崎の目が胡蝶へと向けられたが、胡蝶は何やら慌てたように言葉を濁そうとしていた。かもと言うのだから二人が話すのは休憩室だけではないのだろう。しかしどこにいても社内で二人一緒にいるところを見かけるようなことはなかった気がするが。
「ええと! 繁忙期過ぎたらまた村田さんと冨岡さんも呼んで、飲みに行くのはどうでしょう。宇髄さんの結婚祝いも必要でしょうし、竈門くんたちも労うというのは」
「あ、そうですね! 村田さんが部署で打ち上げするって言ってましたし、それとは別に行きましょう! 俺二人に聞いておきます」
「ホームパーティーみたいなことをしたいと言ってたんですが、良ければ宇髄さんのお祝いにやるのはどうでしょう」
 神崎が口にしたホームパーティーは、胡蝶とも話していたらしい。家で料理を振る舞って楽しむというものだ。持ち寄ってする場合もあるらしいが、胡蝶と神崎が作って食べてもらうのも良いだろうと話をしていたらしい。胡蝶お墨付きの神崎の手料理は美味しいらしく、皆きっと喜ぶだろうと笑った。神崎は恐縮したように縮こまっていたが。
「良いですね、楽しみです! 村田さんは手料理に飢えてるらしいですし、冨岡さんもひとり暮らしですから、神崎さんの料理喜ぶと思います! ……胡蝶さん?」
 何かに気づいたように笑みを消して固まった胡蝶に声をかけると、いつもの笑顔が炭治郎へと向けられ何でもないと口にした。少し心配になったものの、本人が大丈夫と言ってそれ以上は口を噤むので、炭治郎も無理には聞き出せなかった。

*

 すでに何度も入っている家主不在の冨岡の部屋で、しのぶは溜息を吐きながら鍋をテーブルに置いた。
 繁忙期が始まると本当に顔を合わせなくなった。それはまあ事前にわかっていたし仕方ないことで、正直心中がしっちゃかめっちゃかになっていたしのぶとしては有難かった。顔を合わせない間に心の整理をつけて自覚して、いつ言おうかどうしようかと困ったように眉尻を下げる。大抵その一連の流れを料理を持ってきた時にやり、誰も見ていないのに一人で顔を赤くしては去っていくのを繰り返していた。
 白米を炊いておき、主菜のおかずは皿に盛り付けてラップをしておく。副菜は元々キッチンを借りて簡単なものを作っていたので今もそうしており、帰ってこない時はスマートフォンに短いメッセージがあるので、その時以外は基本的に用意していた。
 一度そこまでしなくて良いとメッセージをもらったのだが、容器に詰めるより洗い物が少なく済むと言えば何も言わなくなった。だからしのぶはそのままテーブルに皿を並べてラップをして、電子レンジを使うのも疲れているかもしれないと、冷めても不味くないようなものを作るようにした。
 どうせ帰ってきても日付が変わる頃なのだし、今日のように神崎と夕飯を食べてからでも間に合うのだ。
 溜息をもう一度吐き出した。
 神崎の料理が美味しいと知ってから、いつか持ち寄って宅飲みでも何でもしようということは以前から話していた。快諾した神崎がいつするのかとそわそわする様子は可愛くて、しのぶとしても楽しみにしていたのだ。
 竈門や宇髄と飲みに行った次の日は楽しかったと言っていたし、神崎は彼らと飲むのは嫌ではないようだった。冨岡の部署の繁忙期が始まり、労いたいと口にした神崎の世話焼きな性分が刺激されたのだろうと微笑ましくなり、だったらホームパーティーのようなものを開こうかと提案したのだ。しのぶの部屋は単身者用だし、神崎は実家なので場所がないと笑ったが、どうやら宇髄の新居が割と広いらしいと聞き、それならうちでやれと快く場所を貸してくれることになった。だからたまたま顔を合わせたとはいえ竈門に声をかけたのだ。
 ——冨岡さんもひとり暮らしですから、神崎さんの料理喜ぶと思います!
 邪気のないその言葉が、これほど胸を攻撃してくるとは思わなかった。
 神崎の料理なんて食べたら、ちょろい冨岡の胃袋が鷲掴みにされてしまうのではないだろうか。というかその未来しか見えない。
 神崎の料理は本当に美味しく、しのぶの料理と比べられたら耐え切れない自信がある。それはちょっと、かなり、絶対に嫌だ。美味しい神崎の料理を冨岡には食べてほしくない。驚くほど強く感じたのだ。
 仲の良い後輩にそんな気持ちを抱くなんて。料理上手が羨ましくて堪らないなんて思ったことがなかった。しのぶはそれほど料理下手というわけではないと自負しているし、何より冨岡が美味しいと言うのだからそれで満足していたのだ。手料理を振る舞う機会など、そうそうありはしないのだし。
 三度目の溜息を吐いて副菜を作ろうと包丁を取り出した時、玄関先から音が聞こえた。ぎくりとして不審者かと思ったものの、現れたのは久しぶりに見る冨岡だった。珍しく日付が変わる前に帰ってこられたらしい。
「……いたのか」
「おかえりなさい。もっと遅いのかと思ってましたから準備が途中で」
「そうか」
 久しぶりの会話にしのぶはもっと慌てるかと思ったが、意外と冷静に話ができていた。疲れきっているからか挨拶も忘れているようだが、目の下のくまがわかりやすくできている。やつれたようにも見えるのは見間違いではないと思うが、繁忙期は本当に大変なようだ。確かにここまで疲れるのなら竈門は早く帰してあげなければ可哀想だ。
「竈門くんに会いましたよ、冨岡さんから仕事を頼まれたと」
「竈門……そうか」
「まだ先ですけど繁忙期が終わったら、飲みに行くとか、宇髄さんのお祝いをするとか、色々話してたんです」
 ホームパーティーのことを伝える気にはなれず、しのぶは避けて話をした。神崎に対する引け目なのか後ろめたさなのか、とにかく注意が散漫になっていたことは認める。まさか包丁で指を切るなんて初歩的なミスを犯したことは、後にも先にもこの時だけだった。
「痛っ……」
「何をしてる」
 まな板の上に包丁が落ち、人差し指から血が滴った。目を丸くした冨岡がこちらへ近づいてきてしのぶの怪我をした左手を掴んだ。
「ちょっと考え事、して、………」
 冨岡の手がそのまましのぶの左手を口元へと持っていき、血の滴る箇所を咥内へと含んだ。
 しのぶの思考は止まり、目を見開いて冨岡の顔を見ることしかできず、指に伝わる舌の感触に背筋が震える感覚がした。
「とみ、おかさん」
 止血でもするように切った指を強く締め、何度か血を吸い出そうとしては舐めるという行動を続けられた。いや、続けられても困るのだが、しのぶはどうしていいかわからず小さな声で呼ぶことしかできなかった。
 ふと瞬きをした冨岡が動きを止め、薄っすら血のついた唇から指を離した。真っ赤なしのぶの顔へと目を向け、その瞬間冨岡の頬が赤く色づいていくのを目の当たりにした。慌てたようにシンクから水を出して指を洗い流し始め、しのぶはなすがままでどうすることもできずにいた。
「………、すまない、癖で……」
「いえ……」
 疲れて寝惚けてでもいたのか、普段手が触れるようなこともなかったのに、よくわからない言い訳をした冨岡は頬を赤くして眉間に皺を寄せていた。照れているのか、と考えると同時にしのぶの顔も更に熱を持った。
「……姉が、昔から割とそそっかしかった。誰にもしたことはなかったんだが。すまない」
 姉弟の幼少からの慣れ親しんだ行動が寝惚けて出てしまったのだろうか。
 姉がいたのかとか、そんな癖を無意識に出すなとか、今まで良く出さずに済んでいたとか、色々と言いたいことも思うこともあるが、もう血は止まったようで大丈夫そうなのに手を離してくれないことに意識を持っていかれ、しのぶは唇を噛み締めた。心臓が痛いほど主張して、耳まで熱くなってきていた。
「いえ、本当に。大丈夫ですから。ちょっと、びっくりしましたけど」
 水を止めて手にタオルを巻くのをぼんやり眺めたあと真っ赤になっているだろう顔を上げると、冨岡の唇に滲んだ血が見えた。
 ついている、と無意識に唇に指を這わせようとすると、冨岡の片方の手がそれを掴んで止めた。両手を掴まれて顔を隠すこともできない状態で、しのぶは冨岡と向かい合った。
 いやもう、これはそういう雰囲気になっても仕方ないと思うのだ。何で指を切ってそうなるのかなどしのぶだって知らないけれど、近づいてくる涼しげな顔を見て瞼を閉じようと狭まる視界も、全部流れに任せた結果だった。
 スマートフォンの振動で思いきり阻害されてしまったのだが。
 互いに大きく肩を震わせ、しのぶは真っ赤な頬に両手を当てて身悶えたし、冨岡は慌てたようにスマートフォンを手に取って何の通知かを確認していた。どうやら急ぎのものではなかったようで、不機嫌そうな顔のあとかぶりを振って額を押さえた。
 冨岡は上司だ。しかもハラスメントを気にする上司である。このままではなかったことにされる。気の迷いだと一蹴されるのが目に見えて、しのぶはつい冨岡の服の裾を引っ張った。
「……神崎さんと、料理を作ってホームパーティーみたいなものをしようかと話してて。宇髄さんの結婚祝いとか、繁忙期が過ぎたら」
 しのぶの話がどこに向かうのかわからないのか、冨岡は不思議そうな顔を背後のしのぶに向けたものの黙って聞くことにしたようだった。話を続けながら冨岡の背中にぴたりと寄り添うと、少しばかりぎこちない動きをして冨岡は固まった。
「神崎さんの料理、凄く美味しいんです。いつもお弁当のおかずを交換して……隠し味とか聞いても再現できなくて」
 広い。広くて案外しっかり筋肉のついている背中から抱き着くために腕を伸ばした。
 しのぶとしてもこのままでは終われない。冨岡を好きになって何にも困ることなんてないのだ。問題はただ一つ、冨岡に他意がないことだった。
 ただの料理番としてしか見られていないのに、告白したところで軽く一蹴されるだけだ。今がチャンスであることはしのぶにもわかる。というより、今しかチャンスがない。冨岡は上司で、きっと二年目の小娘に言い寄ることはしないだろうから。
 関係を変えるには今しかない。だから恥を忍んで伝えることにしたのだ。
「本当に美味しいから、……彼女の料理、食べてほしくなくて。……私の料理だけ、食べてほしいんです。他の人の手料理を食べないでください。比べないで、私の料理だけ」
「……比べる?」
 疑問が冨岡から飛び出し、しのぶはまた少し唇を噛んだ。酔ってもいないのだから素面で聞き返されると恥ずかしいのだが、言い始めたのだから仕方ない。
「美味しいんです、本当に。冨岡さんの胃袋なんて簡単に鷲掴みにされちゃいますから。私じゃ彼女には、」
「胡蝶の料理が良い」
 腕を掴んで引き離され、冨岡はしのぶを振り向いて呟いた。
 料理限定。いやまあ料理の話を出したのはしのぶだし、それは仕方ないのだろう。知らない間に胃袋を掴んで、その後も離すことなく掴み続けてきたのだろうし。だから神崎の料理を食べてほしくないのだし。
「胡蝶が良い」
 瞬いたしのぶの目を冨岡の目が捉え、今度こそ涼しげな顔が近づいてしのぶは固まり、触れ合う感覚にキスをされたことを理解した。感触が離れた唇を引き結んでしのぶは何ともいえない気分になり、まだ赤いだろう頬に堪えながら至近距離にある顔を見つめた。
「……これはセクハラか?」
「……同意があれば大丈夫では?」
 こんな時にもハラスメントを気にする冨岡に、しのぶは思わず吹き出すように笑った。