飲み会で見た二人の関係

「あの人やばいです。ちょっと俺には理解が及ばなくて。あんなふうになれるのかなあ……」
「なれなくても竈門くんのやりやすいやり方で仕事をすれば充分だと思いますけど」
 溌剌とした竈門が溜息を吐いているのは珍しい。
 周りがちらちらと気にしている様子に気づきながらも、宇髄は無視して視線の集中する先へと足を向けた。
「よお、何凹んでんだお二人さん」
「お疲れ様です。私は凹んでませんよ」
 社内でも話題に上ることの多い胡蝶は、見た目や人当たりの良さから男性社員に憧れられることが多いようだった。以前食堂で思いきり振られた社員はそれ以来縮こまっているらしいが、宇髄が見かけた時は未だに胡蝶へと目を向けていた。あれはちょっと危険かもなあ、なんて考えながら一応注視してやってはいるのだが。
「冨岡さんが凄くて……」
「量が多いのに仕事が速くて、追いつけるのか不安なんだそうです」
「ふーん。まああいつの仕事の仕方は新人のうちは参考にならねえぞ。効率の良いやり方を聞いても慣れと気合いしか言わねえからな」
 やり続ければ速くなるし、その判断の早さも経験が培ったものだとか。言いたいことはわかるがその経験のなかで覚えたやりやすい仕事の進め方とかあるだろうに、それを言わないので冨岡にアドバイスを求めるのは間違っているのだ。それさえなければ部署内では部下や後輩には割と慕われているようだし、悪くない上司だと思う。まあ、人にやらせるのは申し訳ないからと自分で仕事を終わらせることをやめさせなければ、人材育成など冨岡には向いていないのだが。
「慣れかあ……うちの部署がそろそろ繁忙期だそうで、役に立てるのか不安です」
「あー、そういやそうだな。去年は泊まり込んでたみたいだが、冨岡戻ってきたからましになるんじゃねえか? 残業は嵩むだろうけど」
「残業……」
 呟いて考え込んだ胡蝶に目を向けたが、宇髄の視線に気づいた胡蝶は何でもないと笑みを向けた。胡蝶の部署は繁忙期が来ても泊まり込むほどの忙しさはなく、良心的な時間に帰ることができるらしい。宇髄の部署も割と繁忙期はしっちゃかめっちゃかになったりもする。やることが違うので当たり前だが、その分忙しい部署は給与やボーナスが良かったり、閑散期にリフレッシュ休暇を取るよう推奨されている。宇髄や冨岡が出世頭などといわれるのも、世間一般で花形と呼ばれる忙しい部署の所属だからだ。大して派手なこともしない上に仕事をまわすことは変わりないのだから部署に花形もくそもあるか、とは宇髄も冨岡も思っているが。
「しゃあねえ、凹んでる部下連れて飲みに行くよう言っとくかあ」
「あ、いえ! このくらいで凹んでられませんし!」
 元気があってよろしいが、空回り続けるとそれも落ち込んでしまうだろう。未成年だから酒は飲ませられないが、若かろうとやはり適度な発散は必要だ。繁忙期が始まれば飲みに行くことも難しくなるので、ついでに宇髄も参加するかと考えた。
「無理はするなよー。ま、俺も飲みに行きたいからな、あいつに女紹介してやんの忘れてたし」
「その話、皆さん食いついてましたね!」
「ん? ああ、だろうな。俺の連れは割と見た目も良いからなあ」
「女性陣が慌てて阻止したそうにしてましたけど」
 歓迎会で初めて会話したような連中に紹介するようなお人好しではないが、長年知っている冨岡相手ならば世話を焼くのも吝かではない。本人は興味なさげに澄ましているおかげで獲物を狙う女どもは手をこまねいているようだが、あちらはあちらで男とも違う面倒さを持っている。宇髄の連れである女性はハイエナのような女とは違い、落ち着きも愛嬌もある良い女だと自信を持って言える。やはり冨岡ならば世話焼きで母性の強い女が良いかと脳内で色々と考えていたおかげで、この時の胡蝶の声音が普段と僅かに違うことに気づかなかった。
「おい、今週金曜空けとけよ。竈門連れて飲みに行くから」
 スマートフォンを取り出して電話をかけ、何か用かとつまらない応対をした冨岡に言葉を告げた。何故宇髄から竈門の話が出るのかと少々不満そうな声音だったが、それなら上司である冨岡が気にかけて自発的に飯でも連れて行ってやれば良いのに。相変わらず人付き合いは苦手らしい。
「お? ああ村田も連れてくれば? 胡蝶も来るだろ?」
 スマートフォンから耳を離して胡蝶へ問いかけてやれば、驚いた後にはいと口にして頷いた。指折り数えて五人かと呟き、割と普通に冨岡と話していた神崎も呼ぶよう胡蝶に伝えた。六人ならば大丈夫だろうと思うが、これ以上多くなると冨岡が喋らなくなるからと控えることにした。
「はい、頷いたから金曜決定な。未成年でも楽しめる店選んどいてやるよ」
「あ、ありがとうございます!」
 困惑したものの竈門は気を取り直し、元気の良い礼を口にした。全く冨岡とは正反対だが、竈門は上司を尊敬しているようだし冨岡も部下を一応気にはかけているらしい。わかりやすく慕ってくる部下を無下にはしたくないらしく、案外相性が良いのかもしれない。ならもう少し声をかけてやれとも思うが、竈門本人には冨岡の不器用さは伝わっているようで、悪感情がないのが素直に凄い。
 まあ、うまくやっているのなら宇髄もわざわざ世話を焼く必要もない。一応冨岡にはアドバイスしてやることは忘れないが、放っておいても何とかやっていきそうである。

*

「あ、今日の話してねえの?」
「宇髄さんや冨岡さんと飲みに行くなんて知られたら、女性陣から袋叩きに遭いますから」
 今年入社した新入社員の神崎は、村田とは部署が違うもののよく噂には名前が挙がっていたのを知っている。
 胡蝶と同じ部署に配属され、胡蝶と仲が良い新入社員。意図せず目立つのは胡蝶本人も面倒さを感じているようだが、その隣に立つ人間も見られることを覚悟しなければならない。村田はよく冨岡と一緒に行動するので良くわかる。
 胡蝶自身も二年目とまだ社歴は浅いが、女性陣からすれば新人の神崎のほうが叩きやすいということだろう。食堂での告白事件で胡蝶の気の強さは知れ渡っていたし、直接相手にすると村田では勝てそうにない気がする。それならば立場の弱い神崎に、となるのはまあ考えられる。理解はできないが。
「どこも面倒臭えな。冨岡くらい我関せずになれねえのかね」
「冨岡くらいはやり過ぎです……」
 宇髄の言うことは理解するが、かといって冨岡ほどの無関心を装うのはちょっとどうかと思う。しかもこいつは表面上無関心っぽく見えるだけで、中身は新人の竈門をひっそりはらはらと見守っているし、手を出さないよう我慢しているのだ。全く表に出ないだけで気にはなっている。まあ、手を出そうにもどう話しかけて良いのかわからないから手をこまねいているというのが正しいが、その辺はどんな説明をしても結果無関心に見えるので大して変わりはない。
「でも俺冨岡さんや村田さんが気にかけてくれているのがわかってますから、部署にいて楽しいですし配属されて良かったと思ってます! 問題は俺がちゃんと覚えていけるかどうかが不安で」
「私もそうです。胡蝶先輩は仕事が丁寧で速くて、なかなか同じようには行かなくて」
 不安げに翳った神崎の表情に竈門が心配そうに覗き込む。仕事を覚えていくと先人の仕事ぶりと自分の至らなさを再確認したりもする。今二人はその地点にいるのだろう。皆が皆ぶち当たる壁ではあるが、そのうち抜け出せるとも思う。村田だって何とか凌いできているのだし。
「私なんてまだまだ新人の域を超えてませんし、そんなに肩肘張らなくても何とかなってますよ。どうぞ」
「ありがとう」
「……胡蝶さんは凄い仕事できるってよく聞くし、上ができる人だとプレッシャーなのは俺もよくわかるけどな」
 今日飲みに来てからずっと思っていたのだが、宇髄が必要以上に喋らず観察に徹していることに気がついた。
 村田は宇髄が何か言うことに期待していたのだが、彼も考えているのだろう。じっと向かいに座る顔を眺め、村田の隣に座る神崎も少し二人を気にしているようだった。
 何か、……何か。突っ込んで良いのか悩むのだが。胡蝶が手慣れたように冨岡へと料理を取り分け皿を置き、ビールを注ぐ様子が。冨岡がそれを当たり前のように受け入れている様子が。
 あの奢りのランチでは冨岡と胡蝶は離れた席にいたし、二人が仕事外で同じテーブルに座るのはこれが二回目で、歓迎会の時は冨岡も断っていたはずなのに、妙に距離が近い気もして村田はそわそわとしてしまった。
「ところで冨岡さんと胡蝶さんって仲が良いんですね。歓迎会は初対面だったせいか少しぎこちない感じでしたけど、今日は何だか楽しそうです」
 竈門のぶっ込んできた言葉にぴたりと動きを止めた二人が目を見合わせた。冨岡の愛想は相変わらずなく、胡蝶もいつもの柔らかな笑みを向けていたが、少しばかり困惑したようにも感じられた。え、まさか本当に何かあるのか。いつの間にそんなことになったんだ。村田か宇髄がいなければ飲み会にも行こうとしないこの冨岡が、誰が誘っても笑顔で躱していたこの胡蝶が。セクハラだパワハラだと気にしている冨岡が胡蝶を誘うとも考えられず、上司で顔が良いから、金があるからと胡蝶が靡くとも考えられず、村田は不思議でならなかった。
「……そうでもない」
「そうですよ。歓迎会でもこんなものだったかと」
 人の世話を焼くのは嫌いではないし、と胡蝶は口にしたが、村田には冨岡が控えめであることをしっかり理解しているような言葉に感じられた。
 一度そうかと疑ってしまうと、二人の言動の全てがそういった意味を含んでいるように思えてしまう。気をつけないといけないとは思うが、浮いた噂のなかった二人だからこそ気になってしまうというのもあった。しかも冨岡は村田にとっては上司だが、元同級生でもある。気になるのも当然だと誰も聞いていないのに言い訳しておいた。
「そういや紹介してやるって言ってたやつだけどな」
「……本気だったのか」
 口を開いた宇髄は以前の歓迎会で言っていた女性を紹介するという話を掘り返した。村田も興味があるのだが、如何せん村田よりも冨岡のほうが私生活において不安さを覚えるのは目に見えている。ついでにいえば宇髄は村田とは個別に仲が良いかといわれればそうではなく、こうして飲みに行くのも冨岡を混じえてばかりだった。
「そりゃな。管理職になって女の見る目があからさまに獲物を狩る目になっただろ。お前何も考えてなさそうだし、見合いよりは紹介のがまだ良いかと思ってよ」
 宇髄の知り合いならば宇髄から冨岡の人となりを教えることもできるし、全くの初対面よりはまだましだろうと言う。
 別に冨岡は性格が悪いというわけではないし、仕事もできるし優しいとも思っているが、妙に浮世離れしているというか、天然なところがあり少し心配になることがある。まあ、放っておけないと感じる部分が世話を焼かせるのだろう。
「知らん」
「知っとけ。そのうち嵌められて騙されてデキ婚する羽目になるだろ」
「ならない」
 わかりやすい言葉に神崎と竈門が頬を染め、胡蝶も少し眉根を寄せた。
 宇髄の心配していることもわかるのだが、未成年と若い女の子の前で直接的な言葉を放つのは如何なものだろうか。宇髄のような色男が言ってようやく許されるような言葉だ。
「だから騙されないように紹介してやるってんだよ。どう? 雛鶴」
「……雛鶴?」
 女性の名前らしき言葉が宇髄から紡がれ、冨岡は訝しげに眉を顰めた。村田はその雛鶴という人物を知らないが、この様子だと冨岡は面識があるのかもしれない。考え込む冨岡を見る隣の胡蝶の目が、何というかいつもと違ったように村田には見えた。
「やはり揶揄ってるのか」
「まっさかあ。良いだろ、雛鶴。お前だって好印象だったじゃん」
 注意深く窺っていた胡蝶の空気がほんの薄っすら剣呑としたような気がして、村田はやばいのではないかと感じた。もし二人が付き合っているのなら、宇髄の紹介は余計なお節介以外の何ものでもない。
 確かに社内の憧れのような胡蝶に目を奪われることもあるが、別に二人が付き合っていようと村田は邪魔するつもりはなく、むしろ良かったなあと冨岡を祝福するつもりであった。宇髄の紹介で二人が険悪になって別れるようなことがあれば、村田も凹むし宇髄にも悪い。まあ、二人が付き合っていないのならば止める必要はないのだが。
「間に合ってる」
「嘘つけ! 風呂と睡眠取りに帰るだけの生活のくせに」
「お前こそさっさと結婚しろ」
 まさかの冨岡から反撃を受けた宇髄は一瞬言葉を失ったが、すぐに気を取り直して予定を口にし始めた。どうやら結婚の予定がついこの間立ったらしく、報告された席は皆口々に祝いの言葉を宇髄へと贈った。
「それで紹介とは……」
「まあ良いだろ。俺が結婚すんだからお前もしとけ」
 村田たち四人にはよくわからないことを口にして、宇髄と冨岡の会話は一応決着がついたらしい。こちらとしてはもやもやすることばかりで気になるのだが、上司相手に聞き出せるとも思っていない。少しばかり落胆しながらも村田はグラスに口をつけた。

「神崎は竈門と同じ方面か。胡蝶は?」
「私は冨岡さんと同じ電車です」
「ふーん、危なそうなら送ってってやれよ。じゃあ気つけてな。よし帰るぞ」
 各々挨拶を交して帰路につき、村田は宇髄と同じ方角へと足を向けた。冨岡たちは同じ路線の電車を利用するので、駅までの道のりを四人で向かっていた。
「ありゃできてはねえけど何かあるな」
「やっぱそうなんですか!?」
 話をしてくれるとは思っておらず、村田は宇髄に食って掛かるほどの勢いで飛びついた。驚いた宇髄に謝りつつ離れ、でもこの男はそれをわかっていながら女性を紹介しようとしていたのかと村田は考えた。
「でも紹介するんですよね」
「雛鶴は俺の彼女だよ、もうすぐ嫁になる。あいつも知ってるからあの反応だったんだよ」
「えー……」
 何と意地の悪いことを。顔を歪めて声を漏らすと宇髄は少々罰が悪そうに眉を顰め、こちらも確認したくてやったことなのだと理由を話し始めた。
「胡蝶の反応見たくてやったんだよ」
「あー、成程……どうでした? 俺にはちょっと機嫌悪くなったかなあ、でも気のせいかもって感じだったんですけど」
「そんなもんだ。まあ多分付き合ってはねえな。けどどこで仲良くなったのかが謎だ」
 確かに。社内で同じ場所にいるところを見たことがないし、仲が良いのもどうやってと困惑したことのほうが大きかった。外で偶然出会ったとか、家が近いのを知ったとかだろうか。そういえば冨岡と同じ方面らしいし、最寄り駅が同じとかなのかもしれない。
「まあ上手く纏まれば冨岡も狩られずに済むし、胡蝶も面倒な奴を引き寄せないで済むだろうからな。纏まれば良いとは思うが冨岡だからなあ……」
「うーん。まあ、その辺はなるようになるってことで」
 セクハラもパワハラも気にする冨岡が入社二年目の胡蝶に言い寄るとは思えないが、胡蝶が積極的に動けばあるかもしれない。何とか上手くいってほしいと思いつつ、村田は宇髄と連れ立って夜の歩道を歩いていった。

*

「紹介受けるんですか?」
 もし冨岡に彼女ができれば今のように夕飯を作るなどということはできなくなるだろう。
 胡蝶は相手のいる男性に無闇矢鱈と誤解を生みそうなことはしたくないし、できる予定の彼女の恨みも買いたくはない。ランチ代は返せなくなるし、楽しんでいる食事もできなくなるのは寂しいが仕方ない。
「何で雛鶴を紹介されなければならないんだ」
「知りませんけど。宇髄さんが勧める方なんでしょう?」
 雛鶴だとか気安く呼んでいるし、面識はあるようだし、冨岡をよく知る宇髄の紹介ならば相性の良い相手なのだろう。知らぬ間に眉間に皺が寄っていることに気づき、しのぶは少し俯いて眉間に指を這わせて皺を伸ばそうとした。
「雛鶴は宇髄の彼女だ。結婚する予定がある」
「は? え、でも、だって紹介、」
「ただの冗談だ」
 酒の席だったから。宇髄の冗談は冨岡にとっては珍しいものではなく、よくあることなのだそうだ。冨岡が本気にして期待して宇髄の彼女を紹介されたらがっかりするだろうに、なかなかに鬼畜なことをする。宇髄に少々むっとしながらもしのぶは何故か安堵していた。
「はあ、そうですか……。あ、そうだ。繁忙期がもうすぐなんだって聞きました」
 気を取り直してこの間聞いたことを冨岡へ問いかけた。去年村田たちは会社に泊まり込むほどの忙しさだったらしいことを伝えると、表情を歪めて冨岡は考え込んだ。今年は帰らせなければならないとか、管理職ゆえに色々と悩むことがあるのかもしれない。
 先程まで彼女ができたらなどと気にしていたのに、すでに繁忙期の間の食事をどうするかを考えていた。考え事が一つ解決したのにまた悩むのは夕飯のことで、しのぶは何だかそればかり考えているような気がして少し苦笑いを漏らした。
「残業多くなるんでしょう? 夕飯置いておこうかと思ったんですけど、そういえば鍵がなかったなと」
「合鍵があれば良いのか」
 ぱちくりと目を瞬いて顔を上げると、しのぶを見ていた冨岡がまた考えるように空へ視線を向けて黙り込んだ。ドアノブにでも掛けておくか、しかし腐ったり変なものを仕込まれたりしないかと心配になり、あまり外には置いておきたくなかったのだ。それは確かなのだが。
「……いや、さすがにそこまでさせるのは悪い。繁忙期はもう作らなくて良い」
「あ、……いえ。作るのはどうせついでですから、食べてもらえるのなら置いておきますけど……他人が勝手に入るのが大丈夫なら……」
「……そうか。助かる」
 合鍵となると作らなければならないので、少し待っていてほしいと口にして冨岡は部屋へと入っていった。
 待つとか待たないとか、あれば良いとか駄目だとか。何か距離感が変なような、色々とすっ飛ばしているような、妙な関係になっている気がしてしのぶは困惑した。
 合鍵。合鍵とは。それは家主のいない時に家に入れるよう渡しておくもので、家族や恋人のような特別な関係内で渡すようなもので。そういう認識でいたしのぶは、冨岡が普段の澄ました様子で渡すと口にしたことに少なからず驚いた。
 いや、そうだ。冨岡に他意はない。夕飯を作らせて置いておくために渡すだけのものだ。不用心だとは思うけれど、それくらいしのぶを信用してくれているのだろう。そう、それ以上の感情はない。絶対にない。あれば女性の紹介などを素直に聞くはずがない。ただの冗談で未遂に終わったものではあるが。
 考えれば考えるほど心臓が妙な動きを見せ、しのぶは酔っているのかもしれないと早々に風呂へと向かった。
 ——間に合ってると言っていた。
 湯船に浸かっている最中、突然しのぶは思い出した。
 冨岡に彼女がいないことは最初の時点で確認していたし、宇髄が紹介しようとするのだから本当にいないのだろう。それなのに間に合っているとは。
 確かにせっせと隣人が食事をお裾分けしているのは彼女にとっては気分が悪いだろうと思うが、それならしのぶの夕飯を断れば良い。
 間に合っている。間に合っている。しのぶが夕飯を作るから間に合っているのか。しのぶがいるからなのか。思いきり水面に顔を押し付けて飛沫を上げ、しのぶは頬が別の原因で火照りを強くしていることを自覚した。
 そうじゃない。冨岡に他意はない。あればあんなに澄ました顔で合鍵の話などしないはずだ。いやそういう相手に対する顔など知らないが、いくら無愛想でも彼女相手になら表情くらい変わるはずだし。
 しかも相手は天然だし。無駄に天然なのだから、しのぶにも大した感情などないはずだ。
 ない。ないない。会社の上司、ただの隣人。ちょっと仲良くなったかと感じる程度の仲だ。優しいとか放っておけないとか、そういうのも同僚に感じるだけのものだ。そうに違いない。そうでなければ困る。
 ——何が困るの?
 湯から顔を上げたしのぶは、自問自答して固まった。
 冨岡とそういう仲に万が一なったとして、しのぶが困ることとは何だろう。女性陣からの視線が痛くなるだろうことか、男性陣から冨岡がそういう視線に晒されることか。冨岡にそんな視線を向けるのは一体誰なのかと思うが、はて、遠巻きにされることはあっても社内に冨岡を妬むような人間がいるのか。
 女性陣からの視線にしのぶは怯えたりするか。うんざりはするだろうが、意にも介さず日々を過ごせる自信がある。では他に困ることとは何か。
 ……まずい。何も思いつかなかった。
 何かあるだろうと考えれば考えるほど、交際というものであればするだろう行為の想像までしてしまい、しのぶは慌てて湯を被った。嫌悪がないとか心臓がうるさいとか、とにかくおかしい挙動が沢山出てくる。何ということだ。しのぶと冨岡がそういう仲になって困ることなど一つもなく、更にはそういう目で見ることも嫌というわけではないなんて。
「ちょっと待って……」
 明日からどんな顔をして会えば良いのか。とにかく平静を装って普段と同じようにしないといけない。まあいけないわけではないかもしれないが、冨岡の感情に他意がない以上、しのぶが意識し始めたことに気づかれるのは避けたかった。