お礼から食事係に

「冨岡さん、煮物お好きですか? 作り過ぎちゃって、お裾分けです」
 礼として料理を振る舞ってくれた翌週、胡蝶は鍋を持ったまま部屋の前に現れた。
 義勇は特に好き嫌いというものはない。実家では洋食だろうと和食だろうと出されたものは食べていたし、食べられないアレルギーというのもなかった。
 ランチの礼にと食べさせてくれた胡蝶の料理は美味しくて、義勇は驚いたままぽろりと感想を口にした。不安げに見つめていた胡蝶は安堵の息を吐いて笑みを見せていた。
 表情には出ていないようだが、義勇は非常に驚いていた。家族以外の料理を一口食べて無意識に美味しいと言葉を漏らしたのは初めてだった。調理法とか隠し味とか、そのあたりのことはさっぱりわからないが、胡蝶の作ったものが義勇の口に合い、むしろもっと食べたいと思えるくらいには美味しいのだ。
 さすがにそんな図々しいことを言葉にはしなかったが、二度目に持ってきた煮物も美味しくて完食すると、お粗末様です、と妙に弾んでいるような気のする声音で胡蝶が笑った。
 そのあとも胡蝶は時折インターホンを押して鍋を持ってくるようになった。
 二度目までは義勇もどちらかというと料理に気を取られてそこに考えを巡らせることがなかったのだが、よく考えればお裾分けだからと鍋を持ってくるのはおかしくないだろうかと思い至った。
 お裾分けというならば容器に入れて渡してくれれば良いのだが、胡蝶は義勇の部屋を訪れテーブルに持っていた鍋を置き、皿を出してほしいと言う。最初から鍋を持ってきてランチの礼だと言われたものだから、ここで食べるのかと特に考えもせず言葉にしたら胡蝶は頷いていた。だからその流れのまま義勇の部屋で食べるようになったのはまあ仕方ないとしよう。鍋からよそってそのままとんぼ帰りというのも失礼な気もするし。
 しかし、これが三度続くといくら義勇でもまずいのではないかと首を傾げた。
 胡蝶は隣人ではあるが同じ会社に勤める社員である。社内で関わりはないが、いくら顔見知りの社員だからといって男の部屋に躊躇なく入ってくるのは如何なものか。随分優しいようなので純粋に親切心で持ってきているのだろうし、天然なのか、あまりそういったことを気にしない性質なのかと義勇は考えたのだが、胡蝶の楽しそうな顔を見ているとまあ良いかとも思ってしまう。
 もし指摘して来なくなったら。何か異常に料理上手で、味覚が覚えてしまった以上、胡蝶の料理が食べられなくなるのは義勇としても勿体なかった。手料理と既製品の違いなど大して気にしたこともなかったが、人間の三大欲、食欲を増幅するような胡蝶の料理を楽しみにしているのは義勇も自覚していた。
 自炊は大変じゃないのかと聞いてみれば、料理をするのは好きなのだと言う。ひとり暮らしを始めた当初は一人分の食事を作るのが大変で、慣れる前は余らせて腐らせるようなこともあったのだそうだ。
 そうか、大変だな。やはり自炊は慣れなければ難しいのだろう。義勇は姉の料理をする後ろ姿をよく眺めていたが、自分はできるようにはなれず早々に諦めていた。就職して実家を出ると食にさほど重きを置かないようになり、惣菜やパン、何なら食べずにそのまま寝ることもあった。食べたいと思うのは久しぶりな気がする。
「いえ、こういうのは結構ですよ、ただのお裾分けですし」
「助かってるのは事実だ」
 貰い続けるのも申し訳が立たず、部署内で話していた美味しいと評判の菓子を礼として胡蝶へと手渡したが、困ったように眉を顰めて断ろうとしてきた。実際義勇が食べている分材料費はかかっているし、余分にかかった費用のお返しというだけなのだが、胡蝶はどうにも受け取りたがらなかった。初対面で飲んで帰ってきていたことを思い出し、酒も好きだろうと冷蔵庫からビールを取り出すと複雑そうな顔をしたものの、諦めたのか受け取ってくれた。
 真面目なのだろう、そこまで気にせず貰っておいてくれれば良いのだが、まあ社員とはいえただの隣人に何かを貰うのは嫌なのかもしれない。
 しかし、材料費。自分で考えて義勇は一つ案を思いついてしまった。胡蝶の親切心につけ込むようなことかもしれないが、材料費とかかる光熱費や手間代を払えば、胡蝶はまた料理を作ってくれるだろうか。
 勿論強要したいわけではなく、負担にならない範囲でお裾分けにあやかれれば良いのだが。
「神崎さんがしっかりしていて、すでに色々助けてくれるんです。さすがにまだ担当は持たせられないんですけど、気が利いてよく声をかけてくれて」
 初めてできた後輩が可愛くて仕方ないらしく、食事時には義勇に話を聞かせては神崎の良いところを口にする。元より笑みを浮かべているが、神崎の話をする時はもっと嬉しそうにも見えた。
 可愛いな。そう無意識に感じたのは後輩を可愛がる胡蝶が心底楽しそうに見えたからだが、そこまで楽しいのなら義勇も聞いてやらねばならないだろう。世話になっているし、胡蝶の顔を見て話を聞くのは義勇も楽しく思う。もっと見ていたいと思うのもおかしくないことだろうと思う。
 もしまた次に鍋を持ってくるようなことがあれば。
 費用の提案だけでもしてみても良いかもしれない。手間をかけるのは申し訳ないし、断られたら食事などもうできないだろうが、そうなれば仕方ないと諦めるしかないだろう。
 まあ、味を知ってしまった舌が諦められるかはわからないのだが。

*

「頼みがある」
 多めに作ったシチューをお裾分けとして持っていき、何となく定例となってしまった冨岡の部屋での食事会で、しのぶは目を瞬いて目の前の顔を見た。
 大人数でのランチでは参加者が冨岡へ感謝してその日は無事終了した。しのぶを誘った男性社員とはさほど話をすることもなく、その後は部署も違うので顔を合わせて話すということもなかった。安堵したしのぶはランチの礼として冨岡に手料理を振る舞ったがこれも無事美味しいという言葉を引き出すことに成功し、日を空けて何度か作りすぎたと言い訳をしながら材料費でランチ代をひっそり返そうとしているところだった。今回で四度目、冨岡の差し出す菓子折りや酒を断り続けるのも悪く感じて有難くもらっているが、そもそもお裾分けという言葉自体がただの口実なので、やはり何かを貰うというのは気が引けた。だが冨岡自身もお裾分けを貰い続けるのは気が引けるのだろう。互いに生真面目であることがわかり一人苦笑いを漏らしたくらいだった。
 その真面目な冨岡が、これまた真面目な顔をしてしのぶに頼みなどと口にした。他部署とはいえ上司である冨岡がしのぶに何を頼むというのだろうか。首を傾げながら続きを促した。
 材料費と光熱費は支払うから、自分の分の夕飯を作ってほしい。
 申し訳なさそうに見える表情を浮かべて言いにくそうに口にした冨岡に、しのぶは何だと軽く呟いた。
「そんなこと。真剣な顔をするから何事かと思いました。構いませんよ、一人分作るより楽ですし」
 まだまだ人数分のランチ代には遠く及ばないので材料費も光熱費も必要ないのだが、手間賃もあるからと冨岡は引かなかった。楽だと言っているのに相変わらず真面目である。
「ご家族でも来られるんですか?」
「いや、美味いから」
 飲み会の日に言っていた宇髄の言葉を思い出して問いかけてみたのだが、冨岡から返ってきたのは意外な言葉だった。
 単純に美味しいから作ってほしい。何だか知らない間に冨岡の胃袋を掴んでいたらしい。少々照れてしまいしのぶは笑みを向け続けるのが難しくなった。褒められるのは有難いし嬉しいが、まさか冨岡からそんなふうに言われるとは思っていなかった。
「そうですか……それは、まあ、嬉しいです」
 妙に可愛げのない言い方をしてしまったが、狼狽えてしまったので仕方ないと自分で自分を慰めた。たまに見せるこういうところが女性の心を掴むのかもしれない。何だか恥ずかしくなりしのぶは必死に気持ちを切り替えようとした。
「夕飯だけで良いんですか?」
「昼は社食がある」
 しのぶは弁当を持っていっているので利用したことは数回しかないが、部署の同僚も社食を利用していた。麺類とカレーが常にあり、ビュッフェ形式の日替わりも安くて美味しいというのは聞いたことがある。
「社食があると楽で良いですね。朝は食べてるんですか?」
「パン」
 短すぎる答えとともに棚を指し、買い置きしているらしい食パンが目に入り、成程としのぶは頷いた。朝昼とどうにかなっているから夜の食事を作ってもらおうということになったのだろう。
「では夕飯だけですね。何でも良いんですか? 食べたいものとか、」
「ついでで良い」
 好物でもあればと思って聞いたのに。しのぶが少々不満げにしたのが伝わったのか、冨岡は少し考えるように黙り込んだ後また口を開いた。
「何でも美味い」
「ああ、そうですか……」
 何でもって、たった四度しか料理など振る舞っていないのに。我慢しきれず今度こそしのぶの頬に赤みが差した。
 天然でやっているのかそれとも計算か。すでに大体の人となりは把握していると思うので、恐らく前者なのだろう。何だか落ち着かないし、何となく面白くなかった。
 まあ、食べたいと言うのならしのぶも作りたいと思えるので構わないのだが、何か言い返したい気もしたけれど、何を言いたいのか自分でもよくわからずしのぶは皿の残りを食べることに集中した。

「えー! 凄い、二人ともお弁当自分で作ってるんだ」
 気分転換にと食堂まで来たしのぶは神崎とともに弁当を広げ、彼女とおかずの交換をしている時に声をかけられた。
 神崎の弁当は非常に美味しい。しのぶはそれを知ってから毎回一つおかずを交換しては舌鼓を打っていた。作り方を聞いて隠し味を聞いて、試してみてもなかなか神崎から貰うおかずと同じようには感じられなかった。なので諦めて本人からおかずを貰うことにしたのだ。しのぶのおかずも神崎は美味しいと言ってくれるが、彼女の料理を口にしてしまえば皆自信をなくすと思う。冨岡だって食べれば一瞬でちょろい胃袋を掴まれるだろう。そのくらい美味しい。
 まあ、食堂へ来てしまったのはしのぶたちだったので、それが悪かったのだろう。女性社員が凄いと騒ぎ、あの飲み会の日に声をかけてきた男性社員が近寄ってきてしのぶの弁当からおかずをつまみ食いされた。苛立ちを覚えたもののしのぶは青筋を立てながら笑みを浮かべて蓋を閉め、不穏な空気を察してか女性社員がやめろと男性社員を窘めてくれた。神崎は顔色を青くしていたし。
「めっちゃ美味い。胡蝶さん料理もできるんだ」
「それはどうも。勝手に人のおかず取るのはやめてもらえます?」
 悪びれた様子もなく謝った男性社員にしのぶの青筋は更に立ったものの、大人気なく怒鳴り散らすのもはしたないと深く息を吐き出した。俯いたしのぶの表情が見えてしまったのか、神崎は心配というよりもおっかなびっくりに控えめに声をかけてきたが、神崎には笑みを見せてしのぶは問題ないと呟いた。
「胡蝶さんの手料理食べたいんだけど、俺にも弁当作ってくれない?」
「お弁当って手間かかるんですよね。一人分ならまだしも」
「へえ、手間かかるんだ? じゃあ晩飯とか食べに行って良い?」
「彼氏でもない人を家に呼ぶことはしません」
 別に一つも二つも手間など変わらないが、この男に作るという言葉だけで無性に腹が立った。良いとも悪いとも言っていないのに勝手におかずを奪っておいて、美味かったから料理を作ってほしいなど。それなら材料費と光熱費を出して頼み込むのが筋というものだ。土下座されても作る気など更々ないが。
「真面目ー。じゃあ俺の彼女になってよ、うちに来て作ってほしいなあ」
「お断りします。好きでもない人の彼女になるつもりも料理を作るつもりもありませんから」
 ばっさりと笑顔で切ったしのぶに男性社員が言葉を失い、女性社員は凄い、と小さく呟いたのが聞こえた。弁当を食べたいから早く去れと態度を示し、顔を真っ赤にした男性社員は食堂から出ていった。ふん、と不機嫌さを隠しもせずミニトマトを口に放り込んだ。
「お前派手に気が強えな」
「んぐっ、」
 噛み切ったトマトの汁が口から飛び出そうになり慌てて口を覆い隠し、しのぶが顔を上げると宇髄が冨岡を連れて近寄ってきていた。
 変なところを見られたらしい。しのぶは羞恥で頬を染めた。冨岡は相変わらず無愛想だったが、何となくだが少々元気がないようにも見えた。いやまあ、いつもないけれど。
「昼休みとはいえ社内でやるなって話だがな。面倒な奴だなあいつ」
 こんな公の場で彼女になれだのと、断られるはずがないとでも思っていたのだろうか。恥ずかしい目に遭ったのはしのぶのほうだと思うのだが、変に恨みでも買っていないか少し心配にはなったが、本人の自業自得だろう。
「何かあったら言えよ、俺でも冨岡でも。神崎もな」
「ありがとうございます」
 二人揃って礼を告げ、券売機へと向かった冨岡と宇髄を見送った。
 別に、料理をすることは好きだし請われれば作るのも吝かではないのだが、どうにもあの男性社員が好きになれずに突っぱねてしまった。いや、断ったのを後悔しているわけではないが、面倒な人に目をつけられたものだと思う。一応はっきりと断ったのだし、もう言ってくることはないと思うが。冨岡も宇髄もこうして見てくれていたから、次に何かあればすぐ対応してもらえるだろう。巻き込まれた状態の神崎のことは守らなければならないし。
 溜息を吐いてなくなった卵焼きへ思いを馳せようとしたものの、男性社員の顔も思い出してしのぶはまた表情を歪めた。

「悪かった」
 作ってほしいと頼んできたのは冨岡だったのに、鍋を抱えてインターホンを押すと眉を顰めた冨岡が出迎えた。いつものように靴を脱いでテーブルへと鍋を置き、勝手知ったる食器棚から皿を取り出していると、明日から作らなくて良いと冨岡が呟いたのだ。
 何で急にそんなことを。最近はあまり数えていなかったがまだまだランチ代は残っているはずで、こうして食事をするのも楽しみにして。いや、美味しいと感じてくれている者が食べてくれるのが嬉しいだけで決して他意はないが。
 慌てて何故かと問いかけると少々言いにくそうに口を開いた冨岡が妙なことを言い出した。
「好きでもない相手に作らせていた」
「は?」
 好きでもない。疑問符を浮かべた時昼間のことを思い出し、しのぶはあんぐりと開いた口を手で覆い隠した。そうだった、昼間の珍事を冨岡は宇髄とともに見ていたのだ。妙に焦ったしのぶは普段なら言い淀むこともないというのにしどろもどろになり、一旦落ち着くために静かに深呼吸をした。
「あれは……断る口実というか、あの人が嫌で……冨岡さんには材料費も光熱費も貰っていますし、お礼も兼ねていますから」
 冨岡が引かなかった費用は一応受け取ってはいるものの、しのぶは実際よりも少なく提示して伝えていた。その差額をランチ代に当ててばれないよう地道に返しているところだ。相変わらず菓子も酒も渡してくるので大して返金できていないというのはもう目を瞑るしかない。最近は確認するのもサボっていたのだが、返しきったところで食事をするのは楽しんでいたので、やめるということを考えたことがなかったのだ。今も冨岡から言われて焦ってしまうくらいにはすでに習慣化していた。
「礼をしてもらう謂れはない」
「個人的な気持ちの問題ですから、そこは気にしないでください。とりあえず、冨岡さんに作るのは別に嫌々というわけではないですから」
 納得していないような顔をしたものの、冨岡はしのぶがはっきりとそう言うのならと引き下がった。
 それにしても、無駄にあの男性社員の影響が大きい。あの男が食堂であんなことを言ったおかげで冨岡が気にしてしまったではないか。また昼間の苛立ちがぶり返し、しのぶはむすりとしたまま鍋を掻き混ぜた。
「……嫌になったら言ってほしい」
「わかりました。今のところはないですから安心してください」
 眉間に皺が寄ったまましのぶは口角を上げ、妙に複雑な表情をしてしまったのを自覚した。しのぶを気にかける冨岡の厚意は有難いが、いちいち気にしなくても良いのにと呆れもする。業務外のこと、更にはただの隣人に頼むことではないと思っているから気が引けるのだろう。習慣化しているのだから構わないのに。
 まあ、しのぶもこの生真面目な冨岡のことを気にかけてしまうので、お互い様なのかもしれない。そう思うとしのぶの口元は知らぬ間に綻んでいた。