歓迎会

「お前っ、自己紹介で本当に名前だけ言う奴があるかよ」
 呆れた声音のあと参加者の控えめな笑い声が上がり、その様子を眺めて同僚は困ったように笑みを見せてまあ良いかと頭を掻いた。
 義勇を知る同僚は口下手であることを理解してくれており、こうした飲み会ではフォローにまわってくれることがよくある。
「村田さんて冨岡さんの同期なんでしたっけ?」
「あ、いやあ……俺は中途入社だから後輩で……高校の同級生ってだけ」
「そうなんですか? 知らなかった!」
 どこかの部署の社員が目を丸くして驚き、頭を掻いた同僚は少々申し訳なさそうな顔をして曖昧な笑みを漏らした。
「だからいい加減敬語使わないといけないんだけど、慣れちゃってなかなか……」
「別に必要ない」
「そうもいかないだろ、部下の癖に何でタメ口ってなるじゃん。お前が良くても周りが駄目なんだよ。……でもさあ、飲みの時は許してほしいんだよなあ」
 最初から許しているのだが、村田の言うとおり後輩に対しての影響に悪いというのも理解していた。同級生である村田が義勇の部下になってしまった以上、社内ではきっちりとしておかなければならないことも。まあ、大勢で飲みに行くことなど殆どないので、新入社員などが義勇と村田のやり取りを見るのはほぼないだろうとは思う。
「悪い、遅れた。お、冨岡お疲れさん。どうよ、なかなか派手だったろ、本社」
 集まりに遅れて顔を出したのは義勇とは違う部署に所属する宇髄だった。入れ替わりに本社の研修から戻っていた宇髄は、義勇のいない間も管理職として勤務していた。
「月一ミーティングがホテルの宴会場なのはどうかと思う」
「派手で良いじゃん。あれ社長の知り合いが総支配人だからわざわざ借りてやってんだぜ」
 総支配人が異動にでもなれば使わなくなるのかもしれない。すでに本社から戻っている義勇にとってはどうでも良いことではあるが、毎月のただのミーティングに宴会場を借りて、コーヒーはともかく菓子まで用意するのは何故なのかと不思議だった。本社にも会議場はあるし広さも申し分ないのにと疑問だったのだが、宇髄の言葉で解消されてしまった。そうかと一言呟いて義勇はまたグラスを傾けた。
「少しは口下手がましになってるかと思いきや何も変わってねえなこいつ。まあ一応こんなんでも出世頭だからなあ、今のうちに仲良くなっとけば色々有利かもしんねえぞ新入社員」
「出世頭は宇髄さんもですよ……」
 急に視線が集中したような気がして、義勇は少し眉を顰めて顔を上げた。宇髄の言葉に感化でもされたのか、斜め後ろから声をかけられ義勇は少し驚いた。朝礼で義勇と同じく前に立って挨拶をしていた新入社員だ。先程も自己紹介をしていたから知っている。
「竈門です! 冨岡さんと同じ部署に配属になりました、よろしくお願いします!」
「良いねえ、積極的な奴は大成するからな。ほら注いでやれよ」
「あ、すみません。俺高卒なのでお酒が飲めません」
 同じ部署になることは義勇も知っている。というか配属の話はこちらからしたので知っていなければおかしいのだが、一応の挨拶ということなのだろう。
 竈門は溌剌として若いゆえか元気が良く、今も大きな声に義勇は驚いた。肩を震わせたことに気づいた宇髄がビビり過ぎだと笑っていたが、宇髄は驚いた声を漏らしていたのだからお互い様である。
「去年いなかったんだから二年目も新入社員と似たようなものですよね。胡蝶さんも行ってきなよ。ほら、神崎さんと」
「え、いえ私は……」
「あ、あの、挨拶なら一緒に来ていただけると……」
 少し遠くから声がかかり、宇髄が手招きして呼びつける。
 胡蝶と神崎。正直胡蝶のことは少し前から知っているのだが、あえて話をすることでもないと思って言わずにいた。宇髄は以前借りていた部屋にもたまに遊びに来ては飲んで帰ったり泊まったりとしていたので、そのうち話しておくほうが良いのかもしれないが、大して関わりのない隣人など別に気にすることでもないのかもしれない。会社でも全く接点がなく、いまいちどういった距離感で接するのが正解なのかわからなかった。
 一応会社の社員なのだからと困ったことがあるなら教えるように言ってはみたが、他部署の社員にわざわざ相談するようなことがあるのかも悩むところだ。何もないのならそれで良いのだが、何か気にかけなければならないのならそれは何なのかを知りたいところでもある。
「ええと、胡蝶です。この間書類をお渡ししました。問題なかったでしょうか?」
「ああ、助かった。ありがとう」
「……いえ」
 隣人であるということに気を取られて会社で少し話したことを忘れていた。そういえばそうだったと思い出し、あの書類がやたらと見やすかったことを思い出した。纏めるのが得意なのか、それとも慣れか。とにかく仕事は速く正確で、胡蝶の部署で声をかけた女性社員が褒めていたことも思い出した。
「神崎です。よろしくお願いします」
「ああ」
 胡蝶と同じ部署に配属されたという神崎とはすでに仲が良いらしい。何故か村田が席を立って二人を促し、義勇の隣に胡蝶と神崎が座らされていた。飲み会でも隅で一人食事をすることの多い義勇に何を話せというのだろうか。
「竈門も座れよ、ちょっと詰めてくんね」
「すみません。ありがとうございます」
 宇髄と義勇の間に座った竈門が妙に目を輝かせてこちらを見上げてくるのが居心地が悪かった。少々眉を顰めて酒を飲んでいると、反対隣から控えめに何か食べるかと問いかけられた。神崎が立ち上がって瓶ビールを手に寄ってくるので、義勇はいたたまれなくなって口を開いた。
「接待のようなことはしなくて良い」
「すみません。接待というよりはグラスが空くのが気になって」
 どうやらそういう性分らしく、神崎は気にしないでほしいと口にして飲まないかと瓶ビールを掲げた。飲むか飲まないかと言われたら義勇は飲むのだが、気が利くからといって人のグラスばかり気にしていては自分が楽しめないだろうと思うのに。ふと目の前に置かれた皿に取り分けられた料理が乗っている。胡蝶は胡蝶で気を利かせてくれたようだった。
「……これ以上は必要ない」
「すみません。ご迷惑でしたか」
「あー、違う違う。冨岡なんか気にしないで好きに楽しめってことだよ。こいつは勝手に飯食って飲んで帰るからさ」
 そう言ったつもりだったのだが、またも伝わっていなかったようだ。宇髄の補足した言葉に胡蝶と神崎は二人して仲良く丸くした目を見合わせていた。
「ハラスメントでも気にしてんの? 上司の酒注ぐのは別にセクハラじゃねえぞ」
「パワハラ……」
「ぶふっ。まあお前言い方があれだから勘違いする奴はいるかもな。こいつは単に冤罪と処罰に怯える馬鹿だから、いちいち気にしなくて良いってことだ。個人的には仲良くなっとけって言いたいけど」
 懐くと面白いと宇髄がにやにやと笑い、笑われた義勇は不満を顕にした。竈門はにっこりと笑みを見せて元気良く頷き、一部始終を見ていた胡蝶が吹き出すように笑い、神崎もつられるように笑みを見せた。
「冨岡さんてちょっと面白いですね」
 面白いなどと言われる要素はなかったと思うのだが、何かが胡蝶のツボに入ったらしい。面白い話をするのは宇髄や村田だが、変に気を遣われるよりは笑われていたほうがましとも思えた。
 以前までの飲み会なら黙って飲んでいただけだったのに、今日は支社に戻ってきた義勇の歓迎会とやらでもあるせいか妙に話題に挙げられる。まあ楽しんでいるなら良いかと義勇は諦めることにした。

*

「冨岡さんの見る目変わっちゃいましたね」
「もっと取っ付きにくいのかと思ってたよなあ」
 向かいに座る他の面々が話しかけづらかったと話し出し、人付き合いが駄目駄目だと宇髄が揶揄うように口にした。慣れ親しんだ相手としか話さないのだと村田が口を挟む。慣れてくれるのを頑張るという竈門に、まず仕事を覚えるのが先だと冨岡が窘めると、面倒臭いと宇髄がげんなりと言葉を付け足した。
「仕事はするけどそれ以外がな。いい加減面倒見てくれる女でも作れよ」
「えー、冨岡さん彼女いないんですか? 意外!」
「意外かあ? こんなん中身知る前に大抵逃げるだろ」
 立候補しようかなあ、なんて言葉がひっそりとしのぶの耳に届いた。成程、出世頭で働き盛りの若い男は恰好の的ということか。更には見た目も悪くない、むしろ整った顔立ちをしているのだから狙いを定める女性社員は多そうだ。何だか変な人だが、取っ付きにくさがなくなれば更に騒ぐ女性は増えそうだとも思う。
 宇髄の言う中身がどんなものかはまだわからないが、気難しいというよりは変わった人という印象を受けた。しのぶとしては面倒そうで変な人だとは思うが、一応親切であるということは知れ渡っているようだし、しのぶ自身もその親切さに触れたことはあった。まあまだ困ったことは起きていないので、どれほど親切かは知らないのだが。
「冨岡ってひとり暮らしだよな。自炊とかしてるのか?」
「………」
「たまーにやってんだっけ。家族が来る時、心配するからいつもやってるように見せてんだろ」
「………」
「何か言えよ。図星だからって黙るな」
 これ以上開示するものはないとでもいうような冨岡の態度に宇髄は呆れた顔を見せ、村田は困ったように笑みを見せた。面白そうな印象は受けたものの、やっぱり面倒そうであることは変わらなかった。
「今度紹介してやろうか」
 宇髄の言葉に女性陣が慌てたようにざわつき、男性陣はこちらにも紹介してほしいと懇願していた。宇髄の知り合いは皆美人だと言って憚らず、宇髄のお墨付きならばとこぞって期待しているらしい。何というか、どちらも色々と思惑が透けて見える。
「俺はいいや、社内に良い子いるし」
「うわー、誰目当てだよ」
 冨岡以外に紹介するなどとは宇髄は一言も言っていないが、どこぞの他部署の男性社員は気になる女性がいるようだ。ハラスメントを気にしているらしい冨岡がしのぶと神崎のグラスが空いていることに気づいたのか、飲むかと一言声をかけて瓶ビールを傾けてくる。驚いたものの礼を伝えながら酌を受け、神崎と目を見合わせて小さく苦笑いを向けた。
「お前も俺を気にしてないで食べろ」
「はい、ありがとうございます!」
 竈門はまだ冨岡の行動を気にしていたらしく、しのぶが取り分けた皿がなくなってきたのを見計らって料理を手渡していた。一応受け取りはしたがまた窘められて竈門が照れたように笑う。初々しくて微笑ましいが、まだ十代の新入社員はやはり遠慮なく食べたほうがしのぶとしても見ていて安心する。
「胡蝶さんは彼氏いないの? 俺とかどう?」
「は? あ、ええと、私今はそういうのは考えてなくて」
「えー勿体ない! 俺駄目? 結構マメだし優しいって言われるよ」
「胡蝶さんに行くとかお前身の程知らずだな」
 しまった。適当に彼氏がいると言っておけば良かったのに、急に話を振られて思わず事実を口にしてしまった。面倒臭い。
 駄目も何も、顔と名前が一致したのはこの飲み会の席だというのに、どんな人間かもわからないままそんな対象に見るなど難しい。自分で優しいなどと口にするのも何だか気に入らない。感情を隠して笑みを向け、すみませんけど、と一言呟いた。
「部署も違ってよく知らないですし、同僚からということで」
「んー、わかった。じゃあ今度昼飯行こうよ」
「あはは、良いですね。なら冨岡さんも一緒に如何ですか? ああそうだ、神崎さんと竈門くんも、宇髄さんも如何でしょう」
「えっ。あの、胡蝶さん」
「お昼も賑やかだと楽しいですしね。せっかくお話できたんですから、皆さん一緒に行きましょうよ。村田さんも」
 宇髄が吹き出して肩を震わせている。しのぶの思惑に気がついたらしいが、しのぶは笑みを向けたまま男性社員に頷かせるよう畳み掛けた。神崎と竈門は新入社員でまだ人の顔と名前も一致しないだろうし、上司である冨岡とも仲良くなりたいだろうし、冨岡は村田や宇髄がいなければ来ないだろうし。断る口実だとバレても特にしのぶは気にしない。部署も違うし何より自分でマメだの優しいだの自称する男はタイプではないのだ。しかも別にしのぶはマメな男は好みでも何でもない。
「派手に面白そうな面子だな。俺は良いぜ、付き合ってやるよ。竈門も行くだろ?」
「え、俺も行って良いんですか?」
「上司と仲良くなって損はねえって言っただろ。安心しな、たまには奢ってやるよ、冨岡が」
「えーっ! 奢りなら私たちも行きたいんですけど!」
 会話が聞こえていたらしい女性陣が声を上げ、冨岡の奢りと聞いた男性陣も騒ぎ始めた。
 しのぶは単に男性社員と二人で行くのを阻止したかっただけなのだが、何やら話が大きくなってしまった。困ったような表情を見せた冨岡が眉を顰めて宇髄へ視線を向け、立ち上がった宇髄が冨岡の首へ腕をまわして何やらぼそぼそと話し始めた。
「……まあ、そういうことなら」
「よっしゃ。冨岡大先生の了承も得たし、奢り決定な。何人行くんだよ」
 その場の社員が湧き立ち挙手したのはしのぶたちを除いて話を聞いていた全員だった。かなりの人数で冨岡の表情が少し困惑しているのがわかった。ああ、宇髄はしのぶの思惑に気づいていたようだから、もしかしたらそれを冨岡に話されたのかもしれない。だとしたら申し訳ないことをした。困惑以外の感情はさっぱり読み取れず、しのぶは冨岡の心中がどうなっているのかわからなかった。
「いや、多……えっと、宇髄さん。全部冨岡の奢りですか?」
「別に良いだろ、どうせ貯め込んでるしよ。たまにはパーッと使えよな」
 貯め込んでいるという言葉に一部の女性の目の色が変わった気がしたが、溜息を吐いている冨岡は気づかなかったようだ。
 妙齢の結婚したがる女性は相手の年収も貯蓄額も気にするらしいから仕方ないが、そういう人は公の場で独り身であることを教えては駄目な気がする。なりふり構わない女性ならば押しかけて来たりしそうだし。
 まあ、上司なのだから心配しなくても良いのかもしれないが。
「渡すからそれで食べに行けば……」
「お前も来いっつうの! ハラスメント気にするなら周りの様子もよく見とけって」
「そうですよ! 冨岡さんとご飯食べたいなあー」
「絆されるなよ、ありゃ奢り目当てだからな」
 首を拘束されたまま冨岡は宇髄が指した女性社員へ目を向け、指摘された側は舌を出して可愛らしく肩を竦めた。あれはどうやら獲物を捕える捕食者ではなく冗談のやり取りのようだ。女性は宇髄の部下らしく、気心知れたやり取りも日常茶飯事らしい。
「全員入れる店で頼むぜ」
「あ、……は、はい……」
 しのぶに声をかけた男性社員は意気消沈し、宇髄の指示に小さく頷いて溜息を吐いていた。

「あの、……すみません、ランチの件」
 二次会に行こうと誘われたのを断り、同じ方面の電車に乗る数人と連れ立って店を出た。途中下車する社員たちを見送り、冨岡と二人最寄り駅まで到着してから歩き始めた。同僚が隣人というのは夜遅くになった時便利だ。わざわざ送ってもらわなくても良いし、送るという行為に申し訳なさを覚えなくて済む。
 とはいえそれとは違う内容に申し訳なさは感じているのだが。
「何の話だ」
「私があの彼の誘いを誤魔化したの、気づいてなかったんですか?」
「……ああ」
 冨岡本人が気づいていなくとも宇髄が伝えたのだと思っていたから謝ったのだが、思い至ったように冨岡が声を漏らし、それのことかと呟いた。良かった、知っていたようだ。いや良くはない。無駄に冨岡に金銭を使わせることになってしまったのだから。
「困り事があるなら言うように言ったのは俺だ」
「それはそうですけど、あまりに人を巻き込みすぎたといいますか……冨岡さんがお金を出す羽目になってしまいましたし」
「困ってたのは事実なんだろう」
「それは、まあ……そうなんですけど」
 面倒そうな気配を感じてつい曖昧に誤魔化そうとしてしまったのだが、あのまま飲みの席で話を続けていれば、もしかしたら周りからの援護という名の余計なお節介が働いてしまうかもしれないと感じたのだ。明るい飲み会で付き合いをはっきりと断れば場の空気は暗くなるだろうし、周りが囃し立てれば断るのも骨が折れただろう。
 しかし、だからといって誰かに奢らせようとするつもりなど毛頭なかった。基本的にしのぶは奢られるよりは自分の食べたものは自分で支払いたいし、それが上司であろうと気を遣うのだ。気にしないという者も奢られて当然という考えの者もいることは知っているし、それは否定するつもりはない。しのぶは嫌だと思うだけである。
 まあ、上司相手に金を叩きつけるわけにもいかないので、有難く思うことにしようと考えているのだが。
「その昼食で解決するなら構わない」
「するといいですけど……」
 いや、無駄に金を出させているのだし、一回きりで何とか諦めさせなければ。二人きりの時に言ってくれればもう少しはっきりと断れたものを。何だかそれも気に食わなかった。
「しないならまた相談すれば良い。……まあ、俺はその手の話は得意じゃないが」
 しのぶが話しやすい者に、何なら宇髄が色恋の話は得意だと冨岡は教えてくれた。鞄からキーケースを取り出し施錠されていた鍵が開く音が聞こえ、冨岡はドアノブを回そうとした。
 何だか変わった人ではあるが、親切なのは事実だった。しのぶが困っているのを知って宇髄の提案に乗ってくれた。しかも他部署の人間にもランチをご馳走してくれる。他人に騙されたりしないだろうか、などと上司相手に失礼なことを考えた。
「……冨岡さん、自炊しないって本当なんですか?」
 しのぶの問いかけに手が止まり、冨岡は少し不思議そうに首を傾げた。部下のいる働き盛りの成人男性なのに仕草がたまに幼い気がしてアンバランスだ。
「得意じゃない」
「人の手料理とかって食べられます? 家族以外の」
 天井へ視線を向けて少し考えたあと、常軌を逸した味付けでなければと呟いた。どんな味付けなのかと少し笑ってしまったが、世の中にはどれほど歩み寄っても受け入れ難いものというのはある。自分は美味しいと感じても周りもそうだとは限らないということなのだろう。
 幸いしのぶは家族から味付けが駄目だと言われたことはないし、友人に手料理を振る舞ってまずいと言われたこともない。むしろ美味しいと言われることが多かったので、恐らく一般的に普通の味付けをしているのだと思う。
「さすがにあんな大勢奢ってもらうのが申し訳なくて。良かったらご飯、食べてくれませんか。常軌を逸した味付けではないと思うので」
「……いや、それは」
「奢ってくださるお礼に、です。巻き込んだこと、反省してるんです。構わないと言いますけど、私は気にしてしまいますから」
 結局しのぶの心情のためにしたいだけではあるが、自炊をしないというのも体に悪いだろうし、隣人なので料理を持っていく手間もさほどないわけで。ランチにかかった金額分の料理を振る舞うというのは難しいが、日数をかけていいのならそれもできるだろうと思う。まあ冨岡はそんなことは言いそうにないというのはもう理解しているが。
「……そうか。なら頼む」
「ありがとうございます」
 比較的すんなりと頷いた冨岡に、しのぶは笑みを向けて礼を告げた。何故礼を言われたのか納得できなかったような素振りを見せたが、しのぶは気にせず会釈をして部屋へと入った。そのすぐ後に隣からも玄関が閉まる音が聞こえてきた。
 無駄に気を遣うことになってしまったが、食べてもらうために料理をすると決めたことは嫌々というわけではない。まあ手料理が駄目ならまた違うことを提案するだけだったが、早めに決まって良かった。しのぶの口元は気づかぬまま綻んでいた。