後藤と村田と冨岡夫妻

「こっち戻ってきた年からって話じゃん。手が早えよ本当、若くで役職持ちで金持ってるし、あんなんに言い寄られたら落ちるに決まってるし」
「違うって、手料理食べさせて陥落させたのよ、あんな美人に狙われたら一発じゃん。あーあ、冨岡さんも結局顔かあ。何かショック」
　もっと別の店を選べば良かったな。そう感じながら後藤はグラスを傾けた。隣に座る村田も少々不機嫌そうに眉を顰めていた。
　会社近くの居酒屋で飲んで帰ろうと適当な店に入って空いているカウンターに座ると、冨岡の部署の男性社員、村田が隣にいたことに気づいた。
　後藤は村田とはさほど話したことはなく、選んだ席の隣にいるのが少々気まずかった。しかし座ってから席を変更するのも気分を害するかと思って控えめに挨拶をすると、向こうも後藤と似たような表情で挨拶を返した。
　黙っているのも何だか態度が悪いような気もして、何かないかと話を振る。村田は村田で恐らく同じことを考えたのだろう。同じ会社なのだから共通の話題はいくらでもある。給料の話や後輩の話、若い上司の話とか。酒も手伝って意外と話が弾んだ二人は、ひっそりとカウンターの隅で会話をしていたところだった。
　背後のテーブル席では座っていた客が帰ったり新しく入ってきたり、忙しなく回転する店の中で、ふと聞こえてきた言葉に後藤は固まった。
　隣に座る村田の上司の名前を口にした女性の声。会社近くのせいか後藤たちの他にも社員が飲みに来ていたようだ。ちらりと背後を確認すると、派手な見た目の女性と不機嫌そうな男性がいる。後藤がよく話す社員ではなく、そういえば見かけたことがある程度の認識ではあるが、間違いなく同じ会社の同僚だろう。村田もひっそりと背後へと視線を向け、眉間に皺を寄せて溜息を吐いた。
「上司に言われたら断れないだろ、手料理持ってったら帰してもらえないわけよ。役職持ちはやりたい放題だな。何人食ったんだろ」
「何言ってんの、手料理とか完全にそういう手口じゃん。可愛い顔して肉食系なのよ。毒牙にかかったって感じ。手料理で落ちるなら私だって」
　全く大変だな。よく知らない面々からは好き勝手噂されてしまう。特に二人のような目立つ者には様々な憶測が飛び交ってしまうのだ。
　二人はそんな人間ではないということは、たまに聞く神崎からの話でも後藤は知っている。いやそもそもそんな腹に何かを抱えた二人だったとしても、結婚までするほど仲良く過ごしているのだから全然構わないだろう。ただの妬みであるだろうことは後藤にもわかっている。それでも気分は悪かった。
「大体胡蝶さんてめっちゃ気強いじゃない、断れないとか絶対ないわよ。食堂事件語り継がれてるし」
「あー……大っぴらに振られた奴がいたんだっけ。まあ平社員よりは上司に行くよな。やっぱ金？　顔？」
「どっちもでしょ。一瞬煉獄さんとも噂あったし、あれ二股だったりしないのかな」
「うわ、胡蝶さんがビッチだったらちょっとやだ。でも一回くらいお願いしたいわ。俺結構上手いんだけどなあ」
「不倫とか最低ー。でも胡蝶さんが浮気したら冨岡さんも落ちるかも。ちょっと頑張ってよ」
　むすりとした村田の横顔をちらりと眺め、後藤は二軒目に行こうかと提案した。歪な笑みを見せた村田は頷き、カウンターから揃って席を立った。
　村田は上司である冨岡とは同級生だというし、我慢も限度があるだろう。彼の話す冨岡は物静かで大人しく、確かに彼女がいた時期もあるようだが、好き勝手に嘆いていた男女の話とは似ても似つかない人間だった。
　以前部署に顔を出した竈門の話でも優しいような印象を受けたし、ド天然だとかいう話だし、後藤は関わりもなく怖そうだと思っていたが、ひっそりと印象を塗り替えていたのだ。
　精算を済ませ店の外に出ると、村田は唸るような声を漏らして項垂れた。
「腹立つなあ……好き勝手言ってくれちゃって」
「まあ、仕方ないですよ。冨岡さんて殆ど話さないし、胡蝶さんが気が強いのは事実だし。ああやって陰口言ってるのは気分は良くないですけどね」
　話していた二人は村田もよく知らない社員らしい。酒の席とはいえ下世話な下ネタを開けっぴろげに話すのは慎みも何もない。後藤は猥談は嫌いではないが、ああも大っぴらに話す女性はあまり好きではなかった。
「ていうか危なくないすか。いや胡蝶さんなら軽く捻りそうだけど、力づくで来たらどうしようもないし」
「……確かに。冗談だとは思うけど……こういうの教えとくべきなんですかね。せめて冨岡に……いやでもあいつ天然だからなあ……」
　天然だからといって嫁の危機までとぼけているような人間なのだろうか。頼りになると笑っていた村田が言うのかと少し首を傾げたが、まあ後藤は村田ほど冨岡を知っているわけではないので、はあ、とぼんやりした相槌を打つに留まった。
「名前もわかんないし、顔は覚えたけど。あー何か、せっかく良い気分だったのになあ。……あ、」
「……村田か」
　横断歩道から渡ってきた人影の中に件の彼がいた。噂をすれば影とはよく言ったものだ。後藤へ目を向け会釈をし、そのまま背にしていた店の暖簾を潜ろうとする。慌てた村田が引き止めると、不思議そうな顔をして首を傾げた。
「何何！？　今日胡蝶さんは！？」
「神崎と食べてくるそうだ」
　腕まで掴んで引き止められたことに眉を顰めて訝しげに村田を眺める冨岡は、何だと一言口にした。言葉になりきれなかった声を漏らしながら村田は言い淀む。ちらりと店内へ目を向けると、テーブル席に座っていた女性が向かいに座る男性へと声をかけ、入り口へと目を向けるよう促しているのが見えた。うわ、面倒臭い。ばれたようだ。
「ここ凄え混んでるしおすすめできないし！」
「……空いてきてるように見えるが。一人くらい、」
「いやいや、俺たちたまたま意気投合して、これから二軒目行こうとしてたんですよ！　良かったら冨岡さんも如何です、かねえ……」
　村田はともかく、後藤は冨岡ときちんと話をしたことはない。ただ彼の奥方である胡蝶の部下というだけだ。なのに馴れ馴れしく飲みに誘うのは少々距離が近すぎたかと焦ってしまった。
「そうそう、もっと雰囲気のある店に行こうかと思って……」
「……それは邪魔にならないのか」
　冨岡の声を聞きながら、意外と喋ってくれるなあ、なんてどうでもいいことを考えてからふと冨岡の顔を見た。邪魔って何だ？　控えめな人だというし、もしかして自分が一緒して良いのかと言っているのだろうか。そんなこと考えるのか、と村田を眺めると、先程まで血色の良かった顔色が蒼白になっていた。
「いやそういう意味じゃねえから！　後藤さんとは偶然飲んでたんだぞ！」
「隠さなくても良い。偏見はない」
「……えっ」
　とんでもない誤解が生まれた。偶然飲みに来て馬が合って話していただけだというのに、冨岡は妙な気遣いをしたらしく黙っておくと口にした。勘弁してくれ、天然か？　いやそんなようなことを神崎は教えてくれたことがある。こんなところで例のド天然ぶりとやらを発揮しないでほしい。誰か助けてほしかったのだが当然ながら通り過ぎる人影は見知らぬ人ばかり、このまま店の前にいるのも店内の二人に思いきり観察されてしまう。何ならすでにレジまで来ているのだ。やること早いなおい。
「と、とにかく良い店教えてやるから今度胡蝶さんと行けよ！」
「あーっ、そっすね、じゃあ行きましょうか！　ほら、冨岡さんも早く！　早く早く」
　物凄く不審そうな目を向けられたが、まあ当たり前だろう。奥方の部下とはいえ話したこともない奴が馴れ馴れしく急かすのだから、不審がるのは理解できる。常識がないとか礼儀がなっていないとか思われたらどうしよう。今後の査定に響くかもしれない。給与が下がるのは嫌だ。
　何故か妙な三人で飲みに行くことになってしまったが、後藤としては冨岡の人となりも気にはなっていたのだ。必要以上に騒ぐ村田に少々眉を顰めながらも時折相槌を打っている。後藤はその様子を後ろから眺めた。
「後ろの二人も一緒に飲むのか？」
　静かな問いかけに背後へ目を向けると先程店にいた男女が寄り添って話しているのが見え、うわ、ともう一度後藤は面倒臭さを感じた。
「いや？　話したことないし、たまたまじゃないか？」
「そうか」
　背後へ目を向けた村田がとぼけると、興味が湧かなかったのか納得したのか、冨岡は小さく頷いて呟いた。
　尾けられる気配でも感じたのか。そんなもの感じるようなものなのか。確かにレジまで出てきていたが、まさかついてくるとは思わなかった。店に入ればさすがに席もあてがわれるだろうし気にしなくても良いかもしれないが、途中で合流でも持ちかけられたらたまったものではない。はっきりいって後藤でも気分が悪かったのだ。良く知りもしないで上司である胡蝶をこき下ろすことが面白いなど思うわけがなかった。

「機嫌が悪いな」
　二軒目に入った店は個室があり、店員から席に促され飲み物を頼み、ようやくひっそりと安堵の息を吐いた。ついてきていた二人がどうなったかはわからないが、個室ならばそうそう様子を窺うことはできないだろう。頼んだつまみが運ばれてきて妙な面子で乾杯し、割と和やかに時間を過ごし、二人の社員のことも頭から抜けかけていた頃その言葉は発された。
　上司だからか同級生だからか、村田の不愉快さを感じ取ったらしい冨岡の目が村田へと向けられる。何かあったかと問いかけられ、村田は何ともいえない顔をして黙り込んだ。
「お前のそういうとこ今は嫌だわ」
　目を丸くした後冨岡が少々落ち込んだように見えて後藤は驚いた。村田の言葉に凹んでいるのだろうか。そう考えて後藤も衝撃を受けた。
　嫌だと言われて落ち込むのか。いやまあ、冨岡とて人間、同級生だともいう村田から言われるのはショックだったのだろう。うん、相手が村田ならばまあ理解できる。
「嘘だよ！　有難いよこっちは」
　良心でも痛んだのか村田は慌てたように否定した。その言葉を聞いた冨岡が安堵したような表情を見せていた。歓迎会や忘年会のような大勢参加する飲み会の席で遠目にしか見ていなかった冨岡の姿は、今は何だか妙に親しみやすさを覚えてしまった。
　思ったより普通の人という気がする。まあ元々無口で厳しい人というだけで、変とかおかしいとは別に思っていなかったのだが。
「……お前は誤解受けやすいけど、良い奴だよ。知らねえ奴が好き勝手言うのに腹立っただけだって」
　結局村田は隠すことはあまり得意ではないのか、それとも冨岡だからかは知らないが、先程聞いた男女の話を掻い摘んで口にした。冨岡自身への陰口は大して気に留めたようには見えなかったが、胡蝶の話になると不愉快そうに眉根を寄せた。怖い。どういう反応をするのかわからない後藤としては余計に。
「……まあ、言われることは想定してたが」
　そもそも時間外労働を強いていたと呟いた。だから冨岡が周りから何か言われても事実だということらしい。後藤が首を傾げると、村田が補足のように手料理を作ってもらっていたことだと口にした。
　強いていたというが、胡蝶が嫌々やっていたというわけでもあるまいに、冨岡の中ではそういう認識らしい。別に時間外労働だったとしても、そうして今結婚してるんだから良いだろうと思うのだが。
「顔しか見たことないし、どっかの部署行った時に見た気がすんだけど。知ってる？」
「……ああ。広報にいた気がする」
　そこかあ、と納得したように村田が声を漏らし、また何か聞くことがあったら教えてほしいと冨岡は言った。この人頼みごとなんてするのかと少々感動してしまった。そしてやはり胡蝶のことは心配なのだろうこともわかった。良かった、天然だからといってとぼけているような人ではないようだ。
「そういえば今日よく喋るな。後藤さんいるから喋らないかと思ってたけど」
　村田の指摘に冨岡が瞬き、後藤も村田へと目を向けた。神崎の言っていたとおり、他の面々と比べたらよほど口数は少ないが、どうやら冨岡は今日よく喋っているらしい。店の前で会った時もそういえば思ったより喋るとぼんやり考えたことを思い出した。
「良い人だと聞いてる」
「……え、胡蝶さんからですか」
　面食らった後藤は思わず問いかけると、冨岡は澄ました顔のまま頷いてグラスを傾ける。驚いた。冨岡からの一言も何か変だと思いつつ、胡蝶が自分を褒めているなど考えもしなかった。しかも冨岡に言っているなど。
「余計なことを言う時もあるが仕事も早く頼りになると」
　つい最近余計なことを口にした過去を思い出しながら後藤は苦笑いを漏らしたが、にやける口元を我慢できなかった。むくれた顔を見せた胡蝶があまりに可愛くて驚いた時の話だろう。怒らせるのが怖くてつい萎縮してしまったが、今は酒の席だし構わないかと口を開いた。
「この間竈門に渡した差し入れなんですけど、あれ胡蝶さんがよく買ってくるようになったお菓子でして。冨岡さんが唯一自分から手出すやつらしいですね」
「うわあ、そこまで考えて買ってんだ胡蝶さん。まあ竈門は煉獄さんみたいになってきたからな。口に突っ込むようになって」
　まじでやってるのか。そちらも少々気にはなったが、後藤は向かいに座る冨岡の表情に驚いて一瞬固まった。
　ふと空気が和らいで口元が緩んだように口角を上げてそうかと呟いた。
　うわ、笑った。驚いた。
　そうか。この人笑うのか。そりゃそうだ、人間だもんな。胡蝶に気にかけられるのは嬉しいのだろう。案外冨岡もわかりやすいのかもしれない。
　腹の底の思惑がどうだったかなど些細なことだ。今こうして無駄にあてられたような気分になるくらい、周りからの妬み嫉みも他人が入り込むような隙もないほど幸せそうである。だが別に妬ましさなど後藤は感じなかった。話したことのない上司が見たことのない笑みを浮かべて嬉しそうにしているのは、どちらかというと微笑ましい、だ。へえ、そうかそうか。やはり冨岡も胡蝶のことが好きでたまらないらしい。
　妬ましさを覚えるほど身の程知らずではないが、良いなあ、とぼんやり思うくらいには羨ましかった。