意外な話

 冨岡と胡蝶が結婚の報告に来たと噂がまわってきたのは午前中だった。
 部下は朝一で浮かれた総務部長から聞かされ、仲の良い他部署の女性社員に話し、聞こえていた者が各々驚いて口々に伝えていく。宇髄の時とは違い速攻で噂はまわり、死んだように落ち込んでいる者や泣いている者、死屍累々の様子が見て取れた。
 何故宇髄の時はまわらずあいつらの時は速攻なのか、少々納得がいかないがまあめでたいことに変わりはない。ようやくかと安堵して冨岡の部署を覗きに行くと、入り口には人だかりができていた。
「業務外のことは話すつもりはない」
 うわあ。眉間に皺を寄せた冨岡のにべもない一言に一同は肩を落とし、あるいは睨みつけながら去っていく。まあまだ業務時間内だし、無口で真面目な冨岡は絶対話しはしないだろう。わかっていただろうとも思うが、いてもたってもいられなかったのかもしれない。
「今日飲み行くだろ? 村田も来れば?」
「あ、良いんですか……俺なんかで」
 何だか妙に落ち込んでいる村田に首を傾げたものの、冨岡に胡蝶を誘えと口にして部署を離れた。巻き込まれた煉獄と、あとは胡蝶の部署で仲の良い神崎も誘ってやらなければならないかもしれないが、まあそれは胡蝶の判断で連れてくるだろう。竈門が来るかどうかは冨岡次第、とりあえず宇髄は広めの席を予約することにした。

「とりあえず黙ってたのはもう諦めるからさ……いつから?」
「………」
「待て待て、本当にいつからだよ! そんな前なの!?」
 村田の質問に指折り数え始めた冨岡が黙り込み、眺めていた村田は驚愕のままに声を荒げた。
 思わず笑いそうになった宇髄は口元を覆い隠し、食い入るように冨岡の指を眺める神崎に目を向けた。
 二人はいつかの六人での飲み会にもいて、神崎も気になっていたのかもしれない。言ってやれよと思うが、宇髄たちに対しても冨岡はばれたら言うというスタンスだった。まあ仲間内ならば聞けば答えるという意味でもあるので、恐らく村田にも問われれば教えるつもりはあっただろう。
「本社から戻ってきた年の……」
「アーッ! 俺が怪しいと思ってた時!」
「そうなのか」
 さして気に留めた様子もなく見えるが、村田の落ち込みぶりに冨岡も少し困惑しているようだった。やっぱり、と呟いた神崎も勘付いてはいたものの確認することはなく、煉獄との噂に困惑したと呟いていた。
「報告したって話に煉獄めちゃくちゃほっとしてたよなあ」
「そりゃするとも、冨岡に絶交されるところだ」
「絶交て。総務で胡蝶と鉢合わせた時にお付き合い提案されたんだろ? ウケる。まあ冨岡と胡蝶は良かったよな、これでハイエナから無事逃げ切ったし、胡蝶に言い寄る有象無象もいなくなる」
 煉獄と胡蝶に交際を勧めたのだからやはりというべきか、社内のお節介爺婆どもは社員の、更に有能な社員同士がくっつくことに文句はないらしい。むしろ歓迎すべきであるとでもいうように噂を一瞬で広めていた。全く失礼な話だが、冨岡が不安視していたことは起こらないようなので、冨岡からすれば安堵しただろう。
「本当もう、言ってくれりゃ良いのに……」
「ばれたら言おうと思ってた」
「ばれたらっていうか……まあ良いや、おめでとう」
 今更何を言っても無駄だと悟ったのか、村田はそれ以上の文句は言わず祝いの言葉を口にした。礼を告げた冨岡に村田は力なく微笑んだ。
「馴れ初めとか聞いて良い? 社内で話してなかっただろ」
「隣人だった」
「………っ!? あっ、だから本社から戻ってきた時!」
 うん、と成人男性にしては可愛げのある相槌を打つ冨岡は、どうやら浮かれているようだった。普段の飲み会よりも空気は柔らかいし、何なら表情も柔らかい。人だかりを追い払っていた時とは大違いである。
 こいつは割とこれが素ではあるのだが、神崎などは見慣れないのか少々首を傾げて冨岡を眺めていた。
「何が決め手とかあんの?」
 以前二日酔いで死にかけた前日、胡蝶とのことを聞き出した宇髄たちは浴びるほど酒を飲み、冨岡に惚気を吐き出させることに成功した。今日もできるかはわからないが、部下もいるので難しいかもしれない。村田だけなら言っただろうが。
「料理が美味い」
「はは、胃袋掴まれたのかあ。確かにホームパーティーの時の美味かったしなあ。羨ましいなおい」
 微笑ましそうにする村田に少々眉を顰めながら、やはりそれ以上のことは言わないようだった。口下手で伝えられないのかそれとも教えたくないのか、まあ恐らくどちらもだろう。
「胡蝶は何が良かったんだよ」
「え? そうですねえ……何か放っておけなかったので」
「冨岡さんをですか?」
 問いかけたのは神崎で、上司である冨岡が放っておけないということに疑問のようだ。まあ深く関わらない者からすればそうもなる。出世頭の一角である冨岡は、見た目からは何でもできそうとか言われているのを聞いたことがあった。世の女から見ればそうなのだろう。
「ええ、まあ。あと優しいですよ。本当に心配になるくらい」
 天然で優しいからそのうち騙されるのではないかと考えたことがあるらしい。ああ、と頷いた竈門を含めた宇髄たち男連中とは違い、神崎と栗花落は目を丸くしていた。当時は上司相手にそれは失礼かとも思ったらしいが、まあ冨岡だから仕方ない。
「まあでも胡蝶はしっかりしてるし、ド天然相手でも大丈夫だろ」
「ド天然……いえ、しのぶ先輩も天然ですよ」
「まじ? ああ、そういや自分の部屋間違えたんだっけ?」
「っ、何でそんなこと知って、」
 神崎の天然という言葉に異議を申し立てようとした胡蝶は、宇髄が口にした言葉に慌てたように狼狽え、不思議そうにした神崎たちへ不死川の家で管を巻いていた冨岡の惚気の一部を教えてやった。
 そもそも初対面の時点で変なことが起きていたのだ。酔って部屋を間違えた胡蝶が冨岡の部屋の扉を開け、粗品を渡し合うなどというわけのわからないことをしていたらしい。焦る胡蝶を無視して掻い摘んで話すと、冨岡は宇髄の言葉に付け足すように口を開いた。印象に残っていたのもあって会社で見た時は驚いたのだと。
「へえ、本当は一目惚れだったり?」
 ぱちりと音が鳴りそうな瞬きをした冨岡は、村田の指摘に視線を天井へと向けて考え込んだあと小さく口を開いた。
「……そうかもしれない」
「いや、かもって何だよ! 良いのかそれ!」
「ははは、可愛いけど変な女が派手に押しかけてきたって?」
「変な女とは何ですか!」
 やけに頬が赤くなっている胡蝶は、冨岡の腕を力の限り叩いている。自覚なしの一目惚れという事実を胡蝶も今聞いたのだろうし、それに照れているのだろう。
「あれは酔っていて間違えただけで、天然などといわれるようなことはしていませんよ。……何ですか? 考え込まないでください」
 神崎の指摘に思うところがあったのか、冨岡は顎に手を当てて黙り込んでいる。冨岡のことは宇髄もドのつく天然だと思っているのでしっかりした嫁が来て安心していたのだが、胡蝶もそうだとは。まあ天然同士上手くやれるんじゃないだろうか。
 隣が冨岡で良かったな。無理やり引っ張り込まれるようなことがなくて。そんな水を差すようなこと、このめでたい時に言いはしないけれど。

*

 結婚式は彼らが世話になった社長と上司、仲の良い同僚を数人呼んで滞りなく終了したそうだ。二次会では式に出席できなかった同僚と友人を呼び、宇髄と煉獄の司会で非常に盛り上がっていた。
 血の涙を流していたのは男女双方の社員たちで、とにかく悔しい、妬ましい負の感情が垂れ流しだった。勿論二次会でそんな大っぴらに妬むようなところは隠していたが、当日までは悲しみと嫉妬に狂う視線が凄かった。喜んでいたのは興味がない層と純粋に祝う者、他の目立つ社員に熱を上げる者、そして総務含めた上層部くらいのものだった。羨ましいやら微笑ましいやらで感化されていた者もいたが。
 挙式後、いや総務に報告したと噂が広まった翌日だったか。普段デスクで昼食を食べていた胡蝶は弁当を持って神崎や栗花落とともに食堂に行き、冨岡を見つけて竈門や村田とともに広いテーブルで食べるようになった。時折二人で外に出かけてはランチを食べて戻ってくることもある。今までの鬱憤でも晴らす勢いで冨岡と一緒に過ごすことが多くなった。
 溜まってたのだろうか。胡蝶がまだ二年目の頃からの付き合いだそうだし、その間二人は社内で本当に話すことがなかったように思う。たまに顔を合わせても仕事の話で、用件が終わればすぐにデスクへと戻る。総務からの見合い話は定期的にあったらしいし、ひょっとしたら胡蝶も妬いていたりしたのだろうか。
 胡蝶の様子を推察できるのは直属の上司になったからという理由もあるが、後藤にとっては冨岡は同じ会社に勤めるというだけの他部署の上司だ。話したことなど書類を渡しに行った時くらいのもので、それも必要最小限の言葉を交わすだけだった。そのせいもあり、冨岡自身の愛想のなさもあり、とにかく仕事ができるらしい若い上司ということしか知らなかった。まあ見た目も良いので女には困っていないのだろうと羨ましく見ていたが、とはいえ社内で誰かと噂になるようなこともなく、真面目でちょっと怖そうな人というだけの印象だった。なので今もよくわからない人であることは変わっていない。
 まあ、少しばかり空気は柔らかくなったかなあ、とは思っている。
「神崎さんは冨岡さんたちとも飲みに行くんだよな。少数の飲み会だと冨岡さんも喋るの?」
 女性陣からの妬みの視線を嫌がる神崎は、あまりこの話をしようとしない。宇髄や煉獄から誘われるなど知られては当たりが強くなって仕事に影響が出そうだからと顔を歪める。その理論で行くと栗花落や胡蝶も含めた飲み会なので竈門も相当妬まれていそうだが、まああいつは持ち前のコミュニケーション能力が天元突破しているので、さほど困っていなさそうではある。
「冨岡さんにしては、という言葉が付きますが。一般よりは少ないかと」
「ふうん。本当に無口なんだな」
 胡蝶は会議、栗花落は他部署に用事があり席を外しており、今は後藤と神崎の二人だけが部署にいる。
 立ち上げ当初は家に帰ることもままならなかったが、今はすっかり雑談もして気を紛らわすことも増えた。会話が増えると自然と人となりも見えてきて、部署内はプライベートなこともたまに話したりするようになっていた。誰もいないから神崎も話せるとこっそり教えてくれたのが飲み会の様子だ。
「村田さんや宇髄さんたちがいるとリラックスされてるようですし、話しかけると割と答えてくれます。かなりおっとりした方のようです」
「まじで? あんなつんけんした感じなのに。それって胡蝶さんと付き合ってから?」
「いえ、元々そういう方だそうですよ。宇髄さんはド天然だと」
「いや、まじで? うわー意外。全然想像できねえわ」
 社内では厳しいと評判だったはずで、後藤も怖そうだと思っていた。胡蝶の人当たりの良さに感化されたわけでもなく、仕事が絡まない冨岡は穏やかで静かな人らしい。まあ静かだというのは関わらなくても知っていたが。
「しのぶ先輩は割と気が強いですから、あれくらい穏やかな方のほうが合ってるのかもしれません」
「見ただけじゃわかんないなあ、絶対胡蝶さんのがおっとりしてそうに見えるし」
 まあ後藤は直属なので胡蝶の気の強さはすでに知っているのだが、あの柔らかい笑顔に騙される、いや隠した性格は一般社員にはあまり知られていない。書類を渡すついでに飲みに誘われる様子を見るのも日常茶飯事だったが、すっぱり断った後は少々面倒そうに溜息を吐く姿もよく見ていた。
「先輩はしっかりされてるんですが、抜けてるところもあって。天然同士で補い合ってくださるのを期待してます」
「あー……そうね。胡蝶さんもたまによくわからないことしでかすし」
 頻度はあまり高くないが、胡蝶は胡蝶で天然なところがあると部署内では周知されていた。フロアに置かれた観葉植物に妙な名前をつけたり、それをおかしいとも思っていなかったり。仕事や生活に影響が出るようなものではないようだが、プライベートの胡蝶を見たことがないので本当は影響があったりするかもしれない。冨岡なら胡蝶の天然ぶりを知っているだろうと思うが、向こうも天然だというので把握しているかは怪しかった。
「周りの妬み気づいてるのかな」
「……しのぶ先輩は気づいてます。わかっていて冨岡さんと過ごされるので」
「おお、もしかして嫉妬深かったりする?」
「そこまではわかりません。当たり前ですが面白くはなかったようですけど。縁談も女性社員からの視線も」
 それは確かに。後藤だって彼女がいたとして、言い寄る輩や要らぬ縁談などあれば気分も悪くなる。その点冨岡は思わなかったのだろうか。胡蝶も声をかけられることが頻繁にあるし、煉獄との交際を勧められた過去もある。
「何というか、まあ、良かったなって感じだな」
「そうですね。冨岡さんも嬉しそうに見えますし」
 そうなのか。後藤に見えない冨岡の様子は神崎には見えているようだった。やはり飲みに行く回数が増えればきちんとわかるようになるのだろう。
「アオイ、頼んでいた資料は準備できていますか? 竈門くんに渡してください」
「失礼します、お疲れ様です!」
 会議から戻ってきた胡蝶の後ろから竈門が元気に挨拶をした。神崎はすでにデスクに用意していた書類を持って立ち上がり、竈門へと手渡す。その間に胡蝶は一服のお供として購入していた菓子へ手を伸ばした。
「どうぞ。皆さんと食べてください」
「あ、ありがとうございます」
 竈門は冨岡の部下で神崎と栗花落とも仲が良いからか、胡蝶は見るからに可愛がっている。滅多と部署に現れないが、たまに来たらこうして餌付けのように菓子を手渡していた。
「わあ、これ義勇さんが唯一自分から手を出すやつです。一口サイズで甘くなくて良いって言ってました」
 差し入れを貰ってもいつも誰かに食べさせようとするか、残り物を勧められてから思い出したように口にするのだそうだ。竈門の言葉にほんの少しだけ肩が反応し、笑みを浮かべているが少々眉が顰められていた。胡蝶が少し前からよく買ってくるようになった菓子だったが、ひょっとしてそういう意図があったのか。
「そうでしたかね。よく覚えていませんが」
 何だか素っ気ないことを口にしたが、照れ隠しだろうと後藤は察した。別に仲が良いところを隠さなくなったのだから良いと思うが、人から指摘のように突っ込まれるのは恥ずかしいのかもしれない。
「デスクの上に置いてもずっと放置されるので、包装を破いて口元に持っていくと食べてくれるようになりました」
 竈門の容赦ない押し付けに諦めたのではないだろうか。部下から食べさせられる冨岡を想像するがいまいち上手く浮かばなかった。口に突っ込めば食べると煉獄から教わったそうだが、あっちも大概コミュニケーション能力が群を抜いている。笑いを堪えきれなかったらしい胡蝶の肩が小刻みに震えていた。
「あんまり甘やかさないでくださいね」
「いえ、甘やかされてるのはこっちです! いつも色々気にかけてくれますし、この間も俺の仕事が終わらなくて残業させてしまって」
「部下を見るのは上司の仕事ですよ」
「それはそうだと思うんですけど」
 竈門は冨岡を慕っており、少人数の部署内は仲が良いということは噂に聞いていた。あれだけ寡黙な冨岡にも臆せず向かっていくのは素直に凄い。そして尊敬しているらしいことも伝わってくる。部署内で甘やかされる冨岡を想像してみても、やっぱり上手く思い浮かばないのだが。
「冨岡さんを甘やかすのはしのぶ先輩の役目ですから、炭治郎さんは控えてください」
「アオイっ!」
「あ、そうか、成程。すみません」
 神崎のぶっ込んできた言葉に胡蝶の頬が染まり、声を荒げて慌て始めた。部下となってしばらく経つが、これほど狼狽えて照れる胡蝶を見るのは初めてだ。さすが長年の後輩、神崎は胡蝶をよくわかっているようだ。
「そういう意味じゃないですから! 空腹は脳も働かなくなりますし、自分で食べるよう促してくれたら良いんですよ」
「成程。自発的に食べるようなものを用意しておけば、」
「後藤さん?」
 つい口を挟んだ後藤に頬を染めながら青筋を立てて笑みを向けるという器用なことをやってのけた胡蝶に、背筋が冷えて後藤は謝った。仕事中ですよ、と竈門と神崎に一言告げて胡蝶は席へと戻っていく。
「……部下に手間かけさせないよう言っといてください」
「大丈夫です、義勇さんの性格は俺たち皆わかってますから!」
「そうですか。口下手をわかってくれるからと胡座をかくのは駄目ですから、ちゃんと注意してくださいね」
 上司に注意はし辛いと思う。竈門は本当にわかったのか怪しい溌剌とした了承の返事をして、菓子と書類を手に部署を去っていった。
 あいつが去ると部署内はまた静かになった。少しばかり調子に乗って口を挟んだのは反省しているし、できれば小言を言わないでほしい。後藤はすぐに業務へと戻ろうとした。
「お菓子のことは偶然ですから」
「あ、はい……」
 そういう気遣いとして購入していても構わないと思うが、胡蝶は照れたように唇を尖らせていた。こんな姿をファンの社員が見たら卒倒しそうだ。そういう目で胡蝶を見ることのない後藤でも思わず目を奪われるくらいに可愛い仕草だった。
 何というか、あてられたような気分だ。幸せそうだな、と後藤はぼんやりと胡蝶を眺めて心中で呟いた。