そっちじゃない!

 毎日毎日やばいくらいの妬み嫉みの視線を一身に受け、後藤は正直参りかけていた。
 新部署に異動の話が舞い込んで来た時、給与も上がると聞いて二つ返事で了承した。後藤は一般社員ではあるがベテランと呼ばれる域に達していたし、後方支援という名のサポートは得意である。密かに憧れていた珠世からも声をかけてもらえたし、上司は自分よりも若い女性ではあるが、胡蝶は物腰も柔らかく美人だ。更にいえば後藤以外に部署内に男がおらず、実質ハーレム状態である。神崎も栗花落も胡蝶と仲が良く、会話をしている様は華がいっぱいで目に優しい。そんな新部署での業務に当初はばたばたと残業も嵩んだものだが、最近は落ち着いて少しの時間雑談をする余裕もできてきた。
 慣れてくると見えていなかったものが見えてくる。忙しさに目をまわして気づかなかった男性社員からの視線。羨望ならばともかく、刺すような敵意や何なら殺意のようなものまで混じっている気がするのだ。怖すぎる。
 わかるよ、わかる。胡蝶は美人だと持て囃されているし、実際近くで見ても驚くほど美人だった。神崎も栗花落も可愛らしい若い女の子。羨ましがられるのも無理はないし敵意を向けられるのも理解できる。彼女たちに近づけない有象無象が血の涙を流しているのも。
 見えてくるものはそれだけではない。直属の上司になって初めて知る胡蝶の素顔は、後藤にとっては背筋を凍らせるようなものだった。
 淑やかで穏やかで、大和撫子だと思っているのは社内全員だと思う。後藤だって否定しているわけではない。ただ胡蝶は、はっきりいって気が強い。後藤が怯えるほど怖い時があるのだ。
 胡蝶が怒っている時、彼女は笑顔で青筋を立てる。嫌味のようなものも口から飛び出る。笑顔で拳をぶんぶん振り回している時はさすがに顔色を変えた。
 怒りの収まらない胡蝶の様子に神崎と栗花落ははらはらと心配そうに見ていたりする。だが不用意に触れると彼女たちといえど危険であることに変わりはない。後藤など以ての外で、ちくちく嫌味を向けられるのを回避するために関わらないよう遠巻きにして、落ち着くまで放置したりする。用事のある時は刺激しないよう気をつけて声をかけるのだが、まあ当たり散らして怒鳴るということがないのでまだましだったりする。社内には八つ当たりする上司もいたりするので。
 それに。
 これは後藤も確信を持っているわけではないのだが。
「胡蝶」
「はい? あ、この間の。判子ですね、お待ちください」
 最高に怒って拳を振り回していた胡蝶が、冨岡が来た時に空気が和らいだのを見たのだ。
 他部署の同僚だからかと思ったが、宇髄が来た時は拳から青筋に変わっていただけだったし、珠世に対しては溜息を吐きながら愚痴を溢していた。冨岡に対してだけ、ほんのりと嬉しそうな気配に変わった気がした。
 新部署を立ち上げてから冨岡がこちらに来ることはほぼなく、その時が初めてだったはずだ。判子を貰いに来たのも会議から戻るついでだったようで、その後顔を出したことは未だにない。
 ううん、これは。そういうことなのか? 胡蝶は冨岡のことが好きなのだろうか。まあ確かに、見栄えもするし若い役職付きで、二人とも有能な社員である。お似合いだと思うけれど。
 もしくっつくことになったら後藤は祝福するけれど、周りは黙っていないだろうなと思う。いや、相手が冨岡ならば有象無象も黙るかもしれない。何せ出世頭の一角だし、仕事ができて見た目も良い。冨岡を狙う女性陣からも妬み嫉みが凄そうな気もするが、胡蝶ならば軽く躱しそうな気もする。
 春だなあ。後藤はそんな予定など全くないけれど、周りはこうして出来上がっていくのだろう。別に独り身が嫌というわけではないが、何となく羨ましくなった。

*

「そう言わずに、せめて一度だけ! 素敵なお嬢さんなんだよ」
「いえ、お断りします! 今結婚に興味がありません」
「失礼します……」
 扉を開けると見知った後ろ姿が視界に入り、しのぶを見た社員が慌てて手招きした。
 何だか嫌な予感がするが、自分より立場が上の役職付き社員の呼び止めを断るわけにもいかず、お疲れと声をかけてきた煉獄へと挨拶を返した。
「胡蝶さんにも話があってね、うちの取引先の社員さんなんだけど、エリートで優しくてね。どうお見合い。興味ない?」
「ないですね。申請の書類をいただいても?」
「胡蝶さんなら選り取りみどりだよ、せめて写真」
「すぐ戻らないといけませんので」
 聞く気のないしのぶの言葉に社員は意気消沈し、書類を出して手渡した。煉獄にも別の書類を渡していることから、最初からこれを言うつもりで呼んだのかとしのぶは勘繰った。よくあるんだと煉獄がひっそりと呟き、しのぶへと笑みを向ける。
 宇髄の結婚式の二次会で彼氏がいるとは宣言したが、恐らくあまり広まってはいないのだろう。宇髄など彼女がいてもお構いなしだったらしいし。
 まさか自分にも見合い話が舞い込んでくるとは。あまりに多ければ断るのも骨が折れる。面倒くさい。
「せっかく良い縁談なのになあ……二人とも理想高い? ……あ、そうか。見合いというのが駄目なのかな。煉獄くん、胡蝶さんとかどう? うちの社員なら顔も知ってるし仲も良さそうだし、付き合ってみたら良いんじゃ? うん、それが良い! どうかな二人とも!」
「それは駄目です! 口を利いてくれなくなる!」
「胡蝶さん狙いの子たちに? 大丈夫だよ煉獄くんなら。どう胡蝶さん、将来有望な煉獄くんならお眼鏡にかなうでしょ」
 慌てた煉獄が必死に声を上げるが、社員は気にせずしのぶへ煉獄を勧めてくる。とんでもない話を勧められた。煉獄の慌てぶりにしのぶも焦り、唖然としたまま声を上げた。
「煉獄さんがどうというわけではなく、お付き合いしてる方がいます! 申し訳ありませんが無理です!」
「煉獄くんより良い人なの? なかなかいないよこんな人。お試しでも良いから考えてみてよ、二人なら皆祝福すると思うし、良い人との結婚は人生を豊かにするよ」
 あなたも知っている人ですよ。しのぶは言いかけたが踏みとどまった。言っても良いのかもしれないが、冨岡がどう考えているのか再確認していないのに言うわけにもいかない。
 しのぶの仕事はひと段落し、ようやく軌道に乗りかけたところだ。残業も何とか落ち着いてきて、そろそろその話を持ちかけようかと考えていたところだった。
 どうしてこういう時ばかりは噂がまわるのが早いのだろうか。
「胡蝶さん、煉獄さんと付き合ってたんですか?」
「そうだったんですか!?」
「なわけないでしょう……」
 部下である後藤の問いかけと神崎の驚愕した声に、しのぶは頭を押さえて絞り出すように否定した。あるわけがない。冨岡の友人が煉獄なのに、彼はしのぶと冨岡の関係を知っているのだ。
 総務でのやり取りは瞬く間に広まり、尾ひれがついて煉獄との結婚を報告に行ったとまで噂されている。女性陣の妬みの視線が思いきり向けられるなか部署へと戻り、げんなりした顔を見せて溜息を吐いた。
「煉獄さんは同僚ですよ。相談も聞いてくれる良い先輩です」
「そうなんですか……そうですよね……」
 神崎の様子にしのぶは首を傾げたが、これはもうどうしようもない気がする。黙っていたら煉獄に迷惑をかけたなど冨岡も気に病むだろう。せめて煉獄との噂はなくさなければならないが、そのための案は一つしか浮かばなかった。

「……結婚するか」
「まあ、そうなりますよね」
 少しもロマンチックさの欠片もないプロポーズでも、しのぶは少々頬を染めた。
 しのぶの仕事は落ち着いたし、そろそろ話をしようとしていたのだからおかしくはないし待っていた言葉だ。まあ必要に駆られて言ったような気もしてどうかとは思うが、周りが変に騒いだのが悪い。煉獄が目立つ出世頭なのも悪い。いや、悪くはないのだが。
「仕事は落ち着いたんだな」
「ええ、後藤さんもきっちり仕事をしてくれますし、アオイもカナヲも頑張ってくれて何とか」
 そうかと口にした冨岡は、壁に掛けられたカレンダーを眺めて挨拶と呟いた。仕事が落ち着いたら挨拶に行くというのは以前から言っていたことである。冨岡の部署の繁忙期も終わり、長期休暇もそろそろだ。
「次の長期休暇にします? 別にすぐ向かっても良いですけど。旅行券まだ使ってなかったですし、ついでに観光するのも良いですね」
「煉獄のことを思うと早いほうが良いのかもしれないが……」
「そうですね、口を利いてくれなくなると慌てていましたし。何ですかそれ、口利かなくなるんです?」
「そうだな。さすがに煉獄でも」
 ふうん。煉獄といえどしのぶが取られるのは嫌らしい。そうかそうか。緩む口元を隠しもせずしのぶは機嫌良くスマートフォンで予定を確認した。
「報告したらもう社内で声かけても良いですよね。仕事終わったら一緒に帰りましょうよ。お昼も一緒に食べません? アオイたちは竈門くんと仲良いですし、皆で食べるのも良いですね」
「……我慢してたのか?」
 しのぶの提案を聞いていた冨岡が眉を顰めて問いかけた。固まったしのぶは言い返すことができず思わず頬を染めてしまい、それを見ていた冨岡は笑みを浮かべたものの、ごめんと謝罪を口にした。
「別に、黙っていたのは周りがどんな反応するかわからなかったからでしょう? 良いですよ」
 しがみつくように冨岡の腰に抱き着くと、宥めるように背中を擦られた。少々可愛げがない答え方をしてしまった気がするが、しのぶに可愛げがないことなど冨岡は知っているだろうし、気にしないでもらいたい。
「でも、結婚したら定時で仕事を終わらせるようにしないと。あなたのお世話もありますから」
「俺の世話は別に、」
「必要ないとかは聞きません。お世話したいだけなので」
 勝手がわからなかったからというのもあり、仕事が落ち着くまでの間、忙殺されて疲れきって何もできなかったので、今後はそういうことは避けたかった。責任を負う立場になってしまっては仕事をセーブするなどということもできないだろうが、既婚者で管理職である珠世ならばアドバイスがもらえるかもしれない。
「ふふ、楽しみですね」
 噂を信じた者たちの度肝を抜くのが。まああまり驚かれない可能性もあるが、総務は恐らく驚くのではないだろうか。いい加減冨岡に縁談を持ってくるのも不満に感じていたところである。早く長期休暇にならないかとしのぶは待ち遠しくなった。