昇格
「少なくとも来年以降、本社での勤務があるでしょう。管理職研修もその時に。それまでに学ぶべきものは学んで成長できるようこちらもサポートいたします」
「本社勤務……」
一年間の本社勤務と管理職研修。はっきりいって実感がない。しのぶに後輩ではなく部下ができると上司は言うのだ。今すぐというわけではないが、今聞かされたしのぶとしては早すぎるし荷が重すぎると感じてしまう。
新部署立ち上げの話は噂には聞いていたが、まさか自分がそのメンバーに推薦されていたとは。しのぶが思う必要な人材を部下につけるというのも何だか冗談にしか聞こえない。まさか珠世の独断ではないはずなのに、何だか疑ってしまった。
「会議で何人か候補は上がりましたが、我が社は管理職も年齢層が若いです。胡蝶さんのような方に任せれば柔軟な視点で活躍してくれるのではないかと。勿論サポートは万全にしますから、困ったことがあれば何なりと教えてください」
困惑しているのが手に取るようにわかったのか、珠世は少し申し訳なさそうな顔をして口角を上げた。
「今すぐというわけではありません。この話は一般社員にはまだ知らされていませんし、今なら断ることも可能です。よく考えてみてください」
考えろと言われても、自分がそんな責任を負うなど考えたこともなかったし、全うできるとも思えない。珠世でさえ役職についたのは長年社歴を積み上げて、しのぶが入社する一年前だったという話だし、実績があろうと宇髄と冨岡は早すぎると言われていたこともあるらしい。社歴も浅く女性であるしのぶは何を言われることになるやら。まあ陰口は大して気にしないが、それよりも実力不足になるのではという不安しかなかった。
「適任だと思う」
顔を強張らせて悩んでいたしのぶに冨岡は呟いた。
評価は聞いていたのかもしれないが、しのぶの仕事ぶりなど見たことがないくせに無責任な。睨みつけても大して顔色は変わらず、頬杖をついてしのぶを眺めていた。
「今年の人事異動は補充だ。元々新部署有りきで話が動いてる」
新卒以外に異動があるのも珍しいことではないのかと思っていたが、将来性を見越して栗花落がこちらへと異動になったらしい。しのぶの後輩になったのはもしかして、相性や向き不向きを確認できるようにするためのものだったのかもしれない。そうだとしたら早い段階からしのぶを認めてくれていた可能性があった。
そんな。ちょっと嬉しいのが癪だ。
「……冨岡さんて本当に上司なんですね」
眉を顰めてしのぶを見る冨岡が、どういうことだと問いかけた。
詳しい仕事の話は今まで大してしなかったし、まあ話自体自分から振ることはあまりないが、少々寂しかったのだ。揶揄うような言葉を言ったが、上司と部下という関係がそれに表れているように感じていた。
「言えないこともあるが、……つまらないかと」
「言われたことがあるんですか?」
「……まあ」
言えないこと。歓迎会の日に言っていたことか。ああ、成程。しのぶの昇格の話を言えず誤魔化したが、それでも恐らく気にかけて妙な問いかけになったのだろうと思い至った。何かあったらってこういうこと。呆れてつい笑ったしのぶが何に笑ったのかわからなかったようで、冨岡は首を傾げて視線を向けていた。
「それって仕事の話とかじゃなくて、冨岡さんの話がつまらないんじゃないですか?」
心外そうに顔を歪めたものの、顎に手を当てて考え込み始めた。冗談だと吹き出しながら口にしても納得できないらしく、恨めしげにしのぶへ目を向けた。
「私は話してくれるなら何でも良いですよ」
まあ長々とした話はお断りしたいところだが、冨岡ならばそれでも耳は傾ける。取り留めのない話でも冨岡が喋りたいのなら聞くつもりはあったし、それでも良いから話してほしいというのは本心だ。
しのぶが同じ立場になったら、こうして同じ課題に頭を悩ませることができるようになるかもしれない。それはそれで悪くない。むしろ良いなとぼんやり考えた。
「本社勤務になったら会えなくなりますね」
「何だかんだと本社に行く機会はある」
「今でさえ会社で会わないのに、顔を見られるかわかりませんし」
「行きたくないか」
正直にいえば急すぎて、行きたいとも行きたくないとも思っているのだ。しのぶの評価は有難いもので、冨岡と対等な立場になれたらそれは嬉しいものだ。一方で経験も実力も足りていないとも思っているし、冨岡を見ていると今までと同じような定時上がりの生活ができるかもわからない。
「………。ご飯を気にしてたのはこれですか」
「本社勤務はともかく、管理職になれば忙しさも倍増する。特に新部署は前例もない。負担になることはできるだけ減らすべきだ。俺では頼りないかもしれないが」
「……そんなことないです。嬉しいですよ、ふふ」
挨拶の話も何だか言わなくなったと感じていたのも、しのぶの仕事に起因している気がして口元がにやつくのを止められなかった。不安もあるしまだ受けるかどうかも決めきれていないが、妙に嬉しくてたまらなかった。
「でも本社勤務ですか。引っ越し面倒だなあ……一年も余分に家賃払い続けるのは無理ですし、隣には戻って来られないでしょうね」
冨岡の給与ならば余裕なのかもしれないが。ぱちりと目を瞬いた冨岡は、少し変な顔をして視線を彷徨わせた。何を考えていたのか問いかけると、渋々といった具合に口を開く。
「……一緒に住むと思ってた」
しのぶの目が丸くなりすぐに言葉が出なかった。
まあ確かに、すでに半同棲のような状態になっていることは自覚していたが。
本社から戻ってきたらそのまま一緒に住んで、昇格の話を蹴っても以前から話していたのだから挨拶には行くし、行ったら一緒に住むだろうしと。そうだろうか。まあとにかく、どちらにしろ部屋を引き払って同棲することには変わりないと思っていたようだ。
「お前の仕事が軌道に乗れば生活も落ち着くだろうから、その後に実家に行く」
「………、昇格しなければ?」
「すぐにでも挨拶に行けるな」
やはり実家への挨拶は様子を見ていたのだろう。冨岡の脳内で考えていた計画を聞かされ、しのぶは睨みつけたものの口元が緩んで収まらなかった。一人で考えて黙っておくなと思うが、まあ今回は言えなかったのだから仕方ないとも思い直した。
情緒も何もないプロポーズともいえないようなものではあったが、しのぶはそれでも充分だったし嬉しかった。
*
一年間の本社勤務は充実したものだった。
家賃の安い社宅に住み、本社にいる甘露寺とはよく家を行き来したり飲みに行ったりとできたし、その間伊黒や不死川も良くしてくれた。たまに煉獄や宇髄、冨岡も本社に顔を出して見かけることはあったし、以前の住居は気に入ってはいたが単身者用だったので、戻ってくる時の新居も一緒に見に行った。引っ越しも無事済んでひと息ついて笑い合い、後はしのぶがしっかりと仕事をこなせるようになるだけだと気合いを入れた。
結局管理職として新部署に異動した時、冨岡たちもまた昇進してしまったので上手く対等とは行かなかった。だが一般社員だった頃よりは理解し合えるだろうと思うし、冨岡も相談くらいはしてくれるのではないかと期待していた。
そう、管理職の忙しさ、辛さは見ていて少しはわかっていると思っていた。すぐに慣れることはないだろうけれど、せめて部下となった後輩たちには格好悪いところは見せたくないし、冨岡にも心配させたくなかった。一番近くで見ていた冨岡がそうそう愚痴を溢さなかったことは、本人の寡黙さが原因だとは思っていたけれど。
こんなにしんどいなんて、さすがに想定外だったのだ。
まだ日は浅いものの、しのぶは何とか新部署を軌道に乗せるために試行錯誤していた。前例がないとはいうがそういった新たなプロジェクトを任された者もいて、アドバイスやサポートを受けてどうにか日々の仕事を捌いていた。指示を受けて業務をこなすのは部下の仕事であり、しのぶは指示をする側として今過ごしている。教育係で慣れたかと思ったが、これが考える以上に負担で不安になるものだった。
自分の指示一つ間違えば大変な損失になる。そのプレッシャーもまた心身を疲れさせる原因で、むしろそれが一番ストレスだった。誰かがミスをしたとか、頼んだものがまだ来ないとか、そんなことは尻拭いする、直談判するで解決できる。こんな責任に耐えながら皆仕事をしていたのか、としのぶは疲れきったまま冨岡や宇髄たちの顔を思い浮かべた。
ああ、食事を作らなくて良いと言った理由がよく理解できた。
しのぶは昇格してからというもの、あまりの忙しさに目を回していて帰ってもすぐに疲れてベッドに飛び込むことが多くなっていた。慣れない仕事に泊まり込むことも増えてきて、自分で食べることすら面倒で、冨岡に食べろと言ったにも関わらず用意できないことが増えてきていた。やればやるほど自分は駄目なのではないかと落ち込むこともあり、しのぶは疲れきった頭のままぼんやりとデスクに突っ伏した。
冨岡の配慮は有難い。有難いのだが情けない。しのぶでは上手くいかないと思われていたとしたらこの配慮も頷ける。普通の精神状態であれば冨岡がそんなことを思うことなどないと考えるが、今しのぶは疲労に瞼も上げられなかった。やはり力不足だったのだと少々涙が滲んできた。
「怖かったなあ……」
初めて参加した管理職会議で、最初こそしのぶは温かく迎えられた。期待していると激励やプレッシャーをかけられもしたが、当たり障りのない言葉を返して席についた。利益の話や今後の見通し、様々な議題に会議が進んでいき、最後に仕事中の部署の様子を聞かれた。社員の管理も仕事のうちだということはわかるが、役員からの嘲笑するような態度はしのぶも苛つきを覚えた。
「直属の部下とはいえ過度な贔屓などしないように。肩入れする者がいても不当な評価は駄目だよ」
勤務態度や仕事ぶり以上の評価をつけるのはいけないと役員が笑う。冨岡の空気が少し重くなったのをしのぶは感じた。
冨岡だけではない。宇髄や煉獄も空気を澱ませていたように思う。これは会議で毎度のことなのかしのぶにはわからないが、気分を害している者は多数いた。
「特に冨岡くんとこなんて高卒の子がいるからね、仲も良いらしいし。可愛いのはわかるけどあんまり贔屓しちゃ駄目だよ。ああ、胡蝶さんとこにも若い子いるのか、」
「不当な評価を提出したつもりはありません。実績と勤務態度を踏まえた正当なものです」
「あ、そうかい? まあきみも若いから歳の近い子は評価してあげたいんだろうけど。きみんとこは少数精鋭だけど、結果出なかった社員もいるだろ? 評価見たけどちょっと高いんじゃないかなあ。尻拭いしてるんでしょ、あれじゃ昇給は考え直さないと」
「全て妥当だと判断しての評価です」
冨岡の眉間に皺が寄っていくのを気づいていないのか、役員は好き勝手に文句を口にしていく。将来性を見込んでお情けで承認してくれたのを勘違いしないよう、などと続けた役員に、善処すると一言告げて冨岡は黙った。
「あとまあ、社内で昼ドラ展開なんて困るからね。きみたち三人なんて女性陣から人気があるし、ほら、胡蝶さんも若いし美人だから」
だからなんだ。思わず席を立って声を荒げたくなったしのぶは、何とか抑えて我慢した。初っ端からこんなことではこの先が思いやられるが、耐えられるものとそうでないものがある。
これは言い返して良いものなのか、良いのなら立ち上がって良いか。思いきり水をぶっかけたいけれど、新参のしのぶでは角が立つだろう。いや、誰がやっても角は立つだろうけれど。
「彼らも胡蝶さんも、礼儀も倫理も弁えたしっかりした方です。そういった心配は無用かと」
「あ、そう? まあ珠世さんが言うならそうなのかな? 上司に見えないところじゃわからないけど」
「そんな予定はありませんが、肝に銘じておきます」
笑みを向けて役員へついに言葉を発したしのぶは、できる限り当たり障りのないものを口にした。
会議が終わると冨岡は珠世に声をかけられ部屋を出ていった。
部下のためにあんな顔をするのか。険しい顔自体は見たことがあったけれど、仕事で関わることなどなかったせいか普段の穏やかな顔とは全く違う表情に驚いて、少しばかり躊躇った。
「お前空気が怖えよ」
「え?」
会議室から出たところで宇髄に声をかけられ、しのぶが顔を上げると煉獄もそばで笑みを見せた。
「気の強さ隠せてねえからな。普段の会議にあのおっさんはいねえから安心しろ、今日だけだ」
期の初めだからだと口にして、次に現れるのはまた来年のこの時期の会議の時だと言った。それは非常に助かる。毎月いられてはしのぶのストレスがとんでもないことになりそうだ。
「冨岡も別に毎回言われてるわけじゃねえ、むしろ普段の会議じゃ俺らも褒められる側だからな。役員様ってのは現場の様子は書面や上辺でしか見てねえもんで、更に若いから文句を言われやすいんだ。お前も気をつけろ」
「冨岡が引き止めてくれて助かったようなものだぞ。宇髄に話が逸れていればもっと収集がつかなくなっていただろうからな」
「引き止める、て」
宇髄と煉獄がしのぶの顔を見つめた時、しのぶの部下のことを話しかけた役員のことを思い出した。胡蝶に話を振ってもえらいことになりそうだと宇髄が笑い、煉獄に肩を叩かれ歩き始めた。
部下のことを怒っているのだと思っていたが、しのぶのことまで考えていたのだろうか。そんなところにまで気をまわさず自分のストレスのことを考えれば良いのに。
冨岡の空気は怖かったけれど、しのぶでは言い返してしまいそうで確かに助かったのだ。帰ってから礼を告げると何のことだと首を傾げたが、冨岡が愚痴を言わないのでしのぶは自分が言うことにした。只管役員の文句を言い続けて黙って頷き肯定する冨岡に、やっぱり積もり積もっていたのだろうと呆れてしまったが、性格的にも言えないのだろう冨岡の代わりに文句を言ってやることにしたのだ。
早く帰りたい。帰って頭を撫でて抱き締めてほしい。甘えられるのは嫌いじゃないのだが、しのぶが役職に付いてから冨岡はどちらかといえば甘やかすような行動を取るようになった。何扱いなのかわからなかったが、有難く甘えることにし始めたのはここ最近だ。
「いたか」
「え? 、冨岡さん? 残業だったんですか?」
すでに人のいないフロアでしのぶは一人残業していたが、まさか誰か残っていて、それが冨岡とは思わなかった。
まだ付き合いを隠している身として、社内で話すことは相変わらず殆どない。こうして冨岡が部署に顔を出すのは誰もいないとわかっているからだった。
「……これは?」
デスクまで近づいた冨岡が包みを置き、しのぶは首を傾げてしげしげと眺めた。この包みは見覚えがある。しのぶが毎日使っていた弁当袋だ。最近は作る気力もなく食堂で食べるようになっていたが。
「弁当だ」
「見ればわかりますけど……もしかして作ってきたんですか? お昼食べ損ねました?」
「お前の分」
「へ、」
思わず顔を見上げると、冨岡は相変わらず愛想のないまましのぶを見下ろしていた。
しのぶは昨日も会社に泊まり、新居に帰ることもできなかった。少々罰が悪そうな顔をして冨岡が口を開く。
「姉に色々聞いてみたが、元々料理は苦手だ。美味いとは言い難いが。食べたいものがあるなら買いに、」
「何言ってるんですか、差し出したものを引っ込めるのは駄目ですよ!」
隠すように弁当を抱え込むと、冨岡は目を丸くしたあと隣の椅子へと腰掛けた。ひと段落ついたのかと問いかけられ、一応としのぶは答えた。
まだまだやることはあるが、今日しなければならないものは終わらせた。明日また頑張れば良いから冨岡のいる家に帰りたい。その前に弁当の包みを解いた。
「ありがとうございます」
「……うん」
朝に作ったものを先程レンジにかけてきたらしく、蓋を開けると湯気が立っていた。おかずは焦げて歪な形をしているが、しのぶは泣きそうな気分になりながら笑い声を漏らした。
「あーんもう……写真撮っても良いですか」
「嫌だ」
「貰ったものはもう私のものですから、私がどうしようと勝手ですよね」
「なら聞くな」
冨岡の気遣いが疲れきったしのぶの心に染み入ってしまった。料理が苦手で忙しいくせにしのぶに弁当を作ってくれる。夕飯を食べたのかと聞けば、まだ食べてないと言うのだ。自分の分も作ってくれば良いのに、しのぶの分だけ作ってきたらしい。
「一緒に食べましょうよ。ほら、あーん」
「食べられなかったものを食べる」
「そんなこと言ったら全部食べちゃいますから。……うん、焦げてるけどちゃんと美味しいですよ」
姉の味付けなのだろう控えめな甘さの卵焼きを頬張り、しのぶは素直に感想を告げた。疑わしげに眉を顰めたものの、食べたことに満足したのか冨岡は笑みを見せてしのぶを眺めていた。