三年目の春、歓迎会で

「栗花落カナヲです。よろしくお願いします」
「可愛いー!」
 照れたように恐縮する栗花落は可愛らしく、男性陣の鼻の下が伸び切っているのが見えていた。
 栗花落は正確には新人ではなく、社歴でいえば神崎と竈門の同期である。本社からこちらへ異動してきてしのぶの後輩として配属され、部署のことは知らないから教えてほしいと栗花落が口にした時、神崎は目に見えて張り切っていて微笑ましかった。
 歳は竈門と同い年、まだ未成年なので周りも無理に酒を飲ませることもできず、甲斐甲斐しくソフトドリンクや料理を取り分けている。これら全てが男性社員の自発的な行動だ。
 自分が好意を抱く相手に気に入られようと必死になるところは男女に違いはなく、年齢や性格でその差が表れる。しのぶ自身目をつけられた過去があるので、栗花落のことも気にかけておくよう気を引き締めた。
「——お願いしますね。あ、ありがとうございます、持っていただいて。お疲れ様です」
「やっと来た! 冨岡さん、珠世さん、お疲れ様です!」
 歓迎会の場に遅れて冨岡としのぶの上司である珠世が揃って顔を出した。何やら珠世の荷物を持っていたらしい冨岡は彼女の言葉に頷き、鞄を置いた場所に荷物を下ろしてそのまま空いている隣へと腰を下ろした。
「冨岡は生で良いよな。珠世さんは何を?」
「私はウーロン茶で」
 村田の言葉に二人が顔を上げ、答えた後は何やらまた会話を再開させている。周りはちらちらと二人を眺めているが、恐らく仕事の話をしているのだろう。
「良いよなあ、珠世さんの部署。美人だらけだし目の保養。毎日羨ましいわ」
「栗花落さんも入ったしなあ、ちょっと不公平だよな」
「えー、私は宇髄さんとこで目の保養してたい。一番好みの顔」
 好き勝手な話をしながら歓迎会は進んでいく。ソフトドリンクを飲みながら竈門や神崎と話す栗花落を眺めていると、去年のように上司に挨拶に行こうと神崎が栗花落を誘った。どうやら遅れてきた直属の上司である珠世と冨岡のところへ行くようだ。
「俺もお酒注ぎに行きます」
 同期というのはそれだけで結束が生まれ、三人はすでに仲良くしているようだった。神崎は世話焼きで、竈門も人当たりが良く周りに気を配る子だ。栗花落はまだどんな子かは把握していないが、二人がいるなら大丈夫だろうとも思う。
「お疲れ様です、義勇さん!」
 ぎょっとした神崎の顔が目に入ると同時に、その場で聞いていた面々が驚いたように竈門を見つめた。しのぶ自身驚いたが村田が苦笑いをして頭を押さえたのが見え、宇髄は目を丸くして眺めていた。
「えっ、名前っ、竈門くんと冨岡さんてそんな仲良いの!?」
「冨岡さんを下の名前で呼ぶって中々ないな。あいつ凄えな」
 眉を顰めた冨岡が竈門へ物言いたげにじとりと視線を向けたものの、困ったような顔をして勧めてくる酌を受け入れた。
 村田が曖昧に笑っているのだから、恐らく部署内では以前から呼んでいたのだろう。全く、しのぶもまだ呼んだことがないというのに。
「竈門」
「すみません、間違えました! 気をつけます」
「どういうことだよ」
 宇髄が村田へと問いかけると、口を引き攣らせながら話し始めた。
 冨岡の考えていることがわからない時があり、もう少し仲良くなりたいと竈門から相談を受け、冗談として村田は下の名前で呼ぶことを提案してしまったらしい。真に受けた竈門はある日を境に冨岡を下の名前で呼び始め、当初は冨岡もやめるよう注意していたのだが、面白がった部署の面々がやめなくて良いと助長させたそうだ。諦めた冨岡が部署内でのみならと受け入れたのだが、今回間違えて呼んでしまったということらしい。何だそれは。
「珠世さんは何人も名字が同じ人いるからって下の名前で呼ばれてるけど、まあ慣れてないとびっくりするよな。俺もまじで呼ぶと思わなくて」
 部署内は今冨岡を下の名前で呼ぶことがブームになっているようで、割と仲が良いらしく少し羨ましくもなる。しかも冨岡は社内でも殆ど話をしないと評判の、関わりのない者からは距離を置かれたりする上司だ。今も厳しい冨岡しか知らない者は恐れ知らずだと竈門に尊敬の念を向けていた。
「まあでもおかしくはありませんよね。竈門くんは最近神崎さんのことも下の名前で呼んでいますし」
 距離を縮めるにはまず呼び名からということだろうか。村田のことは名字で呼んでいるらしいので、神崎は同期だからかもしれない。
「良いんじゃね。竈門のことは冨岡も好きだし、嫌だとは思ってねえよ」
「まあそうですけどね。距離の縮め方が強すぎるんですよ」
 冨岡では太刀打ちできないと村田が口にして、今も少々困ったような顔をして冨岡は竈門と話していた。

*

「たまには二次会行きましょうよ! さあ竈門くんも誘って!」
「え、うーん。無理にとは言えないので……俺は行くので義勇さんにも来てほしいですけど」
「宇髄さんも! 行きましょうよ!」
「あー、悪い、今日は帰りてえ。ほらうち新妻がいるからな」
 そうだった、と思いきり肩を落とした女性陣に笑みを向け、宇髄は冨岡に声をかけて帰っていった。
 竈門は終電までならと付き合うようだし、村田も行くのだという。村田が行くのなら冨岡も行くかもしれない、とふと考えたアオイは、胡蝶はどうするのだろうかと目を向けた。
 飲み会には参加しても二次会はあまり行こうとしない胡蝶は、よく男性陣から呼び止められては笑顔で躱して去っていく。栗花落は異動してきたばかりで勝手がわからないらしく、アオイや竈門が行くのなら行くと口にした。
「じゃあ行ってみる? 私たちも終電までにしようか」
「アオイも行くの? ならたまには私も行きましょうか」
 珠世はあまり遅くなると心配をかけると言って挨拶をして帰っていき、胡蝶の言葉を聞いた男性陣が色めき立って歓声を上げた。胡蝶は笑顔を見せてはいるがやはり面倒そうな気配を醸し出している。
「お前は帰る? 竈門なら俺が見とくけど」
「いや、俺も行く」
「やったー! ありがとうございます!」
 村田の問いかけに冨岡は二次会に参加する旨を口にした。未成年の部下である竈門のことを気にかけているというのは以前から知っていたが、今年も健在のようだった。
 まあ、胡蝶も行くからという可能性はあるのだが。
 村田とも以前話題にしていた二人がどういった関係なのかを聞きあぐねていたアオイは、二人が同じ空間にいる時よく観察するようになっていた。
 今回のように人数の多い飲み会では近い席に座ることは殆どなく、会話をしないことのほうが多い。会社でも一緒にいるところなど見ないし、やはり勘違いかと思うこともあった。ホームパーティーで少し気になる気配を感じたくらいである。
 なので二人が一緒にいるところには、できるだけアオイも行って観察したかった。悪趣味だとは思うがどうにも気になってしまうのだ。
「珍しい人が来てくれて嬉しいー。冨岡さんの隣座ろ」
「そろそろ好みのタイプとか聞きたいな。年上好きとかないよね? 珠世さんとお似合いだったんだけど」
「人妻! でも冨岡さんなら不倫でも良いわ」
 前から聞こえる会話に隣の胡蝶と背後を歩く冨岡に注意を向けた。笑みを浮かべたまま栗花落と話す胡蝶の様子は一次会の時と変わらなかった。
 二次会はカラオケで、大人数用の大部屋に通された面々は騒ぎながら部屋へと入っていく。最後のほうに並びながら待っていると、夜風で冷えたのか少し薄着で来ていたせいか、空調の風も相まって隣の胡蝶と同時にくしゃみをしてしまった。
「同時でしたね。冷えたかもしれません」
「ふふ、風邪引かないようにね。朝は暖かくてストールも持ってこなかったから……」
 顔を突き合わせて鞄を漁っていると、肩に何かを掛けられた。胡蝶の肩にも上着のようなものが掛かっており、目を見合わせた後アオイは胡蝶とともに顔を上げた。
「寒いなら使え。帰りに回収する」
 胡蝶の肩に掛かっているのはスーツのジャケットで、アオイの肩には薄いスプリングコートと呼ばれるものが掛けられていた。声をかけたのは冨岡で、移動時に着ていたはずのスーツのジャケットはなくシャツのままスマートフォンを覗き込み、電話でも掛かってきたのか耳に当ててその場を離れた。ぽかんとしたアオイは目を丸くして冨岡の後ろ姿をただ眺めていた。
「は? 格好良い」
「えー、まじかあれ……」
 見ていたらしい社員の男女双方から色んな感情の視線を向けられ、いたたまれなくなったアオイは俯いた。
 まさか自分がこういう気遣いを向けられるとは思っておらず、少々どきりとしてしまったのを反省した。
「天然でやるなよな……えっと、神崎さん大丈夫?」
「大丈夫です! 何もありません!」
「あんなんやられたら普通にときめくよねえ」
「わかる。俺までちょっとどきっとしたし」
「胡蝶さんファンから刺されそう。いや、冨岡さんだし妬まれるだけかな……」
 驚いた。優しいとは聞いていたしわかるようにはなっていたけれど、こういうのは特別な相手にだけしてほしいものだ。目を丸くした胡蝶がアオイを眺めていて、何ともいえない気分になってしまった。
「義勇さんは優しいですし、寒そうだから貸してくれたんですよね」
「あいつの親切は割と全方位だけど、こういうのはやってなかったはずなんだよな……これは駄目だな。性格でわからなくしとかないと皆えらいことになりそうだし」
 カラオケの室内で社員たちは各々曲を選んだりしているなか、村田と竈門がこっそりとアオイと胡蝶へ話を振ってくる。空調は効きすぎているようで確かに上着を貸してもらえるのは有難いが、狼狽えてしまったアオイは何とか平静を取り戻すよう努めた。
「……有難いですがあまりやると勘違いする人もいそうですね」
「特にあいつは彼女以外にやるなって言っとかないと……」
 胡蝶と村田の言葉に顔を上げると、少し困ったような顔をした胡蝶は複雑そうに笑みを浮かべた。申し訳ないような観察に徹したいような気分で胡蝶を眺めてしまい、アオイは小さく溜息を吐いた。

*

「アオイが冨岡さんを好きになったらどうするんですか」
 少々むくれた顔をした胡蝶がぽつりと呟いた。
 二次会の後返却された上着は電車内では義勇が着ていたが、最寄り駅に着き外に出ると寒さを感じたらしい胡蝶が体を震わせたので、コートを着させて帰っていた。サイズが合わず不格好で格好悪いと呟きながらも笑みを見せた胡蝶は可愛かったが、義勇はカラオケで貸したスーツのジャケットを渡すべきだったのかとぼんやり考えた。
 村田からの注意を受けた義勇は今後は気をつけると口にしたが、胡蝶はまだ気にしていたようだった。
「ならないと思うが……」
「わかりませんよ、照れてましたから」
 そう言われても、やってしまったことは仕方ないし、そもそも良かれと思ってしたことだった。寒そうにくしゃみをしたから上着を貸しただけで、それ以上の考えは何もなかった。まあ、胡蝶の後輩だから貸したというのもあったかもしれないが。
「……義勇さん」
 ぴくりと揺れた肩に気づいたのか、小言を言うのは気が済んだのか胡蝶は楽しげに笑い声を漏らした。竈門が呼んでいたのを聞いて驚いたが、竈門ならば呼んでもおかしくないと口にした。
「ちょっと羨ましいですけど、間違えちゃいそうなので呼びません」
「そうか」
「……挨拶に行く時は、そう呼ぶようにしたいですけど」
 マンションの下でオートロックを外してエレベーターに乗り込んだ時、控えめにジャケットの裾を引っ張った胡蝶が小さく呟いた。
 可愛いな。酔いなのか照れなのかわからない胡蝶の赤く染まった頬を眺めながら、月始めの会議で議題に挙がった内容を思い出した。あの話はまだ決定事項ではなく、本人にも伝わっていない。挨拶は大事だが、その後の仕事も大事である。はっきりと決まってから来てもらうほうが良いかもしれない。
 昇進の話など、責任を負う立場になると悩みも増えてくる。きっと頭を抱えることになるだろう。その時仕事以外の考え事はできるだけ減らしておくべきだと感じていた。
「冨岡さん?」
「……ああ。考え事を」
「仕事のことですか?」
 少し心配しているようにも見える胡蝶に頷くと、つまらなそうに唇を尖らせてから義勇へと笑みを向けた。忙しいのはわかっているが、と少し言い難そうに口を開く。
「あまり根詰めないでくださいね。ストレスで禿げたりしそうですし」
 何か非常に恐ろしいことを口にしたが、適度にガスを抜けと言いたいのだろう。別に抱え込んでいるつもりはない。部署内は仲が良く義勇がいなくても仕事はまわっているし、一年経って竈門も業務が滞るようなこともなくなった。煉獄は今年は本社に行ってたまにしか会わなくなったが、宇髄は定期的に話を聞き出そうとしてくるし、何より胡蝶が世話を焼いてくれる。どちらかといえば胡蝶の負担が増えているし、今後更に増える可能性がある。
 考え事をしていたのは胡蝶のことなのに。
「珠世さんと仲良いんですね」
「部下の話を聞いてただけだ」
 同じ時間に会社を出て、珠世の直属の部下である胡蝶のことを相談のように聞かされただけだ。彼女の有能な部下を新部署立ち上げのメンバーへと推薦していた時の話を。
 会議で上層部は少し驚いていたものの、周りの評価も高いし能力も申し分ないと珠世が太鼓判を押したのだ。どうなるかはわからないが、義勇としても胡蝶が実力に見合った評価を受けるのは当然のことだと思っている。責任を負うのが嫌だというなら断れば良いだけだ。胡蝶が仕事に対してどう向き合うかは胡蝶にしかわからないし、思うとおりにすれば良いと思う。
 まあ、胡蝶が管理職についた時には、今のように甘えて食事を作ってもらうなどできなくなるかもしれないが。
「何かあったら俺にも言ってほしい」
「………? 何ですそれ」
「今は言えない。仕事の話だ」
 エレベーターが止まり、通路を歩いて部屋の鍵を開ける。首を傾げた胡蝶が義勇の部屋の扉を開け、背中にしがみついて一緒に入り込んできた。話の続きが気になるらしい。
「あの、よくわかりませんけど。確かに業務は増えてますが私は冨岡さんのように忙しくもありませんし、何かとかないと思いますよ。まあ仕事外だと色々ありますが」
 栗花落の教育係と更に新しい業務を担当させると言っていた珠世は、神崎にもフォローにまわらせ、上手くこなしていけるのを期待していた。最初は大変かもしれないが、胡蝶ならば大丈夫だろうと。
 部屋の電気をつけ勝手知ったる冷蔵庫から飲み物を取り出しコップを二つ手に持って、胡蝶はコートも脱がずにソファへと座った。ソファの空いている席を手で叩き義勇を呼びつける。
「……俺の食事も作らなくて良い」
「はあ……? すみません、ちょっと……何故そうなるのかわかりません。私のご飯飽きました?」
 一般社員に教えることは今はできない。直属の上司である珠世からの話や社内通達がなければ大っぴらには口にできないが、少々不機嫌そうにも見える胡蝶を納得させられるかはわからなかった。とりあえずは本心を口にしておくが。
「飽きてない。好きだ」
「……そうですか。仕事でまた何かあるのはわかりましたけど、それで何でご飯作らないってことになるんです。忙しくなるなら逆じゃないですか」
 義勇ではなく胡蝶が忙しくなる可能性があるのだが、それをどう伝えれば会議の話を誤魔化せるのかわからなかった。なので仕方なく義勇は頼み込むことにした。
「すまん、言えない。通達があればちゃんと言うから、今は勘弁してほしい」
 隣に座る胡蝶の体をコートごと抱き締めて、義勇は懇願するように呟いた。これで納得してくれるとは思わないが、せめて待ってもらえないかと思って口にした。言葉が足りないと普段窘められているのに、今ばかりは要らぬ言葉で無駄に勘繰らせてしまったらしい。
「……条件があります」
 覗き込むと頬が色づいた胡蝶の顔が何かに耐えるように、悔しそうに歪められていたが、条件という言葉に義勇は少々身構えた。胡蝶の提示する条件が義勇にできるものならば良いのだが。
「私のご飯は食べてください。繁忙期みたいに用意だけでもしますから」
「……わかった」
 義勇の仕事が忙しくなるとでも勘違いしたのかわからないが、指摘しても上手く伝える自信がなかった。胡蝶の提案に頷くと笑みを見せてしがみつくように首へ腕をまわされた。
 至近距離に近づいた胡蝶の手が頬に触れる。大きな目が閉じるために伏せられていくのを眺めながら、唇に触れてくる柔らかさを感じて義勇は細い腰に手をまわした。
「……コート脱がないのか」
「気に入っちゃいました」
 いつの間にか義勇の背中がソファの肘掛けに凭れており、義勇に体重をかけて見上げてくる胡蝶を眺めた。自分のものを着る胡蝶は可愛いが、大きいとか合わないとか言っていた気がするがそれはなかったことになったのか。
「欲しいなら持っていけ」
「冨岡さんが着てるのを借りるのが良いんです。いつか面前でできるようになったら、……ふふ、見ものですね」
 神崎や栗花落は後輩だから良いとして、胡蝶の仲良くない相手には上着を貸すなと言い含めるように口にし、義勇の唇に人差し指を押し付けた。帰り際に気をつけると伝えて話は終わったものと思っていたが、どうやら根に持っているらしく機嫌を損ねてしまっていたようだった。頷くと少し不満げな顔が和らいで、人差し指を離し義勇からも離れようとした。
「わっ、」
 胡蝶の肩を押してソファに寝転ばせて胸へと顔を埋めると、何だと小さく笑んだ声が漏れ聞こえてきた。目を瞑ると柔らかく髪を撫でられる感触に意識が集中した。
「……中間管理職というのは、良いものじゃない。各方向から色々と言われることが多い」
「でしょうね。仕事だけしていれば良いわけではないでしょうし」
「……お前も出世したいと思うか」
 悩むような言葉にならない声が聞こえ、胡蝶は特には思わないと口にした。それでは珠世の推薦は受けないのかもしれないと考えた。
「評価されるのは嬉しいですが、こうして甘やかしてお世話するのに忙しいですし。まあ、冨岡さんと同じ立場にもしなったとしたら……理解できるようになるかもとは思いますが」
 宇髄や不死川のように対等な立場の人間ではなく、部署も違って社内で顔を合わせることもない。食事を作るくらいしかできないし、と胡蝶が少し不満げな声で呟いた。
「煉獄さんも来年は上司ですし、皆さん若くして管理職について凄いですよ。役に立てるよう部下は仕事するだけです」
「実力相応の評価だ。俺はあいつらとは違う」
「………、そうですか。ふふ、今の省略は誤解受けそうですよ。まあ私は構いませんが。部署で慕われているのが答えだと思いますけどね、……義勇さん、ですし」
 宇髄や煉獄、不死川の功績は大きい。いずれと言わず伊黒もそのうち研修を受けて部下を持つようになるだろう。実力に見合った相応しい者が現れたら義勇は管理職など降格を頼むつもりでいた。竈門が成長して評価されるようになれば、それも現実味を帯びるだろう。
 胡蝶が評価を望んでいるのなら支援しなければ。きっと皆から頼りにされるような上司になれるだろうし。
 それまでは、今ばかりは少しだけ、甘えさせてほしかった。
「冨岡さんて結構胸好きですよね。最初から枕にしてたし」
「よく眠れた」
「普段眠れてなかったんですか」
 コートが皺になると呟きながらも胡蝶は動こうとせず、義勇の髪を撫でては弄んでいるようだった。その手の感触が心地良く、目を瞑っているせいかゆったりとした睡魔が忍び寄ってくる感覚がした。
「……浅いようだ。あの時は繁忙期もあったが」
「ふうん……でも重いんですよね」
 寄ってくる睡魔から瞼を上げて義勇は体を起こし胡蝶から離れた。驚いた顔が見上げてくるが、よく考えれば体重も倍近く違ったはずだ。重さを感じるのはおかしいことではない。
「すまない」
「いや、待ってください。良いんです、重いのは我慢しますから」
 妙に慌てた胡蝶が引き止めるように腕を伸ばし、義勇の後頭部へと手をまわして力を込めた。引き寄せようとしても義勇が堪えると思わなかったのか、唇を尖らせて眉根を寄せ、不満そうに顔を歪めた。
「冨岡さんは上司ですから。……甘えてもらうのは嫌じゃないんです。というか今日みたいなことされるよりは甘えられたほうが……」
「何?」
「いえ。むしろ嬉しいですから、ああ、例えば横向きとかどうです?」
 横向き。ソファでは場所が足りないがベッドならば並ぶことはできる。頭を乗せる枕ではなく抱き枕にすれば良いということだろうか。義勇は胡蝶がいれば充分良く眠れると思うが、付き合ってくれるのか。
「そうする」
「そうしましょう。じゃあお風呂済ませてきますから、冨岡さんも寝る準備しててください」
 またこちらに戻って義勇の我儘に付き合ってくれるらしい胡蝶に、義勇は口元を綻ばせて頷いた。