隣人の正体

 機嫌の良い女の鼻唄が聞こえ、玄関扉が開く音が聞こえた。鼻唄が止まり不思議そうな声が耳に届き、何事かと思う間もなく扉が大きく開かれ、荷解きがひと段落し洗面所のドアを開けようとしていた義勇は驚いて顔を向けた。顔の赤い女が目を丸くして義勇を凝視し、外壁に取り付けてある部屋番号を確認したらしく間違えましたと一言叫んで慌ただしく扉を閉めた。すぐ隣で解錠の音が聞こえ、扉の開く音とともにがちりと鍵をまわす音が響いた。
 どうやら隣人が部屋を間違えたらしい。施錠していなかった義勇も不用心だったと反省したが、向こうは向こうで何の疑問もなかったのかと少しお節介なことを考えた。
 まあ、顔が赤かったし酒でも飲んでいたのだろう。こちらが何を言うこともできず扉は閉められたが、義勇は特に文句を言うつもりはない。
 気を取り直してひと休みしていると、インターホンが鳴り義勇は立ち上がった。覗き穴の奥には先程の女が立っている。驚いていた顔が今は意気消沈したように暗く翳っていた。
「あ、……すみません、先程は。部屋を間違えてしまいまして」
「いえ」
 昼間に挨拶をしようとインターホンを鳴らした隣は留守で、その住人が彼女のようだった。謝罪に来たは良いが家には大したものがなく、買い置きしていたラップだとか冷蔵庫に入っていた缶ビールを持ってきたらしい。家でも飲むのか、と義勇はぼんやりと考えつつ、恐縮する彼女から受け取ることにした。
「ええと……引っ越して来られたんですか?」
「今日から住む冨岡です」
「あ、胡蝶です。間違えておいてなんですけど、よろしくお願いします」
 手渡されたものをテーブルに置き、挨拶用にと買っておいた消耗品を差し出した。何やら複雑な顔をした彼女は少し逡巡したものの、小さく笑って受け取った。
「謝りに来たのに貰ってしまうのも変ですけど……」
「挨拶なので」
「……そうですね。ありがとうございます」
 頭を下げて扉を閉め、彼女は隣の部屋へと戻っていった。越してきた初日から驚いたが、非常識な女というわけでもなかった。困ったように笑みを浮かべた顔が妙に印象に残ったまま、義勇はとりあえず貰ったビールを冷蔵庫へと仕舞いこんだ。

*

 しのぶは驚いて目を丸くして、ただ目の前に立つ顔を凝視した。
 自分の部屋を間違えて隣の扉を開けてしまった翌週、しのぶはまさか会社でその顔を見るとは思っていなかった。
 新入社員の挨拶のあと、本社から戻ってきたという社員を朝礼で紹介され、見覚えのある顔にしのぶは言葉を失った。隣でひっそりと同期の女性がそわそわとしているが、まさかこんなところで接点があるとは。まだ入社して二年目のしのぶとは部署も違うが今後関わることもなくはないかもしれない。どんな人かなどさっぱりわからないが、妙なことを周りに言わないといいのだが。
 ほろ酔いで帰ってきた日、部屋を間違えて開けてしまったしのぶに怒るようなこともなく、逆に引っ越しの挨拶として粗品を渡されることになってしまった。マイペースさが垣間見えた行動はしのぶも少々困惑したが、嫌悪を抱いたわけではない。だがそれ以上の関わりなどないだろうと思っていたのに。
「——ああ、それなら胡蝶さんが担当ですよ。胡蝶さーん」
「……胡蝶?」
 同僚の話し声が聞こえ、しのぶはパソコンから顔を上げた。部署の入り口に立っていたのは朝礼で見た涼しげな顔で、少し驚いたように目を丸くしているのがわかる。やはり気づいていなかったらしく、そして気づかれてしまったようだ。
「どうかしました?」
「……いや」
 短く言葉を漏らして必要以上に話さない冨岡に、しのぶは内心安堵しながら近寄った。会釈をして同僚から問いかけられる内容に答えながら話を聞く。必要書類を印刷して手渡すと、用件は終わったのか手短に礼を告げて冨岡はフロアを出ていった。
「あの人滅多に表情出さないのに。胡蝶さんに一目惚れかな?」
「まさか。やめてくださいよ」
 本社勤務は一年間、その前はこちらに勤務していたという冨岡のことを同僚は知っているらしく、必要もないのに色々と教えてくれた。
 寡黙で殆ど慣れ親しんだ者以外とは会話をせず、同僚のごく一部と話をしている姿しか見なかった。飲み会にはその会話をする同僚から呼ばれたら来るけれど、黙って飲んでいるか食べているか。飲んでもいつ酔っているのかわからないくらい顔色が変わらない。基本的に親切ではあるのだが、仕事が絡むと厳しくて言い方が怖かったりもする。人のミスを理不尽に怒ることはしないが、隠蔽したとか懲りない者はよく怒られていたのだと同僚は笑った。
「へえ、きっちりしてるんでしょうね。何か難しそうな人ですけど」
「仕事でやらかさなければ良い人だよ。ミスのカバーしてくれたりとか、女子社員の中には好きだって言う子もいたしね。異動になった時は嘆く子もいたし」
 本社での勤務は管理職研修も含んでいたらしく、今回の異動、戻ってくることは元々決まっていたものだったようだ。
 無口でミステリアスで、でも仕事ができて。やたらと持ち上げている気がするが、そのくらい当然のできる人なのだろう。まあ、しのぶにはあまり関係がないのだが。
「でね、新人歓迎会のついでに冨岡さんの歓迎会もしようって話になってて。胡蝶さんも来るでしょ?」
「歓迎会なら行きますよ」
「よかったー! 他部署から絶対連れてきてって言われてたんだよね。来週の金曜日だから忘れないでね」
 顔を合わせない他部署の者から絶対と誘われているのも妙な話だが、去年は自分たちの歓迎会を開いてくれたのだから断るつもりはなかった。よく知らない人からの個人的な誘いであれば話は変わっていたけれど。

「あ、」
 会社の前で信号待ちをしている冨岡を見つけ、しのぶは思わず声を漏らした。聞こえたらしい冨岡の目がしのぶへと向けられ、瞬いた目がしのぶを見たまま会釈をしたので挨拶を返し、少し迷ったものの一人分の間を開けて隣へと立った。
「お疲れ様です」
「ああ」
 それ以上返すことはなく、沈黙のなか車の走る音だけが通り過ぎていく。無口というのは本当のようだ。
 何か話しかけたほうが良いのか、それとも黙っていて良いのか。どうせ帰り道が同じであることはわかっているので話したほうが良い気がするが、会社の前というのも気になる。別にやましいことはしていないのだから気にしなくて良いとも思うのだが、この間の部屋間違いがやましいことに入ってしまったら困る。別に会社の人間は知らないのだから気にしなくても良いはずではあるが。
「……同じ会社の人とは思いませんでした」
 青信号の横断歩道を渡り、会社が見えなくなった頃沈黙が辛くなってしのぶは口を開いた。一緒に歩かなければ良いのだが、歩幅が違うはずなのに距離が開くことがなく、しのぶに合わせてくれている気がして、向こうもどうしていいかわからないのだろうかと考えてしまい、しのぶは思いきって話しかけることにした。部署は違えど会社の同僚、更には住まうマンションの隣人である。つつがない人間関係を構築しておくに越したことはない。
「ああ」
 しかし、こちらから一方的に声をかけても、相手にそのつもりがないならば関係は上手く作り上げることはできない。無口だというのは聞いたが相槌を打つだけで会話をする気がなさそうだ。何なのよ、と少し不満に思い眉間に皺が寄った。いくら親切でもこれはないだろう。
 とはいえ話しかけてしまったのはしのぶである。人見知りなのかもしれないともう少し様子を見ることにした。
「あの辺り、会社の人は誰も住んでませんから驚いて。朝礼でびっくりしました」
「……いたのか。気づかなかった」
「そりゃいますよ、全体朝礼ですから」
 社員全員が集まって開く全体朝礼に出ないのは遅刻者くらいのものだろう。人数も多いのだから冨岡が気づかないのは当然だと思うが。返答に少々眉を顰めたものの会話らしくなってきたことにしのぶはとりあえず安堵した。
「……一年前はいなかった気がするが」
「私のことですか? 去年入社したんです。ちょうど入れ違いですね」
「成程」
 帰路の最中話しかけてみてわかったことは、同僚の言ったとおり本当に無口であることだ。しのぶの問いかけに手短に答える様子は話を広げようとする気概が感じられなかった。その割に少し間を置いて答えたりする。沈黙のなかで口にすることを考えているのかもしれない。だとすると、話をするのは意外と嫌というわけではないのだろうか。
 それならそれでしのぶも助かる。取り付く島もない状態の同僚——他部署の上司である隣人などやりにくくて仕方ない。言葉にするのが苦手なだけならば、模索しながら関わることもできるはずだ。役職付きの隣人から嫌われるのは得策ではない。できる限り人間関係は円滑にしておきたかった。
 声をかけてしまってから流れで一緒に帰ってきてしまったが、とりあえず挨拶をして部屋の鍵を取り出した時ふと思い至った。円滑にしておきたいのは山々だが、よく考えれば隣の部屋とか私生活が丸出しになってしまいそうだ。飲みに行って何時に帰ったとか、誰かを連れ込んでいるとか、把握するのもされるのも嫌すぎる。やはり引っ越すべきではないか、いやしかし円滑にできるのならばそのままでも、何せ引っ越しは面倒だし。などと考えていると、控えめに隣から声が聞こえた。
「……二年目ならすでに慣れてるだろうとは思うが」
 冨岡へ顔を向けると差し込んでいた鍵を抜き取りドアノブへと手をかけながらしのぶへ目を向けた。何のことかと続きを待っていると、冨岡の口元がまた動き始める。
「困るようなことがあれば言ってくれ」
「………。はい、ありがとうございます」
 そのまま扉を開けて入っていくのを見送り、しのぶも鍵を開けて部屋へと足を踏み入れた。
 管理職ゆえの社交辞令かもしれないが、案外優しいのかもしれない。いや、そういえばやらかさなければ親切だと同僚は言っていた。
 成程。他部署とはいえ同じ勤務先の隣人のことを気にかけてくれるらしい。思った以上に親切なようだ。困ったことというのは今のしのぶには思いつかないが、何かあれば相談できる相手ができたらしい。うん、それは助かるかもしれない。