公表後・遭遇

「こんにちは、お久しぶりですね」
 顔を見て思わず声をかけると同時に瑠火は相手の手を握った。驚いたような顔が瑠火を視界に入れ会釈をして挨拶を返す。そして握った手に視線を下ろし、あの、と一言不審そうな声を漏らした。
「すみません。是非お話を聞きたいと思いまして。お時間がおありでしたらすぐそこのお店で如何ですか」
 どこか茫然としたような表情を見せた相手はしばらく黙り込んだ後、諦めたように頷いた。

「杏寿郎から伺いました。許婚がいらっしゃると」
「……はあ……」
 予想していたような反応である。所在なげに眉尻を下げてテーブルに置かれたカップを持ち上げた。この場での一杯は瑠火の奢りである。一杯で済むかはわからないが。
「ひとつ屋根の下に住んでいると聞きました」
「語弊があるんですが。ただの下宿です」
 寝泊まりする階も違うし食事と寛ぐ以外で同じ空間にはいないと弁解のように言ってくる。溜息を吐いて瑠火は首を緩く振った。
「同じ敷地内にいることには違いありません。聞けばその許婚とは幼少から約束をしていたというではありませんか。私は主人とはお見合いでしたので憧れるものがあります」
「……れ、杏寿郎くんがそんなことまで言ってたんですか」
「伊黒さんが仰っていましたよ。幼馴染で高校入学を機に狭霧荘へと呼んだのだと」
 額を押さえて眉間に皺を寄せ、違いますと一言呟いた。
 瑠火とて伊黒の話をまるっと信じているわけではなかったが、彼が呼び寄せたという何とも素敵な行動に羨みのような期待は持っていた。それははっきりと否定されてしまったが。
「実家が遠く、高校とうちがたまたま近いから下宿してるだけです」
「そうですか。ですがきっかけなど瑣末なことですよ。要は同居して育まれるものがあるかどうかです」
 何とも複雑な顔が口元を引き結び、返答に困っているのがわかった。
 二児の母とはいえ瑠火とて恋愛の話は好きである。見合いだった夫とは仲良く暮らしているが、普段の生活から恋が生まれるのは今でも憧れのようなものがあった。杏寿郎はまだ交際相手を連れてきてくれたことはなくそういった相手がいたかどうかもわからない故か、興味は全く尽きなかった。
「仲良く過ごしているなら素晴らしいことです。是非その暮らしを聞かせてほしいのです」
 目を輝かせて目の前の彼に詰め寄ると、黙りを決め込んでいた彼の唇が、諦めたのか動くのが見えた。そわそわとしてしまい思わず注視して言葉を待った。
「……おばさんの話を聞きたいです」
「えっ?」
「婚約者というのがどういうものか俺にはわかりません。経験があるなら教えていただきたいです」
「……まあ」
 輝かせた目を瞬いて、瑠火は驚いたように声を漏らした。真剣な目が瑠火を貫く。
 口元に手を当てて瑠火は頬を染めた。槇寿郎との見合いを経て交際して結納を済ませ、確かに婚約者として過ごした時期はある。まさか自分に質問が返ってくるとは思わず言葉を詰まらせてしまった。
「こんなおばさんの話より若い貴方がたのお話を……」
「聞いたところで伊黒と甘露寺のような大した話はありません。今年まで会ってませんでした」
「幼い頃のことでも構いませんけれど、」
「ありません。それより経験者の話を聞くほうが勉強になります」
 このような反撃を食らうなど考えておらず、瑠火は焦った。槇寿郎との昔話に後ろめたいことなどないが、自ら口にするのは照れが先にくる。特に息子の友人に話すなど恥ずかしくて俯いてしまった。
 しかし、確かに問いただすばかりでは彼も嫌なのだろう。
「……わかりました。言えば話してくれますか?」
「え、……いや、俺には特に話すことが、」
「主人とのことならば、杏寿郎に言わない条件であれば話すことはできます。その代わり冨岡さんも教えていただきたいのですが」
 もはや勝負のような気分になりながら瑠火は彼を見つめた。瑠火の反応が予想と外れてしまったのか、彼の表情は少々困惑しているように見えたが、話が聞けるならば喋っても構わない。彼ならば誰かに言いふらすようなこともないだろう。それで初々しい恋の話が聞けるのならば、と瑠火は返答も待たず意を決して話し始めた。

*

「しのぶちゃん、たまには喫茶店とか行かない? ほら、あそこ美味しい紅茶を出してくれるの」
 甘露寺が指した先にある喫茶店は、こぢんまりとして落ち着いた雰囲気だった。ガラス張りの店内が外から少し見えている。あれ、と一言呟いて甘露寺が固まり、不思議に思い視線を追うと店内には見知った姿があった。
 冨岡が喫茶店でカップを傾けている。
 声をかけようと甘露寺がはしゃぎながら店へと向かうと、ガラスの向こうで立ち上がる様子が見えた。もう出てしまうようだと口にしたのだが、構わず駆けていってしまった。
「こんにちは、冨岡さん!」
 出入り口の扉を押してレジ前にいた冨岡へ甘露寺が声をかけると、冨岡は驚いたように顔を向けた。その隣には年上の落ち着いた女性が立っていた。
 見たことのない女性だった。甘露寺も初対面のようで、驚いて固まっている。
「俺が払います」
「私が呼び止めたのですから、私が払いますよ」
 甘露寺としのぶに一瞥した後、清算のためにとりあえずレジへと向き直り、慌てたような声で女性へと話しかけている。初めて見る様子だった。
 誰なのだろう。綺麗な人だが年齢がわからない。冨岡の姉よりも年上であることはわかるが、学校の知り合いかそれとも狭霧荘に関係のある人か。そわそわと気にしてしまいしのぶは落ち着かなかった。それは甘露寺も同じだったらしい。
「入るんじゃないのか」
 清算を終えた二人に続いてしのぶと甘露寺も店を出てしまい、首を傾げて冨岡が問いかけた。慌てて甘露寺は見かけたから声をかけただけだと口にした。
 二人とも平然としているあたり冨岡と妙な関係の女性ではなさそうではあるが、それはそれとして誰なのかは気になる。
「下宿人の方ですか?」
「……胡蝶と甘露寺です」
 冨岡が甘露寺を紹介した途端、女性の目がきらきらと輝いた。伊黒さんの、と呟いた声に甘露寺は目を瞬かせて女性を見つめた。
「以前伊黒さんからお話を伺いました。あなたが甘露寺さんなのですね」
 伊黒の名前に頬を染めているものの、何を聞いたのか、どう反応していいのか困ったまま甘露寺は女性に手を握られている。ちらりと冨岡を見上げると、少々困惑した顔がしのぶを見つめた。
「それでは、そちらの方が婚約者の?」
「………。……そう、ですね」
 どこか諦めたような表情で冨岡は女性の問いかけを肯定した。甘露寺同様手を握られて詰め寄られるのは疑問符しか浮かばない。素直に白状した冨岡といい、一体なんだというのだろうか。
「失礼しました。私煉獄杏寿郎の母です。いつも息子がお世話になっております」
「えっ! 煉獄さんのお母さん!?」
 驚いて声を上げた甘露寺につられるようにしのぶも女性を見た。凛として綺麗な人だ。煉獄の母上ということは、全く見えないが少なくとも三十代後半より上のはずだ。
「せっかくお会いできたのに、非常に残念ですがそろそろ帰らねばなりませんね。皆さん、今度うちに遊びにいらしてください。是非お話を聞かせていただきたいです」
「送ります」
「まあ、気を遣わなくて大丈夫ですよ。胡蝶さんと一緒にお帰りなさい。それでは」
 挨拶をして煉獄の母を見送った後、冨岡は項垂れて大きな溜息を吐いた。甘露寺と目を見合わせ、疲れたような表情をした冨岡を見上げる。
「冨岡さん、許婚の話をしたの?」
「……強引だった。親子だな」
 どうやら無理やり話を聞かれたらしく、冨岡は憔悴していた。手を掴まれて逃げられなかったのだという。
「……冨岡さんて、押しに弱いですよね」
 じとりとした視線をしのぶへ向けたものの、自覚があるのか冨岡は何も言わなかった。