お詫びのマドレーヌ

 教えられた住所に無事辿り着くと、そこには大きな屋敷が建っていた。門前に狭霧荘と書かれた表札がかけられている。インターフォンを押すと中から足音が聞こえてきた。
「こんにちは!」
「……ああ」
 甘露寺を見て諦めたような目を向けた目当ての人物に深く頭を下げて菓子折りを差し出すと、先に連絡していたおかげかすんなりと受け取ってもらえた。良かった、お勧めを買ってきた甲斐もあるというものだ。
「……茶を出すから上がると良い」
「えっ、でもお邪魔じゃないですか?」
「別に。来ることはわかってたし、さすがに菓子折りだけ貰って帰すというのも」
 お詫びなのだから構わないのに。気を遣われて少々照れてしまい甘露寺は冨岡の背中を追った。
 水溜まりに嵌まらないよう助けてくれたり、今もこうして家に上げてくれたりと優しい。冨岡への好感度はぐんぐんと伸びていた。
「お? 新しい下宿人か?」
「来客だ」
 広さのある居間には冨岡よりひと回り大きい体躯の男性がいた。寛ぎながらテレビを見ていたようで、入室した甘露寺を見て目を瞬いた。媒体を通じてでしか見られないような見目麗しい男性である。冨岡から座るよう促され少々緊張しながら男性の前に腰を落ち着けた。
「何? 彼女できたの?」
「昨日ぶつかった相手だ。要らないのに謝罪に来た」
「ああ、鈍くさく水溜まりにダイブしたとかいう時のか」
 甘露寺が名乗ると彼は宇髄と名を教えてくれ、ここに下宿しているのだと言った。
 冨岡の淹れた茶に礼を伝え、甘露寺が持ってきた菓子折りを開けてテーブルの上に置き、冨岡も椅子に座って湯呑みに口をつけた。
「ひょっとして産屋敷高校?」
「はい! 昨日始業式だったんですけど、初日から私やらかしちゃって」
「まあ冨岡だし良いんじゃねえ? 先輩だし」
 昨日謝り倒して連絡先を聞き出した時、冨岡が同じ高校の先輩ということは教えてくれていた。宇髄も卒業生だというし、どうやらここは産屋敷高校の生徒がよく下宿しているようだ。
 冨岡だしというのは少し意味がわからないが、今も持ってきた菓子折りを食べろと言ってくれる。あまり愛想はないが優しいのは伝わってきて、嬉しくなって甘露寺は含み笑いをした。
「お、これいつも行列作ってるとこのじゃん。俺食ったことないわ」
「あ、そうなんです! ここのマドレーヌが美味しくて、私もいつも並んで買うんです。お口に合うと良いんですけど」
 手を出そうとしない冨岡の機嫌を窺うように顔を覗き込むと、ようやく一つ手に取って袋を開け始めた。その後宇髄も一つ取りながら軽く礼を口にした。お詫びのために渡したものが冨岡の口に合わないとあっては意味がない。ひと口咀嚼して飲み込んだあと、冨岡は美味しいと呟いた。
「良かった! 美味しくなかったらどうしようかと思っちゃった」
「あー、確かにこりゃ美味いな。甘いけどくどくねえし」
「そうなんです、他のお店のより甘さは控えめだけど、生地がしっとりしてて食べやすくて。私これならいくらでも食べられるもの!」
 初めて食べたのは一年前だが、あまりの美味しさにはまってしまい今ではしょっちゅう買いに行っている。毎日はさすがに小遣いが足りないが、金銭と時間に余裕がある時は必ずといっていいほど買って帰り、家族からは少し呆れられていたりする。
 箱に並んだマドレーヌを眺めていると甘露寺が物欲しそうに見えたのか、冨岡が複数個を取り出してから箱を甘露寺の前へと近づけた。
「うちの分はこれで良い。食べたいなら好きに食べろ」
「い、いえでも、お詫びですから」
「一人一つで充分だ」
「蔦子さん最近甘いもの控えてるしな」
 余らせても悪いのだと宇髄が付け足し、食べたい奴に食べられるほうが菓子も本望だと笑った。冨岡は黙って食べ終えた袋をゴミ箱に捨てている。
「俺一人では食べきれない。手伝ってくれ」
「……そ、そういうことなら……」
 宇髄に小突かれている冨岡を窺いながらも、甘露寺は言葉に甘えてマドレーヌへ手を伸ばした。せっかくお詫びに買ってきたものが甘露寺の腹に収まるのはおかしい気もするが、宇髄も食べてやれと言うし、受け取った冨岡が食べろと促してくる。謝りながら袋を開けてひと口食べると、控えめな甘さが口内に広がり、甘露寺は無意識に笑みを浮かべていた。美味しい。
「やっぱり美味しい、ありがとうごさいます!」
「冨岡が食うよりよっぽど良いな」
 甘露寺は食べることが好きだ。ご飯もおやつも何でも好きだが、なかでも甘いものを食べると美味しくて幸せで止まらなくなる。二人が和やかに話しているのを横目に、気づくと箱の中はあと二つほどしかなくなっていた。やってしまった。
「ご、ご、ごめんなさい……あんまり美味しくてつい……」
 昨日会ったばかりの冨岡と初対面の宇髄の前で何たる醜態を晒してしまった。際限なく食べる甘露寺は家族からたびたび注意を受けていたのに、手が止まらず食べ尽くしかけていた。少々驚いたような顔を向けられ、甘露寺は恥ずかしさで消えたくなった。
「……良い食べっぷりだな」
「す、すみません……私大食いで……」
 両手のひらで熱くなった顔を隠して甘露寺は小さな声で呟いた。外では気をつけようと思っていたのに、全く本能に勝てていなかった。
「美味そうに食うから見てて気持ち良いけどな。小腹も満たせなさそうな弁当食ってる女よりよっぽど良いだろ」
「腹が保つのか疑問はあるが、体型で食事量は変わるだろう」
「そういうのとは別次元の話だって。ダイエットしてるのお、とか言って何も食ってねえ鶏がら女とかいるだろ」
「知らない。姉さんも三食きちんと食べる」
 冨岡の姉は甘いものを控えてはいるものの、三食の食事はきちんと摂っているらしい。ダイエットというよりも健康に気を遣っているのだそうだ。運動もウォーキングによく出掛けるのだという。
「私も体を動かすの好きです! 部活は何しようとか考えて。冨岡さんは部活に入ってますか?」
「剣道部」
「剣道! そういえば産屋敷高校の剣道部は強いんだって聞きました! 勧誘のチラシも色んなクラブの渡されて、どれに入ろうか悩んじゃって」
 甘露寺は中学まで新体操部にいたが、高校でも続けるかどうかは考えていなかった。続けたい気持ちもあるが、他にも色々とやってみたい気持ちもある。女子剣道部はあるのだろうか。冨岡がやっているのなら少し覗いてみたくなった。
「見学とかできますか?」
「ああ、まあ女子はあまり来ないが」
「そうなんだ。やっぱり痛そうだからかしら」
「堅苦しいしな。女子剣道部はあんまり強くねえんだっけ?」
「人数も少ないしいつも廃部寸前だ。男子と合同でやることもあるが、ついていけないらしい」
 練習量が違うらしく、男子は強豪だからか非常に厳しいらしい。冨岡は平然と普通だと言うが、どうやら熱心な先生が顧問をやっており、宇髄の在学中もきついとぼやく部員がいたそうだ。
「まあ運動部なんてどこもそんなもんだろうけどな。強豪なら尚更強くしてかねえといけねえんだろうし」
「産屋敷高校は野球部も甲子園出場した経験があるんだって聞きました」
「いつの時代だ? 俺がいた頃はそんなんなかったぞ」
「俺も知らない」
「あはは……結構前のことなのかしら」
 過去の栄光を語り継いでいるのかもしれない。他にも県大会で良い成績を納めただとか、色々運動部では名が知られているようだ。
「剣道部はずっと強いんですか?」
「ここ二年だな。今年も強いと思うぜ」
「へえ。今の剣道部が強いんですね。凄い! 女子剣道部、ちょっと覗いてみます!」
 甘露寺に剣道ができるかどうかはわからないが、見るだけならば問題ない。きっと皆練習している姿は格好良くて素晴らしいのだろうし、見ているだけでも楽しいのではないだろうか。
 甘露寺は野球やサッカーなどのメジャーなスポーツでもあまりルールを把握していないが、テレビなどで見る時は楽しく視聴している。他の部でもきっと目を奪われて楽しめるはずだ。
「お前先輩なんだからつれてってやれよ。どうせ同じ日に見学できるよう組むんじゃねえの?」
「ええっ! そんな、大丈夫です、一人で行けます!」
 またも冨岡の手を煩わせそうな提案を宇髄がして、甘露寺は慌てて首を振って断った。せっかくお詫びに来たのにまた迷惑をかけては元に逆戻りしてしまう。できれば普通に仲良くなりたいのに。
「……普通棟からは剣道場は遠い」
 割と迷う者も多いらしく、冨岡も最初迷いかけたそうだ。途中で教師に場所を聞いて何とか辿り着いたらしい。そう言われると無事辿り着けるのか不安になってくる。クラスに剣道部を見に行く子がいれば何とかなりそうなのだが。
「本当に見に行くなら迎えに行くが」
「ええっ、い、良いんですか? ええと、冨岡さんは三年生だから二階ですよね。私は四階だし……それなら私が冨岡さんの教室に行きます!」
「見学は水曜日だ。その日は六時間目が移動教室で四階に行く」
「あっ。そ、そうなんですね……そっかあ……」
 意気消沈した甘露寺が面白かったのか、宇髄が吹き出しそうになりながらこちらを眺めていた。何とか冨岡の手間を減らそうと考えた結果、一番手間が少ないのが冨岡が迎えに来るということだったらしい。有難いのだが申し訳ない。
「まあこう言ってるんだし、後輩は甘えとけよ」
「ええと……はい。すみません、ありがとうございます」
「剣道に興味を持っているなら俺も有難い」
 どうやら冨岡としても部員数を増やしたいのか、考えていることがあるようだった。強い部でも勧誘はやはりしないと部員は増えないのだろうか。甘露寺はまだ入ると決めたわけではないことも理解してくれているようで、入らなくても構わないと冨岡は呟いた。
「まあ入ったところで女子だから練習くらいしか関わりねえだろうしな。……ああ、珍しくお前が積極的なのは副主将になったからか」
「わ、冨岡さんって強いんですね」
「……何故かなすりつけられた」
 とはいえやる以上は務めを果たしたいのだという。冨岡は答えなかったが、副主将をやるくらいなのだからきっととても強いのだろう。どうせなら冨岡の剣道をしているところも見てみたい。きっととても格好良いだろうと思う。
「じゃあ、水曜日はよろしくお願いします!」
「ああ」
 頭を下げてから満面の笑みを二人へ向けると、宇髄は微笑ましそうな視線を向けてきたが冨岡はやはり愛想はなかった。だが少しばかり目元が和んだように見えた気がした。
 水曜日は剣道部に行くことが決定し、これを機に冨岡と仲良くなれると良い。始まった高校生活が楽しみで仕方なかった。
「はあ。結局パソコンは修理に出すしかない」
 新たな声とともに居間の扉が開いて人が足を踏み入れてきた。甘露寺が顔を向けると小柄な男性が驚いたように甘露寺を見つめ、慌てて立ち上がって挨拶をした。どうやら他の下宿人らしく、伊黒という名前を冨岡が教えてくれた。
「あっ、長居してしまってすみません。そろそろお暇します」
「ああ。引き止めて悪かった」
「いえ! とっても楽しかったです。じゃあまた学校で!」
 満面の笑みを見せながら元気良く挨拶をして、扉のそばで立ち止まっている伊黒にも声をかけ、玄関まで来てくれた冨岡に見送られながら狭霧荘を後にした。水曜日が楽しみで仕方なく、甘露寺は浮き足立ちながら帰路を歩いていく。他の部の日程も確認して、しばらく忙しい日になりそうだ。楽しみだった高校生活は本当に楽しそうになってきて、甘露寺は嬉しさと期待でいっぱいになっていた。