宇髄・下宿と葛藤
「こんにちは」
「おう、これからよろしくな」
会釈をして挨拶をした年下の少年に宇髄も軽く挨拶を返した。
今から出かけるのか、少年は長い袋を肩にかけ、学校指定らしき鞄を背負っている。見覚えのあるその長物を眺めながら、宇髄は一言問いかけた。
「剣道部?」
「はい」
「ふうん。頑張れよ」
笑みを向けて手を振ると、少年は少し何かを言いたげにしたものの再度会釈をして玄関を出ていった。
宇髄が産屋敷高校に通うにあたり、付近のアパートを探していたのだがなかなか良いと思える物件がなかった。広さはなくても構わないが風呂トイレはついているところが良いし、費用も抑えたい。一人周辺を散策しながら歩いていると、門前に狭霧荘と書かれた大きな屋敷が建っていた。ちらりと覗くと老人が一人庭の木を剪定している。
こちらに気づいた老人が宇髄へ目を向け、不躾に覗きすぎたと慌てて塀から手を離した。
「何か用か? 迷ったとか」
「ああ、いや。住むとこ探してて見て回ってるとこっす」
思わず素直に話した宇髄は、納得して頷く老人が軽い足取りで脚立を降りてくるのを眺めた。この辺りの住人は昔ながらの距離感の者が多いのだろうか。気さくに声をかけて手を止めて話を聞いてくれる。老人だからかもしれないが、周りも閑静だし良いところだ。
「もしや産屋敷高校に通うのか?」
「あ、はい。近所の奴らは皆そこ行くんですか?」
「うちに来る者が産屋敷高校に通う者ばかりでな。儂の母校でもある」
下宿をしていると老人は言い、宇髄は門前で見た表札を視界に入れた。狭霧荘の名の通り、ここは複数人が共同生活を送る場所らしい。
下宿か。住居探しで考えたこともなかった。感心したような声を漏らして屋敷を見上げていると、老人は宇髄の様子を観察するような視線を向けた。
「良かったら見ていくか。住む場所が決まっていないんだろう」
「え……良いんですか? 俺見ず知らずの人間なのに」
そりゃまあ見ず知らずの人間が下宿するのだろうが、何だか危機感のない老人だ。もし宇髄がとんでもない悪党だったらどうするつもりなのだろう。木の剪定をしているところとか脚立から危なげなく降りるところとか、足腰はしっかりしているみたいだが。
「長年生きていると、人となりはひと目でも大体わかるようになる」
救いのない悪さをするような輩ならば招き入れることはしない。侵入されたとして捕まえて警察行きだそうだ。思ったより力技で何とかしているようで、宇髄は吹き出して笑ってしまった。
「この時期から探すのでは大分出遅れているな。もう殆ど空いてなかっただろう」
「あー、やっぱ遅いのか。そうなんすよ、探しても近くはほぼ埋まってて、あとは遠いとか高いとか、風呂がないとかそんなんばっかで」
深く考えずに楽観視していたが、やはり家探しを始める時期が遅かったらしい。アパート探しを続けるならば宇髄が考えていたこだわりはいくつか捨てる必要があるだろう。
複数人がたむろできそうな広い玄関を抜け、居間へと通された。生活感溢れるひと昔前の部屋だが、広く清潔にされている。これまた広い台所に大きなダイニングテーブル、少し離れた場所にこたつとテレビが置いてある。
「共同生活ができるならば下宿も視野に入れると良い。うちは食事は学校以外の朝昼晩出している。部屋にも鍵はかけられる。風呂トイレは共用だが、何か要望があれば応えられる範囲だが聞くことにもしている」
「へえ。同居人と揉めなきゃ楽しそうだ」
「食事は作っているが食べなければならない決まりではない。あまりしている者はいなかったが、時間をずらせば顔を合わせずにいることも可能だろう」
共同生活をするのならば宇髄はせっかくなのだから人と関わっておきたいと思うが、そりの合わない相手というのもいる。会いたくない者がいれば多少なりと対処はできるようだし、なかなか悪くないのではないだろうか。
アパート探しも疲れてきたところだし、何やら大家である老人は人を見る目があるらしいし。狭霧荘の様子も、地味だが落ち着く空間で嫌いではない。にかりと歯を見せて老人へ笑みを向け、宇髄は住まわせてほしいと口にした。
「判断が早いな。良いことだ」
「まあね、アパートも見つかんねえしこれも縁ってことで。大家さんは俺を悪い奴じゃねえって思ってくれたんでしょ?」
「派手な風貌で誤解を受けやすいが目に力がある。そういう不器用な者はよく見てきたからな」
「おっ……不器用って言われたのは初めてだな」
何でもそつなくこなしてきた宇髄としては、いくら年長の老人からの言葉とはいえ不器用などと言われて少しばかり面食らった。弱い部分を見せないように虚勢を張る者の話を口にされ、自分が意図せず虚勢を張っていると指摘されているような気がして何ともいえない気分になった。
「ああ、きみが虚勢を張っているように見えたわけではない。若いなりに悩みはあるだろうがな」
「はあ……」
宇髄の心境を察したのか何なのか、老人はフォローのようなことを口にした。もっといたたまれない気分になったが、宇髄はとりあえず契約に関して問いかけることにした。
その時廊下側から足音が聞こえ、宇髄が顔を上げると同時に居間へと一人の少年が顔を出した。長物を背負う黒髪の少年だった。
これからよろしくな。
たった今決まったばかりの下宿をさも決まっていたかのように宇髄は振る舞った。大家の孫だという少年は今年中学二年に上がるらしく、名前を冨岡義勇と教えてくれた。部活に持っていく弁当を取りに来たらしく鞄に包みを突っ込み始める。
「儂は大家の鱗滝だ」
「宇髄天元です」
ちらりと振り向いた冨岡は宇髄が視線を向けるとまた黙って鞄へと目線を落とした。静かな奴だ。挨拶以外で口を開こうとしていない。
「行ってきます」
「ああ、行ってらっしゃい」
部活に向かった孫を見送り、事務的な手続きのために宇髄と鱗滝はまた向かい合って座った。
現在住んでいるのは先程の孫姉弟と下宿人が一人。学生の頃から住んでいる社会人だそうだ。あと数ヶ月もすれば出ていくそうで、共同生活というより居候のようだと宇髄は考えた。まあ伸び伸びとできて良いかもしれない。孫と仲良くすれば良いだけだし。
住む場所が決まらず一時はどうなることかと思ったが、想像よりよほど良い結果になったのではないだろうか。それなりに気を遣う生活にはなるだろうが、風呂やトイレが部屋にないよりよほど良い。
実家に置いてある荷物はすぐにでも引き取れるよう荷造りは終えているし、あとはトラックで運ぶだけだ。宇髄は立ち上がり必要なものを持ってくると言い、颯爽と狭霧荘を後にした。
*
「おー、集まってるねえ」
冨岡の試合があるのだと鱗滝と姉の蔦子がうきうきと準備していたところに顔を出した。たまには家族水入らずで食事すると良いと伝える前に蔦子は宇髄へ一緒に行こうと誘い、乗り気ではなかったものの断りきれずに試合会場までやってきた。
久しぶりだが何か感慨があるわけでもなく、宇髄は鱗滝と蔦子の後ろをついていった。観客席へと腰を下ろし騒がしい場内を眺めた。宇髄が辞めた剣道の試合に臨む者たちがそこにいる。
つまらない、張り合いがない。勝ちだけを見据えて続けた先に何があるのかもわからないような、ただ時間潰しと体を動かすためだけにやっていた剣道を、中学で辞めると決めたことに何の未練も後悔もしていない。この先もそんな気持ちになることなど絶対にないと思っている。
自分の実力が他の連中よりも飛び抜けているということは、剣道を始めて半年ほどで何となく感じていた。一年経てば同じ時期から始めた奴との練習量は見るからに差がつき、その半年後には先輩ですら宇髄に頭を下げる始末だった。どんなスポーツもこんなものだと思うと同時に、無性に虚しさを感じていた。面白そうだからと入ったはずの剣道部が、宇髄にとって苦痛を伴う時間になっていた。
嫌だと思い始めると気持ちが落ちていくのは早く、剣道にかける時間が惜しく感じるようになっていった。それでも何とか三年間過ごしたのは、二歳下の後輩が妙に面白かったからだった。
中学生のくせにやたらと凶悪な面をして、柄が悪いのを隠しきれていないくせに、取り繕って礼儀正しく敬語を使うし頭も下げる。こんなに従うのが嫌そうな表情をしておいて我慢している姿が何となく面白かった。根は割と素直だし、腫れ物に触れるような扱いをされるよりはよほど楽しかった。
あいつはまだ剣道部にいるだろうか。筋は良かったから強くなっているかもしれない。トーナメント表は冨岡の名前を見つけ、その後離れた場所に載る後輩の名前を見つけた。
順当に勝ち上がれば二人は決勝で戦う。知り合いの名前を見つけて宇髄の心中は少しだけ浮ついた。
「やった、勝ったわ! 義勇、格好良い!」
目の前で繰り広げられた試合に宇髄の目は釘付けになった。
荒々しい剣筋と揺蕩うような剣筋。似通うところなど一つもないものがぶつかり合い、観客の視線を集めていた。
宇髄の知る後輩は剣道など始めたばかりで、他の一年と一緒にしごかれ血反吐を吐いていたはずだ。宇髄の知らない間にこんなに強くなったのか。後輩に対しての感情がぐるぐると渦巻き、初めて見た冨岡の剣筋に対しても心中で色んな言葉が巡っていた。
宇髄がまだ剣道をやっていた頃、これほど目を奪われるような試合など見たことがなかった。試合を見てもやっていても、心が動くという感覚がわからなかった。ざわついた胸が擽ったいのか痛いのかよくわからない感覚に苛まれた。
「義勇と同い年の子だな」
鱗滝の一言にふと宇髄は顔を上げ、心中で呟いた言葉に自分自身も驚いた。
良いな。
素直にそう考えてしまった言葉は、悪意も他意もなく単純な感想として感じたものだった。
成程なあ。宇髄は妙に納得してしまった。自分は一人が嫌だったのだ。俗にいうライバルと呼べそうな者は前にも隣にもおらず、宇髄は一人虚しさばかり募らせていた。
良いな。同い年か、羨ましい。あと二年、せめてあと一年遅く生まれていれば。
もっと違った感情を剣道に抱いていたかもしれないと初めて思えた。
「冨岡の年代豊作そうっすねえ」
「どうだろうな。義勇が負けん気を発揮できる者がいればどんな相手でも良いが」
「……そうっすね。それが一番だわ」
戦いたい、勝ちたいと思える相手がいるならばどんな奴でも有難いものだろう。本人の気性は大人しく鱗滝としても心配していたようだが、この試合を見れば杞憂であることはすぐわかる。放っておいても勝手に切磋琢磨していきそうではないか。
「きみには相手がいなかったか」
「………。まあねえ。俺ってば強すぎたもんで」
剣道をやっていたことは言っていなかったはずだが、どうやら鱗滝にはばれていたらしい。佇まいだとか手のひらとか、何やら見てわかる癖があるようだ。
「その気持ちはきみと同じ境遇の者にしかわからないものだが。……儂としてもいつかまた剣道をやりたいと思えるようになれば良いと思う」
「どうかなあ。戻りたいとは思わねえけど」
「戻るのではない。待てば良い」
瞬いて鱗滝へ視線を向けると、元々の優しげな顔が更に優しい顔をしていた。何でそんな、孫でも見るような微笑ましい視線を宇髄へ向けるのか。この目だけは無性にいたたまれなくなる。
「きみが全力でぶつかれる相手が現れるのを。それが義勇や相手の彼かもしれないし、また別の誰かかもしれない。少しばかり時期が早かっただけだ」
長い人生での三年など短い期間、その時感じたものは確かに真実ではあるが、それが全てではない。鱗滝のような年配者にはわかるものがあるようだ。
「だったら良いんですけどねえ」
茶化して憎まれ口のように呟いたものの、あいつらの試合を見るのは悪くない。気づかぬまま宇髄の口元は弧を描いていた。
「知ってる。宇髄の試合は見たことあるから」
下宿し始めて最初の食事時、敬語を使う冨岡に必要ないと口にすると少々戸惑いながらも冨岡は頷き、それから宇髄に敬語を使わなくなった。
部活の後輩だとかそういう関係でもなく、ただ同居人として距離を縮めようかと考えてのことだった。意外と宇髄に懐いているらしく、最近は遠慮もなく呼び捨てるくらいだ。
「何だよ、知ってたのかよ。言えよ」
「聞かれたくなさそうに見えたから、話をしないほうが良いのかと思ってた」
中学生のくせに年上に気を遣って剣道の話は避けていたらしい。鱗滝たちは冨岡が話したいことを聞きたがるので、自然と剣道のことは宇髄の前では聞かなかったようだ。
「別に話くらいなら聞いてやるよ。やらねえけどな」
「そうか。だったら言う」
どこか安堵したような表情で冨岡は頷き、今日の試合を振り返った。何とか勝てたが何度も駄目だと思ったとか、気合が凄くて気圧されたとか。勝っておいてその感想はどうなのだと思うが、まあ冨岡ならではの思考なのかもしれない。
格好良かったと笑う姉には、少し照れたように視線を彷徨わせながらも笑みを返した。こうしていると年相応に少々幼く、宇髄が釘付けになった試合をしたとは思えないほどだった。