下宿人たちの大立ち回りとその後
普段と変わらず鼻歌でも口ずさみながら歩いていると、行く先に誰かたむろしているのが見えた。
ひとかたまりに立っている者が数人。頭が飛び抜けているのは教師の悲鳴嶼だ。宇髄は担任を受け持たれたことはないが、何かにつけて剣道部に勧誘してくる教師だった。その周りに三人男子生徒が立って話を聞いている。悲鳴嶼が宇髄へ指を向けると、三人の男子生徒が一斉に顔を向け睨みつけてきた。
「ここで会ったが百年目ェ! おら観念しやがれ宇髄ィ!」
「また剣道部か! 俺もう三年なんだけど!」
行く手を阻まれた宇髄は急遽踵を返して走り出し、見覚えのある強面が迫ってくる。高校で再会してから敬語も何もかもやめやがった不死川は、走り出した宇髄を追いかけ阿呆なことを叫び出した。
「うおおォ俺は風になる!」
「何が風だよ俺は音速だコラ、来れるもんならついてきやがれこの礼儀知らず!」
「てめェが剣道続けてねェのが悪ィんだろうが! 剣道部員ならいくらでも先輩って呼び続けてやるよォ!」
「俺は高校まで剣道やるつもりはねえよ!」
騒ぎながら走っても不死川は宇髄との距離を縮められていない。宇髄の前を走る者などこの学校にはいないのだから当たり前だ。いくら顔が怖かろうと追いつけないなら敵ではない。さて、他の二人はどこへ行ったと視線で探すくらいの余裕が宇髄にはあった。
宇髄は校内にファンクラブがあり、特に迷惑とも思っていないので何をされても放置していた。今回も逃げる宇髄と追う不死川を自転車で撮影してくる猛者がいたが、構わず宇髄は走り続けた。もはや般若の面でも被っているのかとでも思うほど不死川の顔がやばかった。
悠々と逃げていたはずが、突如宇髄の前に回り込んできたらしい冨岡が姿を現し、一瞬進行方向を変えようかとスピードをほんの少し落とした隙をつかれ、伊黒が上から降ってきた。本気すぎるだろ、と年下にも関わらず大人気なさを突っ込みたくなったが、そんなことをする隙もなく伊黒の体が宇髄へとぶつかった。
「重しが足りん!」
伊黒くらいなら弾き飛ばせば余裕だと思った瞬間、自覚があるらしい伊黒が叫んだ。その瞬間冨岡と不死川が勢いをつけて宇髄へとダイブした。言葉になりきらなかった叫び声を上げて宇髄が倒れ込み、三人分の重しを受けて動けなくなった。
「……お前ら、ふっざけんなよ……」
「貴様ら俺まで下敷きにするな! 死ぬ!」
とりあえず二人は伊黒から離れたものの宇髄から降りることはなく、そのまま息を整えているとぽつりと一言呟く声が聞こえた。
「……正しく風だったな」
「冨岡は水あたりかなァ」
「水など流れるし染まるし良いとこなしだろ。……いや、脅威になることもある。やはり冨岡に水は言い過ぎだ」
「伊黒は蛇のようだな」
「よせ。褒めるな気色悪い」
本当に阿呆だ。人の上で何を悠長に話をしているのか。呆れだとか怒りだとかとにかく色々湧き上がった後、飽きない奴らだと宇髄は心中でひっそりと笑った。
「褒めてねえだろそれ……」
「伊黒は爬虫類が好きだ」
「褒めてたんかい! つうかいつまで俺の上で阿呆みたいな会話するつもりだ、退け!」
叫んでも三人は動かず、全体重を乗せて宇髄の上に陣取っている。いや、重いんだが。これが宇髄でなければ圧死しているだろうと考えた。
「剣道部に入るなら退いてやるよォ」
「入るわけねえだろ、引退まであと何ヶ月だと思ってんだ。悲鳴嶼先生も諦めねえな……お前らまでけしかけるとは」
息を詰めて思いきり力を込め、宇髄は上に乗る三人を弾き飛ばした。衝撃で吹っ飛んだ三人は各々倒れ込んだ後顔を上げ、恨めしそうに宇髄を見上げた。あまりに尊敬の念がなさ過ぎる。ちょっと可愛がりすぎたようだ。
「何言われたって入らねえよ。俺は俺の人生設計の元に生きてるからな」
「何が人生設計だァ。頭パーのくせによォ」
「お前本当に俺のこと尊敬してたの? 態度悪すぎるだろ」
「不死川はずっと宇髄と剣道をしたがってる」
「妙なこと言ってんじゃねェ!」
「まあそういうのは嫌いじゃねえけど」
騒ぎ始めた冨岡たちをぼんやり眺めて溜息を吐いた宇髄は、それでも楽しげに笑みを見せた。可愛いところもあるもんだ、と三人へ生温い視線を向けて。
「お前らが同い年だったら続けてたかもなあ」
こいつら三人の試合は何度か見る機会があった。宇髄が無意識に欲していた関係性を、高校でも築いている三人が眩しくて羨ましくて仕方ない。つまらないと感じた剣道が、こいつらとなら面白くなるのではないかと思うことだって一度や二度ではなかった。
かといって今更自分が剣道部に入るのは少し違うとも思うのだ。待てば良いとは言われたが、待った分自分も年をとっていく。
待っていた二年間、高校の剣道部には宇髄の心は動かなかった。宇髄が全力を出せる相手がもしいればと少しばかりの期待があったことは自覚していた。悲鳴嶼の稽古にも興味自体は湧いたものだが、やはり教師では教える立場が大前提としてあった。
宇髄が欲しかったのはライバルだった。そんなこと、誰の前でも言えないが。
宇髄の言葉で不死川は苛立ったような様子を見せた後、大きな舌打ちをしてその場を去っていった。残された二人は後ろ姿を見送り、宇髄が立ち上がると二人も制服の砂埃を払い始めた。
「悲鳴嶼先生が言うから付き合ったが、俺はそもそも貴様の腕前など知らんし嫌がる者を無理やり入れても士気に関わる。せめてやる気がなければな」
「ま、お前らは付き合いだろうとは思ったけど。お前らだけで充分強えだろ。あ、試合は見に行ってやるよ、負けてだせえ姿見てえからな」
「……やりたいと思うことがあったら」
呟く冨岡の声は小さく、狭霧荘で聞く穏やかな声音と同じだった。宇髄が剣道をしていたことを知っていても、宇髄が教えるまで何も口に出さなかった。
「声をかけるから言ってくれ」
いつでも良い。冨岡の口元が緩やかに弧を描いて言葉を発した。やりたいと思ったらな、と念を押して伊黒も冨岡とともに去っていく。取り残された宇髄はぼんやりと後ろ姿を眺めた後、ようやく大きな息を吐いた。
「いつまで待ってられんのかねえ」
何年、何十年経っても声をかけてくるのだろうか。その頃には宇髄だって剣道など忘れて素人同然になっていてもおかしくないのに。結局のところ、冨岡だって不死川のように宇髄と剣道をしたくて堪らないのだろう。
何だよそれ、馬鹿だな。同年に似たりよったりの実力者が三人いて、一つ下にはもう一人いて、その上更に宇髄まで必要らしい。貪欲だなあ。宇髄は勝ちも強さも貪欲に欲したことなどなかったのに、今はやけに欲しくて仕方なかった。期待されるということがこれほど嬉しいものだとは思ったことがなかったのだから。
宇髄のファンクラブ連中に逃走中の光景を撮られてから、三人の噂は思いきり出回ってしまったらしい。
ファンクラブ内で目をつけられ、追いかけっこを見ていた生徒たちが騒ぎ、剣道部であると知り今では三人のファンクラブが秘密裏に出来上がったそうだ。好き勝手暴れて目立っていたので、正直ファンクラブは時間の問題だったかもしれないが。
勝手に渡される差し入れに関して剣道部員は喜んでいるものの、妬み嫉みといった視線も送られることがあり、あまり気分の良いものではないそうだ。三人以上に腕の立つ者がいないに等しく、モテるのは仕方ないと諦めている者もいるようだった。本人たちは一丁前に面倒そうにしていたが。
「冨岡くん、好きな人がいるんだって。本当なの?」
どこぞの一年が告白して見事に玉砕し、返答がそれだったらしい。
宇髄は冨岡と恋愛の話などしたことはない。向こうも話題にしないのでまだ興味がなくお子ちゃまなのだと思っていた。ふうん、好きな人か。そりゃ可愛げのある断り文句だな。女子に構う暇はないとはっきり言うよりも角が立たない。どうやら冨岡も学習したようだ。こっ酷く振って恨みを買うと後々部活に影響が出るかもしれないし。
「そんなことまで知らねえよ。そうなんじゃねえの?」
「だっていつも三人でいるし、女子と関わってるとこ見ないし。そういう設定で通すことにしたのかなあ」
どうやら誰も信じていないようだ。基本的に女の影が見えないあいつらならば疑われるのも仕方ないとも思うが、嘘だとしても冨岡の断り文句に上った好きな人イメージがどんなものなのかは興味がある。どうせ姉に似た女を考えていたのではないかと思うが。
「え? あの話まじなの?」
部屋に戻ろうとしていた冨岡に世間話のついでに話を振ると、不思議そうに首を傾げて本当だが、と一言呟いた。興味がないのだと子供扱いしていたら、しっかりと恋愛感情は持っているらしい。そのまま向かいにある冨岡が使っている部屋のドアを開けようとするので、宇髄は腕を掴んで自室へと引っ張り込んだ。
「学校の奴?」
「いや。会ってない」
引きずり込んでまで聞くことか。眉を顰めて窘めるように呟いた冨岡には悪いが、付き合いも短くなく割と宇髄は気にかけていたわけで。自己主張をあまりしない冨岡が好きになるような人間がいるのなら成就してほしいと思うのは、まあ、絆されているとは思うが宇髄にとっては自然なことだった。
「はあ。一途だねえ。今後会う予定あんの?」
「ない」
相手がどんな奴かは知らないが、とにかく冨岡は現時点で会う見通しが立っていないらしい。会いにいけよとか電話しろよとか色々と言いたいことはあるが、連絡先を知らないのかもしれないし、幼心に抱くような淡いものなのかもしれない。こんなところで足踏みなんてしていたらいつの間にか誰かに盗られるんじゃないだろうか。年齢もどこに住んでいるかも何も言わないし、何もアクションを起こさない冨岡を見ていると、向こうは何とも思っていない可能性だって大いにある。というか、どうにかなるつもりは更々ないようにしか見えない。
もしや口実に使っているだけなのではなかろうか。まあ、冨岡がそれで良いのなら構わないとは思うのだが。