十歳と七歳
「引っ越し?」
毎日顔を見続けて遊び続けたこの日まで、カナエはずっと楽しかった。
近所のお爺さんは優しいし、一緒に遊ぶ男の子もそのお姉ちゃんも優しい。カナエの妹であるしのぶが遊びたいと言うものには付き合ってくれるし、何よりカナエもしのぶも彼らが大好きだ。
だから喧嘩なんてせずずっとこのまま一緒にいるんだろうと思っていたし、大きくなったらしのぶは義勇と結婚するのも決まっている。許婚とかいう制度があって、大人になるまではお互いをそう呼ぶのだと母に教えられた。二人が結婚するのは嬉しいのにほんの少しだけ寂しい気もしたが、結婚は二人でしかできないので仕方ない。しのぶは義勇のことが好きだし、義勇もしのぶを自分の妹みたいに可愛がってくれる。二人が嬉しいならカナエも満足なので、三人で結婚はできなくても大人になるまでは一緒にいられれば良いかと納得したのだ。
「義勇さんも行くの?」
父の転勤というものが決まり、引っ越さなければならないと言われた時に向けられたしのぶの質問に、カナエは何も答えられなかった。母が自分たち家族だけが引っ越すのだと諭し、父も少し困りながらしのぶにわかるよう言い含めた。義勇は冨岡さん家の子だから、父の転勤についてくるようなことはない。そんなことをしたら蔦子や鱗滝が悲しんでしまう。義勇には家族がいるのでそれはできないと伝えると、会えなくなるの、と消え入りそうな声がカナエの耳に届いた。
「お手紙書けば良いのよ! 義勇くんきっと返事くれるわよ」
「しのぶ泣かないで」
明るい母の提案にも我慢ができなかったようで、しのぶの大きな目から大きな雫が溢れ落ちていた。
悲しいのはカナエもだった。つられるようにカナエの視界も歪んで見えなくなり、しのぶを抱き締めながら泣いていた。困ったような気配が両親から感じられたけれど、ごめんねと一言呟いてしのぶとカナエを抱き締めた。向こうの学校もきっと楽しいわよ、と宥めるように口にして、母はずっと二人の頭を撫でていた。
引っ越すのだと義勇に伝えると、目を丸くした後そうなのかと小さく呟いて俯いた。しょんぼりしてしまった義勇を見てしのぶも落ち込んでしまい、二人の様子にカナエも心苦しくなりながら、母が言っていたように手紙を送ると口にした。しばし悩むように黙り込んだ後、義勇は小さく笑ったものの首を横に振った。断られるとは思っておらずどうしてなのかと問いかけると、定期的にしていた文通相手から返事が来なくなり、蔦子ががっかりしていたことを教えてくれた。来ると思っていたのに来なくなったら悲しい、と呟いてまた足下へと目を向ける。
「ちゃんと送るわ。しのぶと二人で」
「姉さんはがっかりしてたけど、学校とか忙しいだろうから仕方ないって言ってた」
転校するのだから新しい環境に慣れなければならず、きっとカナエたちも日々忙しくて大変だろうと言う。義勇に手紙を書くのに忙しさなんて気にならないのに、普段どおりの柔らかさの中に寂しさを滲ませた笑みを義勇はカナエたちへと向けた。そんな顔をされるとカナエまで悲しくなってきて、つんと鼻が痛くなる感覚を覚えてしまった。
「ごめん」
目元を擦っていると少々申し訳なさそうな声音が謝ってくる。悪いと思うなら文通をしてくれれば良いと思うけれど、カナエもしのぶも絶対に返事を忘れたりしないけれど、義勇が悲しいと言うのだから無理にやりたいとは言えなくなった。
「じゃあ、こっちに遊びに来る時は手紙で知らせるね」
瞬いた大きな目がカナエを捉え、義勇は頷いて笑顔を見せた。二人を眺めていたしのぶが義勇へとしがみついた。
しのぶの背中を擦る義勇を眺めていると、ふと妙案を思いついてカナエは手を叩いた。不思議そうにする二人に笑みを向けて口を開いた。
「ちゅーしよう! すっごく好きな人とするんだってお母さんが言ってたし、しのぶもやろう!」
そうと決まればと義勇の顔を覗き込むように目と鼻の先まで近づいた瞬間、義勇の手のひらがカナエの口元を思いきり覆った。近づいた距離が無理やり離され、カナエは少々不満げに眉を顰めた。
「ちゅーしたら責任取りなさいって姉さんが言ってた」
「責任って?」
「結婚するんだって」
「わあ。それは駄目だね。義勇くんはしのぶの許婚だもの」
許婚は大人になって結婚できるようになるまでの二人を指す言葉だと聞いている。カナエは義勇が大好きだけど、義勇と結婚するのはしのぶなのだ。三人では結婚できないからカナエは義勇とちゅーができない。少し悲しいが仕方ない。
「じゃあしのぶとして」
「でもまだ結婚できないし、責任取れない」
「むう。じゃあほっぺ! この前クラスの子がしてたの見たの。ほっぺなら良いんじゃない?」
そうなのかと義勇は首を傾げたものの、蔦子は口同士でするちゅーのことしか言わなかったそうだ。カナエが見たクラスの女子は人気者の男子にやっていたし、きっと結婚できない年齢の間は頬にして好きだと伝えるのだろう。
「私が義勇くんのほっぺにするから、義勇くんはしのぶにして」
「しのぶちゃんはカナエちゃんにするのか?」
「んー。しのぶはしなくても良いかなあ」
唸りながらカナエは考えた。義勇がカナエにするのは駄目なのではないかと考えて言ったのだが、いまいち作法がわからない。カナエは義勇が好きだからちゅーはしたいけれど、何となく許婚のしのぶと同じことをしてしまうのは駄目な気がしたし、しのぶのちゅーは結婚する時に取っておくべきではないかと思ったのだ。
あまり納得しているようには見えなかったが、義勇はわかったと呟いてしのぶの頬へ顔を寄せた。擽ったそうに目を瞑って義勇のちゅーを受け入れたしのぶは、嬉しそうに笑って義勇へとまた抱き着いた。二人がぎゅうぎゅうと抱き合っているうちに、カナエも義勇の頬へと唇を触れさせた。
「忘れないでね」
また涙腺が緩んでしまったのか、義勇に抱き着いたまましのぶがカナエに泣きそうな目を向けた。少し困ったような寂しげな顔をした義勇が、カナエの言葉に頷いた。