陰口

「婚約者と同じ屋根の下とかもう一線どころか越えまくってるでしょ。あんな顔してやりまくりだよ絶対」
「うわー、ヤバい。でも婚約者なら良いんじゃないの?」
「他にも卒業生の男が下宿してるらしいじゃん。そりゃもうあの顔で誘惑し放題だよ」
 女子トイレの扉を開けようと手を伸ばした時、中にいるらしい生徒の話し声が聞こえてきた。ぴくりと片眉が反応するのを自覚し、しのぶは手を下ろして移動しようと踵を返した。
「嫉妬丸出しで笑うからやめてよ。でもあんなイケメンと同居とか最高だよね。部屋連れ込まれたいわ。他の人たちもイケメンらしいし、よりどりみどりでヤバい」
「どうせ遊ばれるだけだって」
「婚約者と同居するためにこっち来たなら凄くない? そこまでするか」
「どれが本当なんだろうね。やっぱコーチが弄んでんのかな」
 下世話な陰口に花を咲かせる女子の会話に、しのぶはげんなりとして溜息を吐きその場を後にした。噂話に鉢合わせるとは思っておらず、なかなかに聞いているのが辛くなっていた。
 しのぶも冨岡も、甘露寺も伊黒も、言ってしまえば宇髄も不死川もそういった噂とは無縁の良識を持つ大人である。風呂を覗かれたこともなければ手が触れたことすらない。冨岡には多少触れられたことはあるが、頭や肩といった部位だけである。残念ながら彼女らの妄想しているような出来事は何一つとしてない。狭霧荘の居間には風紀と書かれた紙まで貼っている。というより、宇髄以外の彼らは皆しのぶと似たりよったりの初心なので、下衆い妄想は現実にはないのだ。どうせあの手の輩は信じないだろうが。
 早く噂は消えてほしいが、本当に消えるのか不安にもなった。しのぶはあまり気にしないようにはしているが、甘露寺などはずっと気に病んでしまいそうだ。
 消えるよりも更にエスカレートしそうな噂は、根も葉もないものであることは少数とはいえわかってくれている。関わることのない生徒の陰口など気にしなければ問題ないはずだ。気分は良くはないが。
 なんて思っていたのに、しのぶは今貼り付けた笑みがひくりと引き攣ったまま固まっていた。思いきり噂に惑わされた男子生徒に呼び止められ、目の前にいる相手をどうあしらうかを考えていた。
 何が俺もひと晩お願いしたいだ。告白とも違う要望に馬鹿にされたような気分で血管を浮き上がらせていた。
「胡蝶さんやりまくりだって聞いたし、そんなら俺も」
「お断りします。迷惑です」
 角の立たない断り文句を考えるのも煩わしくなり、しのぶは辛うじて笑みを見せたままはっきりと断った。好きだからとか言うのならば真摯に答えるべきではあるが、こんな男子に気を遣うのも馬鹿らしくなった。
「あ、もしかしてこの噂は嘘なの? じゃあ遊ばれてる? だったら俺に乗り換えない?」
「どれもこれも真っ赤な嘘です。遊ばれてもいません」
 遊ぶなどという言葉で冨岡が結びつくのは体を動かす健全な遊びくらいのものである。狭霧荘では一度下宿人と甘露寺、煉獄を含めて何故か鬼ごっこをしたことがある。そのくらい健全な交友をしているのだ。宇髄ですらノリノリで追い回していたほど白熱した。周りの勘繰りは全くもって事実無根であり、このような呼び出しも迷惑以外の何物でもない。むしろ殲滅して然るべきだろう。
「えー、じゃあ何もないわけ? 婚約者も嘘なの?」
「……婚約者は本当です」
 納得しきれていないような表情を見せた男子生徒は、曖昧に頷いてしのぶを見つめた。
 いい加減この場から離れたくなり、しのぶは会釈をして歩き出そうと足を踏み出した。
「本当に? そういう設定なんじゃないの、あのコーチ甘露寺さんと仲良いもんな。やっぱ甘露寺さんと付き合ってるとか」
「違います」
 苛立ち始めたしのぶは男子生徒を睨みつけ、強い口調で否定した。以前ならばしのぶも悩んでいたことを指摘され、思わず唇を噛み締めた。尚もにやついて言い募ろうとする男子に口を開く。
「冨岡さんの好きな人は私です。甘露寺さんは伊黒さんと両想いですし、他の下宿人の方は誠実で下世話な噂とは何の関係もありませんし、私は冨岡さんが好きです。ずーっと好きです、他を見るつもりも余裕もありません! 何せ子供の頃から好きですから! それでは!」
 その場から駆け出し角を曲がった時、勢いに任せて何かにぶつかった。ぶつけた鼻を押さえながら顔を上げると、見知った顔が視界に映った。冨岡と煉獄、もう一人剣道着を着た生徒が荷物を抱えてしのぶを眺めていた。
 しのぶの捲し立てる声が聞こえた野次馬が数人遠目に眺めていることにも気づき、目を見開いて冨岡を見上げ、頬に熱が一気に集まるのを自覚した。
 何でいるのよ……!
 本心を口にしていたのを聞いていたのか、煉獄と隣の剣道部員は目を輝かせてしのぶを見ていた。当の冨岡は澄ました顔でしのぶを見下ろし、何を考えているのか全くわからなかった。
 冨岡にも煉獄にもすでに知られていることではあるが、周りの生徒は興味本位でざわついているのがわかってしまった。いくら事実だとしてもこんな本人以外に見られるのは羞恥で身悶えしてしまいそうだった。
 しかし、良い加減噂には飽き飽きしていたところでもある。冨岡やしのぶが煮え切らなかった間告白は減りもしなかったことを考えると、自ら言ってしまったほうがよほど効果的なのではないか。睨むように冨岡を見つめて真っ赤な顔のまましのぶは口を開いた。
「もう知ってると思いますけど、私は冨岡さんが好きです、ずっと好きです! 冨岡さん以外に興味ありません! 卒業したらお嫁さんになります、から、ええと、」
 勢いに飲まれていた頭が少し冷静になり、しのぶの口は言い淀んだ。本心を口にした次はしのぶのしたいことを伝えたいのだが、羞恥がまた込み上げてきて涙が出そうだった。頬の熱は収まらないし、まるで高熱を出した時のように浮ついている。
「………、……て、手を、繋ぎたいです」
 俯いたまま何故手を差し出したのかはしのぶにもわからなかった。別に今繋ぎたいわけではなかったのに、しかも冨岡は今荷物を抱えている。何をしているのだろうか。しのぶは叫び出して逃げたくなった。
「先輩、それは握手だ」
 しのぶの差し出した右手を冨岡の右手が掴み、力強く握られた。そうじゃない、と煉獄の困惑したような声音が耳に届いた。顔を上げると片手に荷物を抱え込んでしのぶの右手を握っている冨岡が視界に映る。煉獄の隣にいる部員は呆れたような顔をして冨岡へ視線を向けていた。
 握手といえどしのぶの手に触れた冨岡の手は大きくて温かく、思わず口元がにやけるのを空いている左手で隠した。
「いえ、充分です……」
 嘘だろ、と部員が小さく呟いたのが聞こえたが、しのぶの胸がいっぱいになってしまいまた俯いてしまった。頬どころか耳まで熱い。
「………、ふ」
 漏れ聞こえた声にしのぶは目を瞬いて、頬が赤いまま顔を上げた。堪えているのか控えめに冨岡が肩を震わせて笑っているのが見えた。煉獄と部員が驚いたように冨岡へ視線を向けている。
 微笑んだりしているところは見たことがあるが、おかしそうに笑うところは何年ぶりに見ただろう。
「な、何で笑うんですか」
「……いや。可愛いと思った」
 湯気でも出そうなほど真っ赤になっているだろう頬を何とか冷やしたいのだが、情けない顔をしてしのぶは冨岡を見つめた。随分楽しそうで嬉しそうで、子供の頃の面影が表れている。
 ふいに握手をしたままだった右手が引っ張られるように引き寄せられた。屈んだ冨岡がしのぶの耳元に近づいて一言呟き、その言葉に照れと困惑と嬉しさが綯い交ぜになりしのぶは真っ赤な顔に複雑な表情を浮かべた。
「……そうですか! 部活行ってきます!」
 手を振り払い頬を押さえて全速で走って逃げ出した。到底耐えきれないことを仕出かしてしまったが、頭の隅で噂がかき消されることを願う。ここまで恥ずかしいことを暴露したのだから。
 ——俺も胡蝶にしか興味がない。
 すでに好かれていることは知っていたけれど、心臓を壊しにでもきたような破壊力があった。耳元で聞こえた声がいつまでも残っているような気がして、しのぶは思わず耳に触れた。

*

「……あれで手を繋げると思うか」
 少々茫然としたような声音で冨岡が呟いた。
 颯爽と走り去って行った噂の中心にいた胡蝶の向かった先をぼんやりと眺めながら、冨岡は片手に抱えていた荷物を持ち直した。柔らかく楽しげだった表情は普段の無愛想に戻っている。
 隣の後輩は冨岡が笑っているところを初めて見たようで、目を剥いて驚いていた。確かに先程の楽しそうな笑みは煉獄も初めて見るものだったが、胡蝶相手ならば見せるのだろう。
 今回胡蝶が大っぴらに冨岡に告白したのも下世話な噂を打ち消したくてしたことだというのは察していた。冨岡もそれに気づいて野次馬も数人いるこのような場所であんな真似をしたのだろう。本来彼は控えめで大人しく堅物で、間違っても後輩の前で風紀を乱しかねない真似はしない。別に先程の行動で風紀が乱れるとは煉獄は思わないが。
「慣れていけば良い! というか先輩も似たようなものだろう、今は頑張っていたようだが」 
 じとりと煉獄を睨む顔に朱が差している。
 周りにいた野次馬が興味津々にこちらへ意識を向けているのがわかったが、煉獄は気にすることなく言葉を続けた。
「煮え切らないままよりよほど良いと思うがな! 婚約祝いをプレゼントした甲斐があった」
「……やっぱりわざとだったか」
「まさか。先に言ってしまったのはわざとではないぞ」
 背中を押そうとしていたことは確かだが、良からぬ企みを持って婚約者の話を広めたわけではない。純粋に先走りすぎたことを反省した結果だった。地声が大きいと言われるせいもあったのだろうとは思っている。
「これで噂が落ち着くと良いがな」
「どれのことですか?」
「全てだな! 伊黒たちとは何も拗れていないし先輩も胡蝶も見たとおり初々しい仲だ!」
「いたたまれないからやめろ」
 珍しい冨岡の様子に少し親近感が湧いたのか、後輩はにやついた口元を隠さずに相槌を打った。
 寡黙で誤解を受けやすいが、剣道部員たちはあくまで堅物である冨岡を疑ってはいなかった。胡蝶の様子を見て少々安堵したように息を吐いた。
「良かったー。胡蝶さんに遊ばれてるのかと心配してたんですよね」
「そんな奴じゃない」
「へへ。それはそれとして羨ましいですけどね」
 素直な感想を口にした後輩に煉獄は笑みを向け、冨岡は少々複雑そうな表情を見せたものの、何も言うことなく荷物を抱えて歩き出した。ついていくために煉獄と後輩も歩き始める。
「そうそう、母が話を聞きたいと言っていた。父も連れてくるようにと」
「………。……断って良いか」
「それは残念だ。伊黒は根掘り葉掘り聞かれていたのに」
「あいつの自業自得だ」
 煉獄家へと飛び出していった時のことだろうと気づいたらしい冨岡が文句を口にした。この調子では母に話をする気はないようだが、恐らく母も諦めないだろうなあ、と煉獄はひっそり考えていた。