噂話

「あのね、しのぶちゃん。ちょっと良いかしら」
 顔色を青くしながら頬を染めるという器用な表情を見せながら、甘露寺は泣きそうな顔を向けてしのぶへ声をかけた。
 何が起こったというのだろう。普段天真爛漫な甘露寺のただ事ではない様子にしのぶは驚き、昼間でも比較的静かに過ごせる屋上へとやってきた。
「フェンシング部はどう?」
「ええ、楽しいですよ。皆さんかなりお強いですし」
 部活動初日に剣道部を覗いた翌日、剣道部員がクラスメートにいるせいか朝にはすでにクラスの全員が許婚の話を知っていた。休み時間ごとに質問攻めにあったものの、しのぶは適当に躱しながらどうにか平静を保っていたが、内心相当舞い上がっていた。
 冨岡の気持ちを知って何か関係が変わったかといえば、以前より少し笑いかけてくる頻度が上がったくらいでそれ以外は特に何もない。ほっとしたようながっかりしたような複雑な感情を抱いたものの、風紀を気にする冨岡は堅物だと評判のようなのでそんなものだろう。狭霧荘の面々には何かあったことはバレてしまっているが、今のところ茶化されるようなこともなかった。
「部活始めて生活が変わったでしょ。どうなのかなって思って」
「そうですね……夕飯は冨岡さん、剣道部に顔を出す前に準備してますから、帰ったら皆さん各自食べているので、あまり一緒に食べることがなくなりました」
 一緒に帰ってきた冨岡とは食べるのだが、他の面々はしのぶたちが帰るとすでに寛いでいたり更に遅かったりとまちまちである。最近は妙な気を回され居間から出ていかれることもあり、少々気恥ずかしさはあった。
「ああ、お風呂は前の時間に入れなくなったので、宇髄さんが入浴中のプレートを作ってくださって」
 しのぶが部活を始めてから風呂の時間は少し遅くなり、脱衣所の扉に入浴中のプレートを掛ける釘が打ち付けられていた。宇髄がやたらと可愛く作ったプレートは現在しのぶ専用で、掛け忘れた場合は覗かれても文句は言うなとのことだった。一応全員了承の上である。
 あの時煉獄の言葉を聞いていたフェンシング部員はしのぶに話を聞こうとしてきたのだが、無理を言って入部してもらったのだから嫌がることはやめろと部長に窘められていた。言いたくなったらどんどん言って良いと最後に付け足していたので、部長も聞きたくないわけではないらしい。話を広めるには自分から言えば良いのだが、正直まだ少し昇華しきれていないのである。いつまで引きずっているのかと思うが、そのくらいしのぶにとっては驚愕するような出来事だったので。
「それで、何かありました?」
 顔を見せた時の甘露寺の表情を思い出しながら問いかけると、甘露寺は顔を覆って叫ぶようにしのぶの名を呼んだ。
「……クラスの子から聞かれて知ったんだけど、私たち凄く噂になってるらしいのよ」
「……甘露寺さんもですか?」
 困り果てた顔で頷く甘露寺は、クラスメートから聞いた話をしのぶに打ち明けた。
「ほ、ほら、私が部活中に冨岡さんに声をかけてたから、好きなのかと勘違いされちゃったことあったでしょ。それでちょっと」
 勘違いした側のしのぶには耳の痛い話を切り出された。名前も知らない女子生徒の言葉を鵜呑みにしたのもそうだが、冨岡が甘露寺を見る目が優しいのでついそうなのかと思い込んでいたのだ。そのあたりの誤解はすでに解決しているのだが、伊黒と甘露寺のことを考えると彼女でなければ良かったのにと悩んでいた頃を思い出し、自分の今の状況を省みて少々照れながら謝った。
「ううん、良いのよ。好きな人にそんな話があったら私だって不安になっちゃうもの。最近は私も頑張って伊黒さんに直接遊びに行っていいか聞くことにしたの。冨岡さんには迷惑かけちゃったし……」
「冨岡さんが甘露寺さんを迷惑と思うはずはないと思いますけど」
 俺を挟まないでほしいとは言っていたけれど、それも甘露寺と伊黒の関係を想ってのことはしのぶにもわかっている。下宿人の彼らと冨岡は仲の良い友人関係で、そもそも冨岡はしのぶが勘違いするほど甘露寺のことは好きなのである。迷惑を感じているわけではないはずだ。
「だと良いけど……それでね、しのぶちゃんが冨岡さんの許婚だって話が広まって、私が最近冨岡さんのところに行かなくなって、……じ、自分で言うの恥ずかしいわ」
 でも言わなくちゃ、と甘露寺は胸を押さえて深呼吸をした。あのね、と呟き、持ってきていた弁当の蓋を冨岡、箸箱を伊黒と例え、しのぶと甘露寺自身を使って説明を始めた。
「こう……こういう四角関係が出来上がっているらしいの」
「……はい?」
 箸箱の伊黒に甘露寺の好意の矢印を指で描き、甘露寺に冨岡の矢印が向かい、しのぶの矢印は冨岡へと示された。
 要するに、甘露寺と噂があった冨岡の許婚がしのぶだったことで、色々と深読みする者がいたのだろう。甘露寺に振られて傷心の冨岡がしのぶに言い寄られてオッケーを出したなどというような話もあるらしい。
「何でこうなのかしら!? 私って本当に色々迷惑かけちゃってるわ!」
「……まあ、私もそういうふうに取られても以前なら間違ってないと思ってたでしょうね」
 何せ甘露寺と冨岡の仲を勘違いしたのがしのぶ自身であるので、噂は仕方ない気もした。だからといって全肯定する気はないが。
 だってもう冨岡の気持ちを聞いてしまったのだから、胸を張って誤解だと言えるわけである。そんなこと恥ずかしくて実際にはできないけれど。
「私冨岡さんの気持ちがしのぶちゃんに伝わって嬉しかったのよ。しのぶちゃんも冨岡さんのこと好きなのわかってたから。応援しようとするとなかなかうまくできなかったけど、引っ掻き回すつもりなんてなかったの」
「それはもう、凄く伝わって来ていましたから。噂は知らない人が面白おかしく触れ回ってるだけでしょう」
「その子には誤解だって言ったけど、噂って本当に勝手に広まって弁解できないじゃない。だからしのぶちゃんたちが可哀想で……」
 ちゃんと想い合っているのに。もはや半泣きの顔で項垂れた甘露寺に、しのぶはどう反応していいか迷ってしまった。想い合っているなどと口にされると恥ずかしくて悶えてしまいそうになるのだが、あまりそこは気にしてはくれなかった。それよりも要らぬ噂に気を取られているのだろう。
「うーん。どうするのが良いんでしょうね。質問攻めされてた時に全部ぶちまけてしまえば良かったんでしょうか」
「きゃあっ、それはそれで聞きたいわ! じゃなくて、そもそも私が冨岡さんに話しかけていたから……」
「何だ、きみたちもいたのか」
 溌剌とした声が聞こえ、見合わせていた顔を向けると煉獄が近寄ってきていた。挨拶をして二人の前に座って輪を作り、重箱を開けて並べ始める。
 時折食堂でも一緒に昼食を摂ることがあるが、相変わらず煉獄は食べる量が半端ではない。甘露寺も良く食べるが、美味しそうに料理を口に運ぶ二人の姿を見ていると、しのぶはもうそれだけで満腹になるほど彼らの摂取量は多かった。
「浮かない顔だな、甘露寺。何かあったのか?」
「あ、いえ……噂の話をしてて……」
「噂? ……ああ、甘露寺が伊黒と冨岡先輩の間で揺れてるとかいうやつか」
 おにぎりを飲み込もうとした甘露寺が苦しげに胸を叩き始め、喉に詰まったのに気づいて慌ててマグボトルの蓋を開けて手渡した。何とか詰まったおにぎりを流し込んだ甘露寺は目尻に涙が滲んだ顔を上げ、煉獄に驚愕の目を向けた。
「何ですかその噂」
「む、前からあるが知らなかったのか。聞くのか? 言っても良いが気分を悪くすると思うぞ」
「えっ!? ま、前から!?」
「甘露寺さん落ち着いて。他にもありましたし、この際回ってる噂の内容を全部把握してしまいましょう」
 少々言いづらそうに口を開いた煉獄は、しのぶと甘露寺に耳にした噂の内容を教えてくれた。
 中身は良くある下世話な内容だ。伊黒と冨岡に言い寄られて決めきれず甘露寺が二人を弄んでいるだとか、そこにしのぶが割り込んできて冨岡を奪い取るために婚約を結んだとか、何なら冨岡が甘露寺としのぶを弄んでいるだとか。姿を見せない伊黒のことまではそこまで噂になっていないらしい。
「俺が聞かされた時は全く違うと伝えてきたが、悪い噂は回るものだ」
「煉獄さん、言ってくれたのね」
「ああ、甘露寺と伊黒、胡蝶と冨岡先輩は二組とも両想いなので全く違うと言っておいた。四人とも仲が良いから良く話しているだけだとな」
「りょ、両想いだなんてっ!」
 噂ではなく煉獄の言葉に気を持って行かれた甘露寺は、先程までとは打って変わって照れて恥ずかしがっている。そういえば伊黒はまだ甘露寺にはっきり伝えていないらしい。冨岡と犬猿の仲のような空気を出すくせに、妙なところは似た者同士に見えた。
「まあ冨岡先輩が堅物なのは剣道部では周知の事実だからな、部員たちは先輩が二人を弄んでいるとかいう噂は信じていないようだが、……きみたち側の噂は半信半疑といったところだ」
「お話したことありませんからね……」
「私も新入部員の子たちは話したことないわ」
「伊黒に頼んで迎えに来てもらったら良いんじゃないか? 相手がいるとわかればましになるかもしれん」
「や、やだ煉獄さんたら。伊黒さんはお仕事もあるのに悪いわ」
「二つ返事で了承すると思うがな! というか、甘露寺が困っているのを黙っていたら伊黒は悲しむだろう。言ってやってほしいのだが」
 言外にさっさとくっつけとでもいうような空気が煉獄から発されているような気がして、しのぶは少々窺うように顔を見つめた。狭霧荘に住み始めてから数ヶ月、伊黒と甘露寺の睦まじい様子はずっと見ていたので早く成就してほしい気持ちはわかるが、煉獄は背中を蹴る勢いでせっついているように見えた。
 わざとではないと言っていた婚約祝いのことも、本当はわざとだったのではないかと勘繰ってしまい、しのぶは慌てて思考を飛ばすように首を振った。
「そ、そうかしら……迷惑じゃないかしら」
「全く迷惑ではないな! 伊黒はきみに頼られると嬉しいはずだからな」
 甘露寺の頬が真っ赤に染まり、そういうことなら、とスマートフォンを取り出して操作し始めた。言われてすぐに行動に移すあたり、伊黒よりも甘露寺のほうが積極的である。
「告白は減ったのか?」
「あ、ええ、まあ。これだけ噂になってたら避けて通るでしょう」
 どれが直接の原因かはわからなくなったが、しのぶは以前より告白される回数は劇的に減っていた。とはいえ根も葉もない噂は迷惑ではあるので、早く収まってほしいところである。
「面白半分の者もいたりするだろう。充分気をつけたほうが良い」
「え、ええ。ありがとうございます」
「冨岡先輩がいるから問題ないだろうがな!」
 しっかりしのぶにも照れさせるようなことを告げて、煉獄はつついていた重箱を掻き込み始めた。何だか居もしない兄がいたら、煉獄のように気にかけてくれるのではないかと少し考えてしまった。
「伊黒さんから返事が来たわ! 今日早速迎えに来てくれるって言われちゃった。どうしよう、緊張してきたわ!」
「伊黒さんて最近在宅仕事に切り替わって時間あるんですよね。毎日来てもらっても良いのでは?」
「そうしよう。俺も一言言っておく!」
 必要以上に世話を焼こうとしているような気がするが、甘露寺が喜んでいるので煉獄の様子には口を挟まないことにした。