公表

 胡蝶がフェンシング部に入部することになったと甘露寺から聞き、煉獄はそうかと一言口にして頷いた。
 実力のある者が競技を続けるのはたとえ自分の知らない種目だとしても喜ばしい。胡蝶は勝ち負けに拘りがないからと渋ってはいたが、楽しさを見出して打ち込むことも大事だ。むしろ楽しめることは素晴らしいと思う。
 しかし口では乗り気ではないようなことを言っていたものの、甘露寺から見ても楽しみにしているように見えたそうなので、部活自体に拒否感があるわけではないようだ。
「今日から部活なんですって。帰りは冨岡さんと帰るのよね、きっと」
 青春だわ、と頬を染めて呟く甘露寺を眺めて煉獄も頷いた。今しかない高校生活をできるだけ謳歌するのが良い。良い思い出と振り返ることができるよう励むのみだ。
「冨岡先輩」
 部活の終わりの時間を迎え、満身創痍で顔色の悪い部員たちが更衣室へ向かうのを視界に入れつつ冨岡を呼び止めた。不思議そうに煉獄を見る冨岡に紙袋を差し出し、祝い品だと口にした。
「冨岡は今日誕生日だったのか」
「……いえ」
 悲鳴嶼の問いかけに疑問符を浮かべながら否定した後首を傾げている。差し出している紙袋を取ろうとしないので煉獄は無理やり手に持たせた。ちょうど部活が終わったらしく、剣道場の入り口にフェンシング部員だろう女子生徒とともに胡蝶が近づいて覗き込むのが見えた。
「婚約祝いだ!」
 冨岡が手を離した紙袋が床に落ちる前に慌てて掴み、死んでいたはずの部員たちの視線が一斉に集まるのを感じた。視界の奥に胡蝶があんぐりと口を開けたのが見える。
「結婚するのか冨岡。そういうことなら私もお祝いを……」
「む、どうした先輩!」
 首根っこを掴まれ引きずるようにして煉獄を剣道場の入り口から連れ出そうとする。唖然とした胡蝶の顔は少し気を取り直したようで、わけのわかっていないフェンシング部員とともに煉獄たちをまじまじと眺めていた。
「婚約じゃない」
「言い方が違うだけで同じだろう。母と選びに選んだものだぞ、割れ物だから落とさないでくれ」
 入り口から離れた廊下の隅まで移動して小さな声で冨岡は指摘した。親が決めた関係であろうと婚約者であることに変わりはないはずだ。煉獄と冨岡の様子を窺う連中が剣道場からも増えていた。
「……中身は何だ」
「夫婦茶碗だが」
 両手で顔を覆いながら項垂れた冨岡の耳が赤いことに気づいた。
 在学中、女子生徒にモテていたことは知っているが、ここまで照れるところを見たことがなかった。伊黒の言うとおり、煉獄が感じたとおり胡蝶を好いているのだろうと確信した煉獄は、ちらりと胡蝶へ目を向ける。フェンシング部員がこちらを指して胡蝶に何か話しかけているのが見えた。困ったように笑みを浮かべながらも、少々落ち着かない様子なのが窺える。
「………、……そんなことする奴だったか……?」
「先輩は好きな人の話を教えてくれなかったからな。まあ俺は応援していると言いたかった。両親も応援していた」
 あの日最後には今度連れてきなさいと父も言っていたし、母は伊黒に根掘り葉掘り聞いた後、冨岡にも話を聞きたいと言っていた。祝いの品は母が懇意にしている陶磁器屋で良いものを選んできたつもりだ。冨岡の腕がゆっくりと振り上げられるのを眺めていると、ごつんとぶつかるような音とともに脳天に思いきり衝撃が走った。
「何故殴る!」
 拳骨が振り下ろされ、油断していた煉獄は痛みについ笑みを消して文句を口にした。冨岡の顔はすでにいつもどおりの無愛想に戻っているが、煉獄をじとりと睨みつけていた。
「公表すると言っていなかったか?」
「言うかどうかの判断は任せてる」
「成程、先走りすぎたか! すまない胡蝶!」
 当事者より先に煉獄が言ってしまったことがまずかったらしい。納得し慌てて入り口付近にいる胡蝶へ謝った。再び頭を抱えた冨岡から溜息が聞こえたが、呆然としたような胡蝶に経緯を聞こうとしているフェンシング部員が詰め寄り、胡蝶の頬が一気に赤くなったのを目の当たりにした。
「わざとか?」
「すまない、本当に失敗した。だがはっきり言ってしまえば良いと思うぞ。俺はお似合いだと思う」
 心底困ったように眉をハの字にした冨岡に紙袋を差し出し、しばらく黙って紙袋を見つめ、やがて冨岡は礼を口にした。余計な世話だったらしい煉獄の厚意自体には有難いと思ってくれたようだった。
「詳しい話を聞いても良いのだろうか」
 悲鳴嶼が入り口から問いかけた言葉に冨岡は大層複雑そうな顔を向けたが、明日と一言呟いた後黙り込んだ。明日話してくれるらしいと察した悲鳴嶼は納得したように頷いた。
 要らぬ世話を焼いた煉獄にはこの空気をどうにかする責任があると感じ、とりあえず部員たちに着替えて帰るよう声をかけた。興味津々にしていた部員は煉獄には逆らわず、また冨岡に面と向かって聞く猛者もおらず、挨拶を口にして更衣室へと戻っていった。胡蝶は渋るフェンシング部員の背中を押して無理やり先に帰していた。
「すまない、胡蝶。良かれと思って言ってしまった」
「………。……いえ」
 両手のひらで真っ赤になった頬を隠しながら、困り果てた顔をした胡蝶は消え入りそうな声で一言返事をした。
 照れる様子は愛らしく、周りが騒ぐのも理解できるほどだ。冨岡は道着のまま荷物を持って、胡蝶を連れて足早に剣道場を出ていった。
 しばらく黙って見送っていた顧問と監督、更衣室から出てきた部員たちが冨岡が帰ったことに気づき、咳を切ったように詰め寄ってきた面々に煉獄は思いきり囲まれた。
「あの子一年の胡蝶さんでしょ! まじでコーチと婚約してんですか!?」
「めっちゃ可愛かったんですけど。吐き気治まったくらい可愛かった。コーチずるすぎないですか」
「本当なんですか煉獄先輩! あんな可愛い子が婚約者とか許されて良いんですか!?」
「すまん、後は本人に聞いてくれ! 俺も帰る!」
 あまりの質問攻めに驚いて、煉獄も冨岡同様着替えもせず剣道場を飛び出した。本人に聞けたら苦労しない、と叫ぶ部員の声が聞こえたが、確かにそうだと煉獄は心中で同意した。
 何せ友人であろうと口下手で寡黙な冨岡から聞き出すのは容易ではない。部員ではにべもなくあしらわれるのが関の山だろう。
 それはそれで煉獄は良いと思う。冨岡の気持ちは冨岡が言いたい者にのみ言えば良いのだ。

*

 連れられるままに出てきた剣道場からの帰り道、冨岡は黙ったままだった。
 確かに公表して良いとは言っていたけれど、しのぶはどうすべきか悩んでいたのだ。まさか煉獄からバラされるとは思っていなかった。
 冨岡も想定外だったのだろう、周りのあの驚愕したような視線を一身に受けてしまい、照れてはいたがそれ以上に困惑しているように見えた。
「……大丈夫か」
 愛想のない顔が窺うように一歩後ろにいるしのぶを振り返り、一言呟いた。
 好奇の目に晒されるようになるのではと冨岡が言葉を続ける。多少覚悟はしていたけれど、恐らくしのぶや冨岡が思っていたより大っぴらにバレてしまった。
 どちらかというと剣道部の野次馬な視線は冨岡に多く向かっていたと思うが、そのせいか冨岡自身も非常に狼狽えていたように見えた。見知らぬ人からの質問攻めなど冨岡も無視するだろうけれど、落ち着くまで大変そうではある。
 許婚という関係を使って断っても良いと言ってはいたけれど、しのぶは言うべきかを悩んでいた。今も告白の断り文句には好きな人がいるとしか言っていなかった。
 本当はバラしたくなどなかっただろうに、しのぶはやはり申し訳ない気分になった。顔も知らない好きな人に冨岡が想いを伝える時、妙に拗れたりしなければ良いのだが。
 ——振り向いてくれない人なんか忘れて、私を見てって言えば良いじゃない。
 簡単に言ってくれるものだ。姉の以前の言葉が脳裏に過り、口にできたらどれだけ楽になるのだろうかと考えた。冨岡の好意の先にいるはずの顔も知らない好きな人のことを思い、しのぶは羨ましくなった。
「……冨岡さんこそ。こんなに騒ぎになると思わなかったんでしょう」
 しのぶだってもう少し水面下で事情が広がっていくものだと思っていたし、そう仕向けようとは思っていた。煮え切らないしのぶではなかなか言えずに告白も減らないままだったかもしれないので、煉獄には感謝すべきなのかもしれないが。
「好きな人に……言い訳考えておかないといけませんよ。誰かは存じ上げませんけど」
「自分だとは思わないのか」
「え?」
 小さく呟いた冨岡の声につい問いかけるように声を漏らし、顔を上げて一歩前を歩く冨岡の横顔を視界に入れた。手のひらで口元を塞いだ冨岡の目が驚いたように丸くなっている気がした。
「……何でもない。帰るぞ」
「あ、はい……」
 完全に後ろ姿しか見えなくなった三歩ほど先を歩く冨岡を眺め、しのぶはぼんやりと考えた。
 好きな人への言い訳はしのぶも考えてあげたほうが良いだろうか。さすがに許婚相手からの言い訳など女性からしたら嫌な気分になるかもしれない。冨岡が考えたというようにしておいて、アドバイス止まりが良いのかも、としのぶは考える。
 どんな人かを冨岡に確認して、その性格に見合った言い訳を作るのが良いのか。冨岡は嘘を言わないので、子供の口約束を告白除けに使っただけで何にもない、とはっきり伝えれば信じてくれるだろうか。下手に取り繕うよりはそちらのほうが心象は悪くない気がする。言葉選びにさえ注意してあげればどうにかなりそうではあった。
 誰かはわからない。知っている人かもわからないけれど、冨岡を嫌うようなことがないと良いが。
 ——自分だとは思わないのか。
 ふいに先程の冨岡の言葉を反芻し、しのぶは立ち尽くした。
「………、……え?」
 思わずといったように口元を覆っていた横顔を思い出し、聞こえていたものの深く考えなかった冨岡の言葉の内容をようやく認識した。
 何、それは。どういう意図でそんなことを口にしたのか。そんな言い方、まるでしのぶが冨岡の。
「……胡蝶」
 ついてきていないことに気づいた冨岡は、立ち竦んだまま動かないしのぶを呼ぶように声をかけた。
 顔が上げられず、しのぶは熱さで涙が出そうな面持ちで足元に視線を落としていた。砂利を踏む足音とともに視界の端に冨岡の足が見え、離れていた距離を縮めるようにしのぶの前へと戻ってきた。頭が混乱してうまく整理できず、しのぶは熱を持った顔を必死に冷まそうと手のひらを当てた。
「……なんで、真に受けるな、なんて」
「………。……まだ若いからこれからいくらでも出会いがある。会わなかった許婚なんかより普通に恋でもしたほうが良いかと思った」
 しのぶの言葉に諦めたのか、冨岡は黙り込んだ後言葉を紡いだ。
 冨岡はずっとしのぶの心情を想ってくれていたらしく、許婚とは別の人間に恋をした場合のことを考えていたようだ。確かに会わなかった期間は長いけれど、それならそうと言ってくれればしのぶだって冨岡の好きな人を誤解せずに済んだかもしれないのに。自分の勘違いだったのに、冨岡に責任転嫁するようなことを考えた後、好きな人自体はいることに違いなかったと考え直し、その人物のことを考えて更に頬に熱が集中するのを自覚した。
「……ちゃんと言ってくださいよ」
「言われても迷惑だろう」
「そんなこと……私、私は冨岡さんのこと、昔もでしたけど、今の冨岡さんのこと、が」
 その場の空気のようなものに流されたしのぶの口が、言うつもりなど毛頭なかった本心を言葉に表した。やってしまった。冨岡の顔が見られずずっと俯いたまま、しのぶは両手で顔を隠した体勢のまま固まった。
「……今決めなくても良い。卒業して狭霧荘を出ていくまでは三年もあるから、相手が変わることもある」
「そんな恋多き女に見えます?」
 しのぶの気持ちなどすでにわかりきっているだろうに、冨岡は許婚関係を解消させることばかり口にする。ちょっと酷いのではないか。
「変わりませんよ。ここまで好きにならせておいてそれは……無責任です。ちゃんと、責任取ってください」
 浮かされたように熱い顔を上げると、目を丸くしてしのぶを見つめる冨岡の顔にじわじわと赤みを帯びていく様子が視界に入った。
 甘露寺といる時には見なかった、しのぶの言葉で照れている姿。
 目の当たりにした姿にとんでもないことを口にしたのではないかと感じて思わず勢いが萎縮してしまったしのぶは、慌てて言い募るように口にした。
「……いえ! な、何でもないです! 帰りましょう!」
 しのぶの前に立ち止まっていた冨岡を追い越し、いつもより速いスピードで歩き出した。
 色々と混乱して妙なことを口にしてしまった。あまりの熱さと羞恥で死ねそうだった。
「……そうか」
 冨岡の声が耳に届いた瞬間、しのぶの肩が驚くほど震えた。足を止めたは良いが振り向くにはしのぶにとって相当勇気が必要だった。
「確かに保険が必要だな」
「何のですか!」
 必要だと感じたはずの勇気を振り絞るより早く、とにかく説明を求めるのが先だと感じてしのぶは振り向いた。何だ保険って。第六感のようなものが働き、何か妙なことを考えている気がしてしのぶは冨岡に詰め寄った。
「保険って何ですか。どういうことです」
「……三年のうちに好きな相手ができなければ、お前の言うとおり責任を取ろうかと」
「な、そ、そんな、キープする悪い女みたいなこと……そんなこと望むとでも思って……。だ、大体、冨岡さんだって三年もあったらきっと、変わるじゃないですか。そんなの、」
「俺は」
 見上げた冨岡の表情は、甘露寺を見つめていた時のように普段以上に穏やかに見えた。険しい顔がずっと貼り付いていたせいで、普段以上にそう見えてしまったのかもしれないけれど。
「ずっと胡蝶さん家のしのぶちゃんのことが好きだったから、これからも変わらない」
 大人になって八年前まで見ていたものとは少し違う、穏やかで柔らかい笑みを向けられ、しのぶの心臓がひと際大きく胸を叩いた。びっくりするほど体に衝撃が響き、固まったまま動けなくなった。辛うじて口だけは何とか開いて小さく呟く。
「………、……だ、ったら、良くないですか。……両想いじゃないですか……」
「そ、………、……そうか」
 眉間に皺を寄せて頬を染めた冨岡は恥ずかしいのかしのぶから顔を背けた。先程の目を細めたくなるような笑みもだけれど、今みたいに照れているのも目に焼き付けたくなるほど珍しく、しのぶの脳内は混乱が治まっていなかった。
「……ずっと悩んでた時間返してくださいよ」
「お前が勝手に甘露寺との仲を邪推しただけだ」
「嘘ばっかり。勘違いするような言い方してました。しかも最初に真に受けるなとか、親が勝手にとか、そんなことばっかり」
「それは、……悪かった」
 言い訳でもしようとしたような口振りがしのぶの顔を見て少し逡巡した後謝罪に切り替わり、冨岡はしのぶの頭へと手を乗せた。
 泣きそうな顔でもしていたかもしれない。宥めるような手のひらが歳の差を感じさせられたような気がして、しのぶは少々面白くなかった。
「子供扱いやめてください」
「してたら好きになってない」
「………! も、もう、バレた途端何なんですか!」
 しのぶが勘違いするくらい表に出さなかったくせに。そう、勘違いしたのは決してしのぶが鈍感だったせいではない。そう思っておきたかった。