部活

 居間へ降りると学校でたまに見る顔があることに気がついた。
 こちらへ気づいた伊黒がしのぶを下宿人だと紹介し、同じ学校の後輩だと口にした。狭霧荘の下宿人という言葉に慌てたように座っていた椅子から立ち上がった。
「剣道部員のあの被害者だな。その節はうちの部員が迷惑をかけた」
「煉獄は剣道部の主将だ。あのゴミカスの先輩にあたる」
「後輩の所業は俺の責任でもある。申し訳ない」
「え、いえ、私は何かされたわけでもありませんし」
 頭を下げた煉獄に慌ててしのぶは顔を上げるよう宥めた。
 あの時は一人ではなく姉も伊黒たちもいたし、何より冨岡がすぐに捕まえて警察に届けてくれたので大事には至らなかった。反省していたというし、次がないのならしのぶは騒ぐこともせず忘れてしまいたかったので、二度と近寄らないという念書を書いて終わらせたのである。
「それに、誰かの責任ということでもないと思いますし、気になさらないでください。あまり思い出したくないというか……」
「むう。きみがそう言うのならそうしよう。すまない。冨岡先輩から報告された時は心臓が破裂するかと思った!」
 剣道部は除籍処分になったようだが、その辺りはもうしのぶには関係のないことだ。
 大事にしないことをしのぶが望んだからか、冨岡は事の顛末を顧問と監督、主将にのみ話をしたらしい。新入部員が厳しさに耐えきれず退部していくのは良くあることらしく、部員内ではさほど話題にはならなかったようだ。
「何かあればすぐに言ってほしい」
「はい、ありがとうございます」
 溌剌として良く通る声で、正に好青年といった出で立ちだ。煉獄は伊黒と仲が良いらしく、今日はしのぶへ謝罪とついでに顔を見に来たのだと言う。
「冨岡めはきちんとやってるのか?」
「部活か? 相変わらずだぞ、しごかれた一年が毎度吐いている。まあまだ慣れていないだけだ、そのうち慣れるだろう。俺も慣れた!」
「煉獄は元々父上のしごきを受けていたからだろう」
 冨岡は相当厳しいらしい。コーチを打診したのは顧問だったが、煉獄も是非にと誘っていたそうだ。不死川や伊黒にも声をかけたらしいが、仕事だなんだと忙しいので頻繁に行くことはできず、比較的時間に融通の利く冨岡にお鉢が回ってきたようだった。
「伊黒もいつ来てくれてもいいぞ」
「面倒……まあ、自分の後輩がゴミ共ばかりでも嫌だからな、たまには顔を出す」
 忍び込んだ一年のことを考えたのか、伊黒は煉獄の誘いに頷いた。似た考えの部員が何人もいるはずないとは思うが、伊黒としても気になってしまうのだろう。
「全国大会の優勝候補だったと甘露寺さんに聞きました。皆さんお強いんですね」
「そうだな、先輩方がいる間は敗退しているところを見たことがなかった」
 候補どころか出場すれば大会を総なめにしていたと聞いた。実際の部員の言葉に驚いてしのぶは感嘆の声を漏らすと、照れたように頬を掻いて煉獄は笑った。
「先鋒の不死川が勝てば勢いがつくし、俺と冨岡が続けば大抵終わっていたな」
「あまりにまわってこないので俺と順番を代えてくれと言ったほどだ!」
 入部した当初から煉獄の実力は伊黒たちと同等だったらしく、大抵大将に置かれていたのだという。先輩である三人が先に勝ってしまうので、決勝まで行っても副将と大将の出番がないなどということがあったそうだ。
「代えたら代えたで不死川が文句を言うし、もうじゃんけんで良くないかと冨岡が言ったせいで喧嘩になったこともあったな……」
「あれほどまわってこない団体戦ならじゃんけんで良いと俺も思うぞ!」
 どうやら根に持っているらしい煉獄は、今はそれなりに大将まで番がまわってくるのだと言った。伊黒たちが抜け総合力が落ちたようだが、煉獄としても最後の年なので気合を入れて勝つと口にした。
「先輩に腑抜けたところを見られたくはないし、きみたちが抜けて狙い目だと思われても困る」
「とはいえ煉獄以外はゴミであることも事実だ。少しはましな奴でも入ってきたのか」
「長い目で見ることも大事だ。冨岡先輩のしごきに耐え抜ける者なら伸び代もあるだろう」
 しのぶは中学までフェンシング部に入っていたが、そこまで安定した結果を残すことはできなかった。団体戦では全国上位に入ったこともあるが、次の大会では敗退したりと敵チームとは接戦だった。産屋敷高校の剣道部には相当な実力者たちが集まったようだ。
「胡蝶は何か部活に入ってるのか?」
「いえ、帰宅部です。中学まではフェンシング部に入ってましたけど」
「フェンシング……詳しくはないが騎士道に則った競技だったか。うちにもあったと思うが入らなかったんだな」
「ええ。続けても良かったんですけど、のめり込むほどじゃなかったので迷惑かなと……」
 フェンシングは楽しいけれど、勝ち負けよりも楽しむことを目的としていたので、高校でもそんな考えではむしろ足を引っ張ってしまうのではないかと自重したのだ。しのぶが入学していると知ったフェンシング部員が誘いに来てくれたこともあるが、丁重にお断りして今に至る。
「そうか。まあ胡蝶の決めたことなら良いんじゃないか」
 どこの部にも勝ち負けに拘らない者はいるかもしれないが、やはり大会に出ることを目標としているだろう部に在籍するにはしのぶの考え方は迷惑になりそうだ。煉獄の話を聞いていても勝利を目標に掲げている。
「で、冨岡は何をしてるんだ?」
「ああ、悲鳴嶼先生と話をしていたのでな。先に行って良いと言うので来た」
「悲鳴嶼先生か。団体戦のオーダーなら煉獄も呼ばれるだろうし、何かやらかしたか?」
「さて、俺にはわからん。部のことなら俺にも話してくれるだろうが」
 しのぶのクラスの担任であり剣道部の顧問でもある悲鳴嶼は、大きな体躯で見下ろされると最初は驚くものの、猫好きで優しいので生徒の間でも人気がある。部活中は冨岡のしごきをもっと厳しくても良いと言うらしく、全く優しさはないようだが。
「お、帰ってきたか!」
 噂をすれば居間に冨岡が顔を出し、煉獄の挨拶に相槌を返した。悲鳴嶼先生から貰ったと呟いてビニール袋をテーブルに置いた。袋の口からじゃがいもが大量に飛び出している。
「さつまいもじゃないのか」
「ない。持って帰るか」
「いや、良い。冨岡先輩にと渡されたものだろう」
 しばらくじゃがいも料理が続きそうな量である。カレー、肉じゃが、ポテトサラダあたりだろうかとしのぶはぼんやりと考えた。
「胡蝶はフェンシング部に入らないのか」
 先程話題に出たばかりの単語が冨岡の口から紡がれ、しのぶは瞬いて顔を見上げた。大会でかなり良い成績を残したことがあると聞いたと続けた。
「部員が悲鳴嶼先生に相談に来たそうだ。是非入ってほしいが一度断られたと」
「何だ、そんなに強いのか。勿体無いな」
「狭霧荘に下宿していると知って相談されたのか」
 伊黒の指摘に冨岡が頷く。悲鳴嶼が呼び止めて帰るのが遅くなったのはその話もあったようだ。
 さほど勝ち負けに拘りのないしのぶが入部しても悪影響になりそうだが、部員たちはそうは思わないらしい。わざわざ担任にまで相談するのなら、人数が少なくて苦労しているのだろうか。
 正直そこまで誘われてはしのぶも思うところはある。部活に打ち込む気のないしのぶでも良いと言うのなら入部しても構わないが、帰りが遅くなると少々思い出すことがあるのだ。
「勝ち負けに拘りがないので、遊び半分だと部員にも悪いと思うんですけど」
「それは部員と話をすれば良い。顧問やコーチのような形でも構わないと言ってたそうだ」
「ああ、成程……でもほら、ここもお風呂とかの時間が決まってるじゃないですか。帰る頃には過ぎるでしょうし」
「言ってくれれば時間の変更くらい考えるが」
「あ、はい……ううん……」
「そこまで渋るのは何か気掛かりがあるのか?」
「ええと……」
 しのぶの個人的な事情というか、ちょっとしたトラウマのようなものなので少し話すのを逡巡した。部員たちに話すかはともかく、とりあえずここの面々には言ってみるべきかと考え直して口を開いた。
「……あの、あまり夜一人で出歩きたくないんですよね。その、中学の時に追いかけられたことがあって」
「成程、それは……災難だったな」
 言葉を選んで口にした煉獄にしのぶは笑みを向けた。
 三年の時、部活帰りの一度だけだったが、あまりの恐怖に引退まで同じ方向へ帰る子と一緒に帰っていた。二人で背後を気にしながらの帰り道は、部活で疲れきっている体には堪えるものだった。
 この間の件といい、いざ何かが起こると冷静な判断はできなかったので、冨岡の剣道のようになかなか実用には程遠い。
「それなら冨岡と帰ってくれば良いだろう。許婚なんだから顎で使えば良い。腕っ節しか取り柄などないんだからな」
「待て、そうだったのか!? 知らなかった!」
 伊黒の言葉に煉獄は椅子ごと倒れそうになりながら驚いた。いちいち言うなと伊黒を諌めた冨岡を眺めながら、しのぶはそういえば二人ともここに帰ってくるのだと改めて思い出した。
 カナエの言っていたことが脳裏に過り、困惑した顔に熱が集まってくるのを自覚した。
 私を見てとまではさすがに言えないけれど、一緒に帰るくらいなら冨岡も好きな人を気にせずにいてくれるのではないだろうか。少々緊張しながらしのぶは口を開いた。
「……それなら、たぶん、帰りは大丈夫だと思います」
 少々目を丸くした冨岡がしのぶを見つめるので、自分が何かとんでもないことでも言ってしまったかのような気分になった。ただ一緒に帰ることを頼もうとしているだけなのに、物凄く恥ずかしくなってくる。
「ふん、どうせなら学校でも言い触らしておけ。虫除けに丁度いいだろう」
 剣道部の一年の所業のことを言っているのか、しのぶが学校で告白されることを知っているのか。伊黒はしのぶの現状を把握しているかのような口ぶりで更に提案した。さすがにそんなことまでは望んでいないし恥ずかしい。しのぶの頬がどんどん熱くなってきた。
「伊黒」
「黙ってろ。貴様が煮え切らん態度でいるから胡蝶に集るゴミ虫がいなくならんのだ。甘露寺が告白現場を何度も見るようになったと言ってたぞ」
 甘露寺からしのぶが告白されていることを聞いていたらしい。
 煮え切らないとは言うが、冨岡には好きな人がいるのだ。それなのに許婚を公表するなど冨岡には無理だろう。相手がどこにいるのかわからないが、妙なところで話が伝わったりするかもしれない。
「胡蝶は告白に迷惑してるのか?」
「え。え、ええと……まあ、その、受ける気はないです。断り続けるのも悪いですし、迷惑、といえばまあ……」
「成程。なら公表したほうが楽になるだろうな!」
 祝い品を持ってこなければ! と嬉しそうに笑う煉獄は、もっと早く教えてくれとまで冨岡に言っている。
「用事ができた! 急いで父に伝えなければならん!」
「待て、煉獄! 言うんじゃない!」
「貴様はさっさとじゃがいも料理でも作ってろ! 煉獄、俺も連れて行け」
「伊黒!」
 颯爽と玄関から飛び出していった二人に呆然と立ち尽くしながら、やがて意識を戻した冨岡は頭を抱えて大きな溜息を吐き、じゃがいもの入ったビニール袋に手を伸ばした。
 妙な空気にして二人きりにしないでほしかったが、しのぶもどうしていいかわからずその場から動けなかった。顔が熱いのが収まらず、少々視界が揺れてきている。
「………。……胡蝶が、楽になるなら公表しても構わないが」
 散々黙りこくった後にようやく口にした言葉に、しのぶは驚いて冨岡の顔を凝視した。いつもと同じに見える表情は、ほんの少しだけ照れたように頬が赤かった。
「……本当に良いんですか? 揶揄われますよ」
「俺より胡蝶が言われると思うが。俺は部活中しか学校にはいないし、一年なら知ってる者も少ないだろう」
 割としのぶのクラスでもすでに話題になっているのだが、そこまで冨岡は知らないのだろう。剣道部のコーチが格好良いなどと、一部の女子生徒が騒いでいることはしのぶの耳にも入ってきていた。
「……でも、その、良くないんじゃないですか? 冨岡さんの好きな人のこととか」
「俺は、」
 途中で切れた続きの言葉をしのぶは黙って待った。何を言うつもりなのかわからず俯いてしまい、少しばかり不安になる。
「……胡蝶が困ってるならできるだけ手助けしたいと思う。好きな相手ができるまでの間、告白を避けたいなら使えば良い」
「……はい、ありがとうございます」
 好きな相手ができるまで。以前特にいないと言っていたのを覚えていたのだろうか。好きな相手などすでにできているのだが、冨岡は気がついていないらしい。
 姉にも言われていると呟いたのが聞こえ、カナエが言っていた言葉を思い起こす。しのぶを守ってね、と口にしていたカナエの言葉に律儀に応えようとしているのだろう。
 優しいなあ。でもきっと、しのぶ以外にも向けられている優しさだ。嬉しいと思う反面、しのぶの心は重しでも乗せられたかのようにじわりと重くなった。

*

「母上! 許婚がいる相手にお祝いを贈りたいのですが!」
 騒がしく帰ってきた息子に目を丸くしながらも出迎えた煉獄の両親に、伊黒も挨拶をした。
 幼少から知っている煉獄家の面々と伊黒は良好な関係を築いているが、最近は顔を出しておらず煉獄の父である槇寿郎は久しぶりだと口にした。
「で、許婚がいるとは?」
「冨岡先輩に許婚がいたのでお祝いをしたいのです」
 口元に手を当てて感嘆の声を漏らした母瑠火と同様驚いたように片眉をぴくりと上げた槇寿郎は、へえ、と相槌を打って話を促した。
 剣道部に在籍していた頃、出稽古と称して煉獄道場には良く来ていた。だから伊黒だけでなく冨岡や不死川とも面識がある。何なら部員たち以上に遊びに来ていたので、槇寿郎も瑠火も狭霧荘に住まう面々のことは良く知っていた。
 知り合いになったのか、と冨岡の許婚について槇寿郎は問いかけた。
「冨岡めが呼びつけて今狭霧荘に住んでいますから」
「呼びつけ……そうなのか? 本当に? 彼が?」
「俺も又聞きなので多少違うかもしれませんが、狭霧荘にいることは間違いありません」
 無口で受け身な冨岡を思い浮かべたのか、どこか懐疑的な槇寿郎は伊黒に何度も問いかけた。普通に進学のために下宿し始めたのは知っているが、どうせ許婚同士、多少色をつけて話しても構わないだろう。返答した言葉に瑠火が目を輝かせて食いついてくる。
「ひとつ屋根の下ですか!」
「ひとつ屋根の下です」
「別に良いだろ下宿屋なんだから……」
 瑠火の食いつきに少々引きながら槇寿郎が突っ込みを入れるが、瑠火の琴線に触れたらしく普段の落ち着きはどこかに行ってテンションが上がっている。
「成程。結納はまだなのですか」
「正式な婚約はまだです。あの冨岡がそんなことをできるはずもなく」
 額を押さえて大袈裟に溜息を吐き、相手の年齢を聞かれたので高校一年だと伊黒は答えた。正式にしないのは学生だからだろうかと瑠火は一人納得したようだった。
「若すぎるかもしれませんが……しかし冨岡が煮え切らないので胡蝶が不憫でならん」
「何故煮え切らないんだ?」
「さあな。冨岡が胡蝶の許婚であることに何やら引け目を感じてるようだが」
 確かに冨岡は対人に難のある面倒な奴ではあるが、ゴミカスの後輩の時のように何かあった時は割と役に立つ。口下手にさえ目を瞑ればあれ以上というのは不死川や煉獄くらいしかいないのが現状だ。まあ、伊黒の勝手な分析ではあるが。
「顔が真っ赤だったな。あれは冨岡先輩のことを憎からず想っているだろう」
「煉獄は正しい。どう見ても胡蝶は冨岡に惚れてるのに、どんな引け目か知らんがあの阿呆は救いようのない阿呆だ。女子生徒をこっ酷く振る時のようにはっきり言えば良いものを。冨岡だって胡蝶に惚れてるんだぞ」
「ああ、まあ、そんな気はした。成程、両片想いというやつか! そうか、春だな!」
 そんな言葉を知っていたとは。少々意外に感じつつも煉獄とあの二人について話していると、段々気になってきたのか槇寿郎まで瑠火と一緒になって頷きながら聞いていた。剣道一筋だった息子の友人の一人に春が来たことを素直に祝いたいのか、それとも興味本位かはわからないが。
「全くもだもだと鬱陶しい。職権乱用でもして早く既成事実でも作れば良いものを」
「何、きみが言うのか」
「だ、おっ、な、なんだ煉獄。どういうことだ」
「いや、きみも大概もだもだしているからな。早く甘露寺に言ってやれば良いと思うぞ」
 調子に乗りすぎたのか、突然伊黒の話にすり替わり言葉を詰まらせて動揺した。顔に熱が集まってくるのを自覚しながら、瑠火の輝く目が伊黒に定められたのを見た。
「詳しく聞いても?」
「どこもかしこも春だな」
「そう、春なのです。祝い品を何にすれば良いか相談に乗っていただきたいのですが」
「ああ、まあ……瑠火が落ち着いたら聞くと良い」
 手首を掴まれ居間まで引っ張られていく伊黒を尻目に、煉獄とその父は二人別の話題に花を咲かせ始めている。助けてくれても良いのではないかと思うが、もだもだしていると思われていたので煉獄は伊黒にもさっさと関係を進めろと言いたいのだろう。それと瑠火の質問攻めは違うと思うが、大っぴらに惚気たいならば早く言えとせっつかれている気分になった。
 冨岡をせっつきに煉獄家へ訪問したはずなのに、予定が狂って伊黒は大いに焦っていた。