騒動
「ええと……ひょっとして義勇くん? 私しのぶの姉のカナエよ。覚えてるかしら」
「……ああ、覚えてる」
八年ぶりに会った幼馴染は困惑しているような顔を見せた後、小さく頷いてカナエの問いかけに答えてくれた。
小学校低学年まで近所に住み同じクラスでもあった義勇は、お互いの兄弟含めて仲良くしていた。穏やかで物静かだった義勇と学校帰りに寄り道をしたり、連れ出しては妹とともに公園で遊んだりしていたのを思い出す。
印象は随分変わっていたけれど、面影のようなものも少しだけ感じられてカナエは笑みを向けた。
「わあ、変わってないわね」
居間に通されカナエは室内を見渡し、下宿人である面々に挨拶をして出された湯呑みを手に取った。
玄関先で何やら騒いでいたけれど、義勇に腕を掴まれていた女の子は少し落ち込んでいるような様子を見せていた。何があったのか少々気になるものの、しのぶにあまり元気がないのも気になってしまった。
両親は許婚の話を楽しそうにしていたけれど、カナエがここに来る前、電話口でしのぶはその件について話を進めるつもりはないのだと言っていた。下宿の準備をしていた時は隠していたようだが期待するようにそわそわとしていたのに、なかったことにしたいとだけしかカナエには教えてくれなかった。
意地っ張りだからなあ。妹の性格を思いながらカナエは楽しみにしていたのに。
「あのお爺さんは今も住んでるの?」
「先生は隠居してる。今はここにいるので全員だ」
「そうなんだ。お姉さんは?」
「結婚して出ていった。たまに来る」
相槌を打ちながらカナエは義勇に問いかけた。
言葉少なに答える様子は小学生の頃と随分違うけれど、物静かさはあまり変わっていないように見えた。
「しのぶ、迷惑とかかけてない?」
「それはない」
しっかりしているしのぶが迷惑をかけているとは思っていないが、話題として口にすると義勇は間髪入れずに否定した。窺うようにしのぶが義勇の顔を見上げたのが視界に入り、カナエは嬉しくなって笑みを深めた。
部屋を見たいと口にして、カナエはしのぶとともに二階へと上がるために居間を出た。
「さっきの何だったのかしらね」
「さあ……」
元気のないしのぶの様子を気にしながらも、下宿している部屋へと足を踏み入れた。整頓されている部屋には昔から持っていたぬいぐるみも置いてあり、実家の自室より少し広い部屋は住みやすそうだった。
「あの女の子もここに住んでるの?」
「ううん。甘露寺さんは遊びに来てるだけ。ずっと通ってるらしいわ」
「へえ。確かに楽しそうだものね」
両親から渡すよう頼まれたものをしのぶに渡し、カナエは窓の外を見た。広いベランダが見えて洗濯物がたなびいている。陽当たりも悪くなさそうだった。
「義勇くん格好良くなってたわね。しのぶの言ったとおりだわ」
「……そうね」
しのぶの表情は晴れないままだったが、ほんの少しだけ頬が色づいているのが見えた。しのぶが男の子の見た目を褒めるなど初めてで興味津々だったのだが、カナエは見た時成程と思わず納得してしまったほどだ。割と小学生の頃から可愛い顔はしていた。下宿人の中にも随分見た目が派手な人はいたが、しのぶの好みに合致してしまったのだろう。義勇のことを昔から大好きだったから、そのせいかもしれないが。
「許婚解消したいなんて言うんだもの、義勇くんが嫌なのかと思ったけど、そうじゃないのよね」
「……好きな人がいるんだと思うの」
「義勇くんに?」
そうなのか。まあ確かに、八年も会わなければ別の人に恋をしたりもするだろう。しのぶが許婚を解消したいのはそのせいだったかとカナエは少し寂しく感じた。
忘れないでと言ったのに、子供の約束ではさすがに難しかったようだ。
「確かめたの?」
「……その人が好きってことは否定してたけど」
「知ってる人なのね。でも否定したなら違うんじゃない。しのぶの勘違いじゃないの?」
「見てたらわかるわよ、目が違ったもの」
見てたのかあ。カナエの思っていることが雄弁に伝わったらしいしのぶが頬を更に染めた。違う、と否定しているが、カナエからすれば何が違うというのだろう。義勇の好きな人云々はともかく、しのぶ自身は義勇が好きなのだ。せめて頑張って伝えるくらいはしても良いだろうと思うのに。
「まあたとえ義勇くんに好きな人がいても、三年下宿すれば気持ちも変わるかもしれないじゃない。卒業まで考えてみたら? 勿論しのぶに他に好きな人ができたら解消して良いと思うけどね」
「……どうするのよ、変わらなかったら」
「その時はその時、私の胸で泣いていいわよ。しのぶなら絶対大丈夫だと思うし」
困ったように眉尻を下げて、しのぶは唇を尖らせて黙り込んだ。
少し無責任だったかもしれないが、本人が否定したのならしのぶが疑惑を持つ相手は本当に違うのではないかと思う。義勇が昔のままなら嘘は言わないと思うからだ。
「本当に好きな人がいるなら、はっきり聞けば教えてくれるかもしれないわよ。案外しのぶのことだったりしてね?」
「まさか」
「わからないわよー、昔は義勇くんもしのぶのこと大好きだったし」
しのぶの部屋で話し込んでいると、もうすぐ夕飯の時間だと教えてくれた。カナエは今日泊まる予定ではあるが食事までご馳走になるわけにもいかないと思い、しのぶに外に食べに行かないかと提案した。
「でも作ってくれてるものを食べないのは……」
「ああ、そうよね。先に言っておけば良かった。じゃあ何か買ってくるからしのぶはここのご飯食べて」
部屋のドアを開けて風が吹いたことに違和感を抱いて、廊下の突き当たりの窓へ目を向けた。開いた窓から人の影が侵入しているのを目の当たりにしてカナエは唖然とした。ひょっとして下宿人かと考えたが、義勇は昼間居間にいた面々が全員だと言っていたのを思い出した。廊下の電気がついておらず良く見えないが、人影はその時見た下宿人の誰かではなかった。
泥棒、と小さく呟いたしのぶの声に、唖然としたままだったカナエは息を呑んだ。思いきり鉢合わせてしまい身の危険を肌で感じる。じりじりと近寄ってくる影の手に長いものを持っているのが見えた。
人生で初めて出した大きな悲鳴が口をつき、怯んだように見えた影からしのぶを庇おうとしたが、カナエを影から離し階段側へ押し退けようとするしのぶの手を掴んで引っ張りながら階段を騒がしく駆け降り、光が漏れている居間のドアを乱暴に開けた。
「ど、ど、泥棒! だと思うの!」
泥棒かどうかはカナエには判断がつかず狼狽して曖昧な言葉になってしまったが、台所に立っていた義勇はしのぶの肩を押して居間にいろと一言呟いた。どこかから取り出した竹刀を手にしてドアを開けた。
「あ、ま、待ってください。棒みたいなの持ってて」
「あー、放っとけ放っとけ。竹刀持たせりゃ負けねえから」
「用心棒も兼ねてるからな。甘露寺、危ないからここを出てはいけない」
「俺らは楽できて良いがなァ」
久々だな、と楽しげに笑う宇髄は全く心配しているように見えず、パニックになりかけていたカナエがおかしいのかと困惑してしまった。
義勇が出た後を宇髄が追って階段近くに身を潜め、カナエとしのぶ、甘露寺たちもその後ろに隠れるように忍んで様子を窺った。二階に上がった義勇の背中を見守るように顔を出した。窓から逃げようとしている影が見え、義勇に気づいた影が持っていた棒を構えるのが見えた。
「見えねえ」
野次馬と化した宇髄が階段の電気をつけ、影の姿が照らされた。眩しそうにしたあと顔を手で隠している。
手で隠す前に見えた顔が思ったより若そうに見えてカナエは少し驚いた。
「……お前、剣道部員だな。一年の木村」
義勇の言葉に驚いたのはカナエだけではなく、不死川は不快そうに眉を顰め、甘露寺は口元を押さえて目を丸くしていた。後輩かよ、と面倒そうに呟いた宇髄は、溜息を吐いて頭を乱暴に掻いた。
「……うっ、うわああ!」
棒を振り回して暴れ始めた泥棒に、義勇は最小限の動きで文字通り仕留めた。たったひと振り竹刀を振っただけで相手は蹲って呻き声を上げている。何が起こったのかわからずカナエは唖然としてしまった。しのぶに視線を向けると似たような顔をして見つめていた。
「全く、ゴミカスのような後輩がいるものだな。冨岡の監督不行届だろう」
「日頃の恨みでも晴らしにきたかァ?」
「お前らの後輩でもあるのになあ」
終了したとばかりに階段に潜めていた体を起き上がらせ、男性三人は二階の廊下へ上がろうと動き出した。困惑と恐怖と安堵とが入り混じった複雑な心境になっているのはカナエたち女子だけのようで、三人顔を見合わせて体を寄り添わせた。
「甘露寺たちは戻ってると良い。もう大丈夫だから」
「あ……う、うん。そうね……でも、」
「伊黒、付き添ってやれよ。女だけだと不安だろ」
宇髄に促され伊黒の後をついて居間へと戻り、大きな溜息を吐いてカナエたちは座り込んだ。まさか泥棒に出くわすなどとは、更に義勇の後輩などとは思ってもいなかった。
「怖かったね、しのぶ。危ないことしちゃ駄目よ」
泣きそうな顔を見せてカナエを振り向いたしのぶは、ほんの少し目が潤んでいるように見えた。カナエ自身も甘露寺も似たような顔をしていたが、さすがというべきか伊黒は大して驚いてはいないようだった。
「伊黒さん、凄いわ。全然動じないんだもの」
「まあ、長く住むとごくたまにああいうのに出くわす。どうせ返り討ちに遭うだけだがな」
「それってさっきみたいに義勇くんが捕まえるの?」
「ああ。先代の大家もああして捕まえては警察に突き出していた。恐らくここの大家になるには腕っ節の強さは必須項目なんだろう」
本当か冗談かいまいちわからないが、とにかくたまにあることは事実らしい。簡単に侵入され、鍵も取り替えなければならないのではないか、と伊黒はぼんやりと呟いた。
「ちょっと良いか」
居間のドアを開け困った顔をした義勇がカナエを廊下へ呼んだ。剣道部の少年は警察に引き渡し、宇髄と不死川も居間へと戻ってきた。
「……胡蝶がここに下宿してると知って忍び込んだらしい」
「……しのぶ?」
カナエの問いかけに頷いた義勇を眺めた。
警察を呼んでしまったので少年の所業は親にはバレるだろうが、逆恨みなどで今後報復に来るかもわからない。今日はカナエがいるので不安は少しはましになるだろうが、そもそもこの話を聞かせるべきかを悩んでカナエに先に話したらしい。緩んでいて開けやすくなっていたらしく、窓の鍵はつけ直すが、と続けた。
「もっと安全なマンションにでも引っ越したほうが良いと思うが……」
「そうねえ……しのぶに聞かなきゃわからないわ。あの子当事者で蚊帳の外になるの嫌がるし、たぶん聞いたほうが気持ちもましだと思うのよね」
「そうか。お前がそう思うならそうしてくれ」
姉だからかしのぶのことを相談してくる義勇を眺め、気を遣ってくれていることにカナエは笑みを漏らした。
愛想がなくなっても義勇は義勇だ。昔と変わらず優しいし、先程だって格好良かった。
「しのぶ」
居間に戻ってしのぶを呼び、座り込んでいる前にカナエも座った。先程の少年が忍び込んだ理由がしのぶにあることを説明すると、泣きそうだった顔が不快そうに顰められた。
「話したこともないわよ」
「剣道場の前を通る時を見てたらしい」
少しだけしのぶの肩が揺れたことにカナエは気づいたが、しのぶは黙って義勇の話を聞いていた。
「こんなことがあって怖いと思うから、引っ越したらどうかって義勇くんは言うんだけど」
「引っ越し……」
「こいつの監督不行届なんだから引っ越し代くらい払わせれば良いだろう。ここは空き巣も不審者も忍び込んでくることがあるんだしな」
居間で聞いていた伊黒が口を挟み、義勇が困ったように眉を顰めた。
監督不行届とは言うが、しのぶ目当てに来た少年がたまたま剣道部所属だっただけで、義勇は関係ないとは思う。恐らく伊黒も本心から思っているわけではないだろうが、彼なりの場の和ませ方なのかもしれない。
「監督じゃないんだが……まあ、たまにこういうことがあるのは事実だ。提示してくれれば払う」
「そこまでお世話になるわけには……」
ほんの少し潤んだしのぶの目が義勇を見つめた後、膝の上の手元に視線を落とした。
しのぶは気が強いが、さすがにこうはっきりと自分のストーカーが現れては不安にもなるだろう。支払いが誰になるのかはともかく、しのぶが安心できるようにしなければならない。
「それに、一人で住むよりはここで誰かがいてくれたほうが……」
頼りになる男手はいるし、目の当たりにしてしまった手前、義勇さえこの狭霧荘に居てくれればどうにかなることがわかってしまった。カナエからすれば、ここほど安心できる場所はないのではないかと思うくらいだ。しのぶの気持ちは良くわかる。
「それなら引っ越さなくても良さそうだな。まあこいつさえいりゃ適当に殺して警察に突き出してくれるしよ」
「殺してない」
「竹刀じゃなけりゃ殺してそうだけどなァ」
「家賃減らしてくれんなら俺用心棒してやるぜ」
減らすなら俺も、と妙な交渉を始めた男性陣を眺めながら、カナエはしのぶの顔を覗き込んだ。このままここに居ることをもう一度確認し、頷いたしのぶを見て笑みを向けた。
「じゃあ引っ越しはなしね。しのぶをよろしくね義勇くん。この子意地っ張りだけど本当は怖かったし凄く感謝してるのよ、義勇くんが格好良くて見惚れちゃって」
「え……姉さん、ちょ、ちょっと、やめて、本当に、」
ぎょっとしたしのぶがカナエにしがみついてくるが、気にせずカナエは義勇へ話しかけた。忍び込んだ少年に恐怖を感じていたのはそうだが、惚けたように眺めていたのを見たのだ。視線はずっと義勇を見つめていた。
顔を隠すようにカナエにしがみついているしのぶの耳が真っ赤になっているのが見えて、素直になりなさい、と頭を撫でた。
義勇の眉がハの字になり、頬に赤みが差していることに気づいた。
「私もそう思うわ! 格好良かったもの」
顔を上げたしのぶが驚いたようにカナエを見るので、カナエは楽しげに笑みを向けた。本心ではあるが、少々揶揄いの気持ちも混じっていることは自覚している。
「だからね義勇くん、しのぶのことお願いね。今回みたいなことがあって不安だと思うの。私の妹絶対守ってね」
「……ああ」
詰め寄って手を取り頼み込むように言ってやれば、勢いに飲まれたように義勇は茫然と頷いた。カナエは思わずガッツポーズをしてしまったし、居間の隅で見ていた甘露寺から嬉しそうな歓声が聞こえてきた。
再び泣きそうな顔を見せたしのぶは、心底困惑したままカナエと義勇を眺めていた。